少年の決断②
野菜包丁を固定し、レンコンの方を動かしながら皮を剥いているオヤジが、ルイの言葉を引き出す為に口にする。
客観的な意見を言って欲しいのだろうが、その部分を晒してもらわないと、言いたくてもいえない。
そんな雰囲気を察した少年は、組んでいた腕を解き癖っ毛の髪を掻きながら、口を開く。
『オレがさ、リリィとこれからまだ友だちの段階だろうけれど、どんな事を気にしておけば良いと思う?。一応最終的に目指しているのは、結婚だけれどさ』
『とっとっとっとっ!』
まるで鶏の鳴き声の物真似の様な声を出して、オヤジが手していたレンコンが宙に飛び、それをルイが土に着く前に見事にキャッチしていた。
『何だよ、オッサン。何をそんなに驚いているんだよ、オレがリリィを好きなのは知っているだろう?』
半分程皮の剥けたレンコンを差し出しながら、不思議そうにルイは首を捻る。
『いや、やんちゃ坊主があの可愛らしい女の子を好きなのは勿論知っている、知っているとも』
そのきっかけの場所がこの店なったのは、この店の主として喜ばしい事でもあった。
『ただ、なんだ、精々今の段階じゃ、最終目的は"両想いになりたい"程度の話だと思っていたから。
坊主がまずは両想いになる為の、一般的なアドバイス位なら出来るつもりでいたからな』
そう答えながら、オヤジは改めてレンコンを剥き始めると、ルイは口角をあげて笑顔を作る。
『両想いは完璧じゃないけれど、オレの事はもう確り意識してくれている様にはなっているとは思うんだ。
後は、もっとオレの事を意識してもらうにはどうしたらいいだろうなって』
自信たっぷりに言うルイの姿で、一緒に行った農業研修で距離感はオヤジが考えている以上に狭まっているのだろうと、頷いた。
『だったら、後はもう地道に地盤を固めて行くことだな。
結婚したいとかは、ちょっと表現がストレート過ぎるから、リリィも照れるだろう。
それとなく将来、一緒にいる姿はルイ・クローバーなんだろうなと意識できるように、日々過ごしていくのが良いんじゃないのか』
『そうか、やっぱり地道に長くやっていくしかないか。まだオレもリリィも、法律で結婚できる年じゃあないしな』
どうやら、距離を縮め、リリィとの縁を固くしようとする為の意見を求めて来た少年は、片手を腰にあて、まだ子どもの為に小さい顎を掴んで掻く。
その様子に、呆れたような感心したような気持ちを抱きながらも表所は笑顔だった。
『そうだな、後は最終的な目的の時に、お嬢ちゃんの保護者になる賢者や、任期契約か本採用かは知らないが、あの顔の整った護衛騎士で、新人兵士のお兄さんに気に入られる事は勤めた方が良いんじゃないかな』
それから今度は、オヤジの方が包丁を握っている手を自分の顎に手を当てた。
『うーん、でも思えば賢者っていうのは変わり者という話を昔から聞く』
その意見にルイは自分の顎に当てていた手を、今度は人差し指で頬を掻く形に変えて、八重歯を見せながら、苦笑いを浮かべていた。
『ああ、賢者殿が変わり者っていうのは認める、本当に見た目からして変わっているからな。
でも、もうオレが馬鹿な事さえしなければ、あの賢者殿なら認めてくれるとは思う。
うちのオッサンとも、どうやら昔から知り合いだったみたいだし』
やたら"見た目が変わっている"という部分を強調される賢者だが、ルイの保護者の大農家のグランドール・マクガフィンとの関係は良好そうなのが、ルイのこの発言で見て感じ取れた。
(いや、大農家としてよりは、英雄として賢者殿と親しいのかもしれないな)
10数年前にあった世界規模の天災の時期に、勿論まだ店など構えているわけでもなく、オヤジは王都の大きな食堂の調理場で、城壁の外から通う新米料理人の若造だった。
そんな若造でも、その原因解明に各国の英雄と賢者が活躍したのは知っている。
特に、英雄に関してはセリサンセウムという自国の英雄達が、諸国の侵略を退けた上での活躍で、それを機に世界はまた落ち着いたようになったのが印象に残っていた。
それ以降は、どの国も復興に忙しく、国民も感謝をしつつも英雄の存在は薄れていった。
一応、当人達が名前を表に出すのを承諾したという事で、公布されたグランドール・マクガフィンとアルセン・パドリックぐらいは汁屋のオヤジでも知っている。
それでもグランドールの事も、ルイが肉のスープが好きだからと、ここを見つけて贔屓にしてくれて出来たので、名前と姿が一致した位の話でもあった。
賢者に関しては、何やら政 に関わってはいけないという決まりごとはあるという話は、昔から伝えられている事で、その研究に必要のない限り名前を表に出す事はないのもよく知られている話でもある。
ただ、助けを求められたなら、大概の事は知恵を貸してくれるそうなので、姿と名前は知らなくても賢者の存在を国の大体ものは知っていた。
(思えば、農業研修には参加しているのなら、必要以上に表に出たり、目立つのが嫌だという事だけになるのか。
それにあのお嬢ちゃんの保護者なら、芯の部分が確りしているのが、あの振る舞いでわかるな)
最初にルイとこの食堂で出逢った時も、負けん気強く言い返したりしていたけれど、基本的に礼儀正しい、やんちゃ坊主の言う通りの優しい少女だと思えた。
ただ、保護者の事が大丈夫となったなら、"地固めとして"汁屋のオヤジの頭に浮かぶのはリリィという少女の護衛騎士―――正確には、賢者の護衛をしているだろう、顔の整った爽やかな少年の姿だった。
『思うんだが、あの新人兵士のお兄さんは結構姿見の良いお兄さんだから、その地固めの方が逆に難しくなるのか……』
汁物屋のオヤジが上手く言葉を纏められないのは、少しばかり口に出しにくい事だからでもある。
その言い難そうな様子と、レンコンを剥く速度が落ちたことでルイは、相談に乗って貰っている相手が考えている事には予想が付いた。
『ああ、アルスさん―――賢者の旦那と、リリィの護衛騎士の格好いい金髪の兄さんの事なら、大丈夫。
リリィも、気持ち的にはお兄さんみたいにしか、今は思ってないみたいだし。
そのアルスさんは、年上が好みみたいなんで、リリィが例え憧れを抱いたとしても、今の所は大丈夫』
ルイがニッと八重歯を覘かせ自信を含んだ笑みを浮かべたなら、オヤジの手の動きが眼に見えて滑らかになる。
『何だ、その新人兵士のアルスっていう兄さんとも、腹を割って結構深い所まで話しているんじゃないか。
それなら、もう別にここで相談もすることもないだろう?』
もしあの顔の整った優しそうな、少女と同じ場所で働いてもいるという新人兵士が、ルイの味方をしてくれているというのなら、汁物屋のオヤジの出る幕などないと思える。
そしてやんちゃ坊主の方は、相談に乗って貰っている相手が、やはりこの説明の流れだと誤解してしまったという事が判り、急いで訂正の言葉を口にする。
『あ、その実を言えば”アルスさんは年上が好き”という話は、本人から聞いたわけではないんです。で、オレの相談の本番はこれからなんすよ』
『何だ、結構な長い前置きになったなあ』
そう答えた時、煮物に使う根菜の皮を全て剥き終えた物を入れた鍋を抱えていた。
『まあ別に話しながら出来る準備だから、ちっとも構わないが、じゃあ厨房に移動して続けよう。
包丁を運んでくれ』
『はーい』
ここでも前なら"うん"という言葉で返事をしていそうな、やんちゃ坊主がややふざけつつも、確りと返事をしたので、思わず笑った。
『それでは尋ねるが、護衛騎士のアルスさんの女性の好みなんてどこで知る事が出来たんだ?』
ゴロゴロと皮を剥いた野菜を鍋に移して、夕刻から売り出す煮物の下茹でを始めながら尋ねる。
『簡単にいえば、教えて貰ったんだ。
オレは軍の"仕組み"はよく知らないけれど、その人はその中でも情報を集めるのが専門の部隊で、領主さんと文通友達でもあって、別の仕事でロブロウに訪れてた。
で、その人は結構優秀で、さっきの話した儀式の指揮者として参加したんだ』
『確か、一緒に行っていた賢者さんは他の調べ物があって姿を消しているから、代わりになった人とか言っていたな』
『うん、そうそう、その人。
オレはやっぱり、よくわかんねえから、指示されたまま従っていた。ロブロウで馬鹿していたから、汚名を……』
そこでやんちゃ坊主は次に続く言葉が思い出せずに、眉間に縦シワを作っていると、鍋を流しに置き、ルイから包丁を受け取りながら、汁物屋のオヤジは正解を教えくれる。
『返上』
『ああ、挽回と迷っていた。返上しようと思っていたけれど、ガキの頭じゃ許容範囲を超えた事が何だか連続して起きていたみたいで、オレは結局ゲームの戦駒の駒みたいに使われていたんだよ。
話を繰り返すみたいで悪いんだけれどさ、本当に儀式が始まってからは、大きな術の影響やら何やらでオレの記憶は飛び飛びでさ。
で、儀式の仕上げの方で、その人と―――ネェツアークさんて名前なんだけれど』
説明するに当たって名前があった方が良いと思って、ルイが口に出した名前にはオヤジは特に驚きも何もなく、只の名前として受け止め、続きを待っていた。
『その人と2人きりの時に、色々あって、アルスさんについて、その話を教えてくれたんだ。
で、そんな話をしてくれたあと、意識を失っていて気が付いた時には、オッサンの肩の上だった』
ルイはロブロウで起こった事で、大まかに覚えていた事を汁屋のオヤジに告げていたが、その聞いた話だけでは、繋がらない箇所が出来たので菜箸を手にしながら尋ねる。
『思えば、そのネェツアーク某はやんちゃ坊主がリリィちゃんの事を好きだって知っているから、そんな話をお前にしたんだろう。
それなら儀式の前に、そう言った事を話した覚えはあるのか?。
若しくは店でやったみたいな、リリィちゃんが、結婚したいと思っている位好きだというのが露骨に判る行動をしてみせたとか』
『―――あ、そっか、あそこを話さなきゃ、話が繋がらない事になるのか』
ルイは口の形を"へ"の字にして癖っ毛の頭をボリボリとかく姿に、汁物屋のオヤジは眼を細めある事に勘付いた。
『ルイ、お前はまだ話してないというか、馬鹿をやっているな?』
『……へへへへ』
"への字"の唇の形を真逆にして行う、笑いながら返事は誤魔化そうとする部分に相変わらず、やんちゃ坊主の部分を見せていた。
けれど客観的な意見を貰いたいのに自分がしている態度は、頂けるものではないと直ぐに反省をして、ルイは正直に自分がしてしまった"馬鹿"の話をする。
最初話すつもりがなかったのは、そのやった"馬鹿な事"はルイ1人でやったものではなかったので、無意識に自分が話したとしても、責任の持てる部分だけを口にしていた事もあった。
それは、ロブロウで自然災害の対処の為の儀式を、王都から来た一行が手伝う事になるのを知る直前の話。
賢者の護衛騎士になっている新人兵士のアルスは、随分早朝に眼が覚めていた様子だったという。
『オレが起きた時には、アルスさんはもう起きていて、昨晩は物凄い勢いで降っていた雨も漸く止んでいた。
それでさ、何かいつも優しくて、穏やかなアルスさんが凄いイラついていたから、どうしたのですかってきいたなら、"嫌な夢を見た"っていうからさ、ちょっとオレの夢の話をしたんだ。
オレの場合は、"夢は楽しいもんだ"ってオッサンに教えて貰ってから、明るい奴だけ覚えていてそれを話したら、少しは笑ってくれた。
ちなみに、夢っていうのはリリィが飯を作って、笑ってくれているって奴』
『それは、結婚は兎も角、一度は叶いそうな夢の話でもあるな。リリィちゃんなら、機会があったなら、してくれそうじゃないか』
汁物屋のオヤジは気軽にそんな事を言ったなら、それは予想以上にやんちゃ坊主の気持ちを明るくする効果があり、満面の浮かべながら話を続けた。
『で、笑ってはくれたんだけれど、まだ表情が暗いからさ、気晴らししませんかって持ちかけたんだ』
顔は笑顔のままだけれども、少しばかり目線を下げ、ルイは自分の腰に帯剣している、短剣―――刃先が丸く曲線を描いているため、曲刀というと聞いた―――に向けた。
それで大方の事を察した、オヤジは小さく呆れて息を漏らす。
『武器使ってではなくて、素手で格闘とはならなかったのか?』
その意見に、ルイは激しく瞬きを繰り返して、"ああ、思えば"と短く声を出していた。
『オレはまともな格闘技なんて習った覚えはないし、アルスさんも兵士で剣を使っているイメージがあったから。
そっか、それで良かったんだよな』
『それで、"気晴らし"を止めたのが、さっきのネェツアーク某というわけか』
『ああ、それは違うんだ、そっからがちょっとまたややこしいんで、そのネェツアークさんとオレがあった時までを簡単に言うなら―――』
ルイは勤めて簡単に言おうとしたが、それは結構難しい事でもあって結局難航する。
領主邸の中庭で行っていた"気晴らし"を止めたのは、ロブロウの領主アプリコット・ビネガーだった。
今回、研修について来ていた賢者並みに強いと自分で口にする領主は、アルスとルイを気が付ない内に一撃を食らわせて、中庭の石畳に鎮めたという。
それから
"ぼくたちは、調子に乗って日が昇る前に中庭で遊びました。
そして代理領主アプリコット・ビネガー様の安眠を妨害した為、反省の正座をしています。
朝食まで、そっとしてあげてください"
そんな貼り紙をアルスとルイの2人胸元に貼り付け、屋敷の通路で朝食まで正座する事になると思っていたが、そこにリリィがやって来る。
どうやら、領主と同じ様に2人の気晴らしで眼が覚めた巫女の女の子は、折角だから散歩をしようとしていたのを、正座をしている姿を見て躊躇ったそうだった。
でも、"気晴らしに暴れた自分達が悪いから、気にしないで行って来い"という言葉にリリィは従い、見送った数分後に、剣を手にした女性の騎士がやってきたという。
『ディンファレさんていう、すっげー綺麗な女の騎士の人が、物凄い血相でオレとアルスに、リリィの居場所を尋ねるんだ。
それで、中庭に散歩に行ったとアルスさんが教えたなら、そのまま走って行ってさ。
尋常じゃない様子で、オレもアルスさんも正座を途中で止めて後をついていった』
とは言っても、脚が痺れていたためアルスと2人そろって情けない格好で追いかけ始めた時、激しい金属のぶつかり合う音がしたという。
『おい、騎士のねーさんが!』
『リリィ!ディンファレさん!』
ディンファレが開いたであろう、中庭に通じる扉に辿り着いた時、アルスと揃って呼びかける。
その時、ルイの視界に先ず入ったのは、大好きなリリィが、髪も瞳も鳶色の紅黒いコートを纏った、丸眼鏡をかけた背の高い人に寄り添う姿だった。
けれど、その時2人の姿を見てもルイ・クローバーの内で、否定的や後ろ向きの気持ちは微塵も浮かばなかった。
寧ろ、確りと護られている様に見えて、心の底から安堵し、それを引き換えにする様に、頭の中が真っ白になった後は、意識を失っていた。
そして次に気が付いた時、ルイはどういった経緯があったか判らないけれども、アルスに支えられている。
次に視界に入った情景は、丁度を気を失う前に見ていたものと同じ、髪も瞳も鳶色の紅黒いコートを纏った、丸眼鏡をかけた背の高い人にリリィが寄り添う姿。
今度も、寄り添う姿に否定的や後ろ向きの気持ちは微塵も浮かばないけれど、猛烈な"やきもち"がルイの胸に沸き上がる。
『なっ、リリィ!?おい!悪人面のオッサン、何そんなにリリィにくっついてんだよ!』
『ネェツアークさま、やっぱり悪人顔なの?』
沸き上がった気持ちのまま"素直な感想"を口に出したルイだったが、リリィも"悪人面"という言葉を受け入れそうになった為に、この時には思いもよらなかったが、鳶色の人に根に持たれる事になる。
ただ、ロブロウで初めて会った様なクソガキでもあるルイである筈なのに、少々回り諄くはあるけれど、色々と教え諭すという様な振る舞いも多かったのも記憶に残っている。
もしネェツアーク・サクスフォーンという人物が、指揮者として儀式を取り仕切っていなかったら、駒として参加すると覚悟していながらも、終わった後に心に蟠りは残ってしまったと思う。
加えて感謝の気持ちもありながらも、自分の大好きな女の子と、出逢った時間は極短時間であるはずなのに、鳶色の人物を異様に信頼しあっている不思議があった。
そしてルイが見る分には、リリィがネェツアークに抱いている気持ちというのは恋心という物ではないのだと、判る。
それでも出逢ってすぐに信頼し合っている姿は、羨ましいという気持ちで正直にいって妬ける部分でもあった。
そんな中で、一番の不可思議は必要以上にリリィに過保護な面が、見られる所でもある。
それを初めに感じ取ったのは、旧領主邸の中庭での出会い。
話の流れで"結婚"に関する話題が出た。
正直にいって、その時丁度極限的に空腹であった少年には、その前にも小難しい話や、鳶色の人から額に、褐色の大男の拳骨に匹敵する様な"デコピン"を喰らって、半ば朦朧としていた。
それでも好きな女の子が
『私もいつか、結婚したいって思うのかなぁ』
という発言は聞き逃さない。
ルイの記憶違いで気のせいでなければ、リリィのその発言で、それまで理路整然とまるで演説をするように語っていたネェツアーク・サクスフォーン氏の動きが、口と共にピタリと止まる。
だが、その時のルイは、そんな事には構っておられずに、好きな女の子が結婚を考えているならばと、笑顔を作り胸も叩いて自薦を始めていた。
『オレだったら、リリィが働きたいなら働いてもいいし、そんときゃ、家事だって手伝うぜ。
こうみえても、オッサンから家事を―――っておわっ?!』
少女に気持ちを更に告げようとするが、出逢ったばかりの紅黒いコートの男が、ずいっと間に割り込む形で阻まれた。
『ちょっと先程激しい行動為の検査と、年上に対して"悪人面"と言った事に対して、報復、指導してあげますよ~♪』
その時は自分が余りにも”ませた”事を言ったのと、先程口にした"悪人面"が考えていた以上に、鳶色の男の癇に障ったのかとも思った。
いきなり肩に抱え上げられて、騒ぎながらもネェツアークがリリィに告げている言葉も、ルイも確りと耳に入れていた。
『リリィさんは、当分まだ暫く―――結構な間は"結婚"なんて、言葉すら考えなくていい事をだと思いますよ、ええ。
とりあえずは、お世話になっているらしいトラッド君の上司の賢者様にしっかりとっても、甘えて子どもをしていれば良いと、私は絶対思います』
抱え上げられて、騒ぎながらも、諄く脅しつける様でいて、そんな中でも大好きな女の子の幸せを心から願っているのが、鳶色の人の言葉から感じとる事が出来た。
『とりあえず、出逢ったタイミングを気にしないで、ルイから聞いた話を考えたなら、まるで、それこそリリィちゃんの事を溺愛している保護者みたいな振る舞いだなあ』
汁物屋が夕方から売り出す煮物を煮込み始め、新しい汁物を作り終えそうになった頃、ルイの説明を聴き終えたオヤジは、そう感想を漏らす。
『やっぱり、オヤジさんもそう思う?』
ルイにしても、考えれば考える程、ネェツアークという人の方は随分とリリィの事を大切にしているのだと思えて仕方ない。
実際、その後に機会があってその時の口にした言葉を確かめた時、ネェツアークはその事ははっきりと肯定してくれた。
『ええ、そうですね。
とても、素直なお嬢さんだったので、幸せになって欲しいと思ったので、そう言わせて頂きました』
『でも、ネェツアークさんは、仕事の延長でリリィの事を知っていてもおかしくはない立場では、あるんだよ。
その"鳶目兎耳"っていう称号が貰える人だけが、務める軍の国王様直轄の諜報活動専門の部隊の人で、本当に色んな情報を集めているみたいでさ。
リリィの保護者の賢者の旦那は、国に欠かせない人……材だし、その周辺の情報としてリリィの事も、直接会った事はないにしても、前から知ってはいたんじゃないのかな。
ああ、そうだ。鳶目兎耳は"鳶の目に、ウサギの耳"、よく見える目と、よく聴こえる耳を表す諺だって』
日常であまり使う事のない言葉だとは思うので、店主のオヤジさんに鳶色の男から説明されたそのままを告げたなら、興味深そうに頷いてくれる。
『ほう、そいつは初めて聞く諺だし、部隊だな。
でもやはり、知っているだけの筈なのに、リリィちゃんに肩入れをしているのがよくわかるな』
『肩入れっていうかさ、守りたい気持ちは、理由は話さないまでも、あっさりと認めてくれたよ。
ついでに、王様の直轄部隊だから出来る方法で、護るとも言っていた』
『ネェツアーク・サクスフォーン個人として、リリィ嬢を可愛らしいお嬢さんで、出来ることなら心置きなく守りたいとは思っています。
けれど、仰る通り、国王直轄の私を"動かす"為には理由がいる。
それに、彼女がお世話になっている賢者殿を、使わせていただきます。
国の宝である賢者の秘書を護ること、十分私の動ける理由になりますし、先程ルイ・クローバーでは"助けられない部分"に、介入する為にも良い"屁理屈"にもなる。
とりあえず、今の仕事が一段落ついたら、私は直ぐに王都に帰りますから、申請を出しましょう。
まあ、ロブロウでの仕事が終わった後に、そう会うこともないでしょうけれどね』
そして実際ロブロウで彼の指揮に従って再び”駒”となって働いて、意識を失ってから、彼との再会は王都に戻ってからもない。でもきっと、鳶色の人はリリィの事を何かしらの形で見守っていると思う。
『リリィの事でさ、オレは世話になっている賢者の旦那や、お兄さんみたいなアルスさんや、世話を焼いてくれているお姉さんの騎士もいるんだけれど、その人達には、ちゃんとしている所を見せる事は出来る。
でもさ、国王様の直轄で動いている忙しい人で、リリィの事だけを見守っている人に、どうやったら、オレが確りやろうとしている所を見せる事が出来るんだろうって、考えたら難しくて。
別に、鳶目兎耳という凄い人に”ルイ・クローバー”を見て欲しいと、認めて欲しいとかじゃないんだ。
オレが"リリィという女の子の側にいても悪くはない"って、リリィの事を大切に思ってくれている、日頃側にいない人に思われるにはどうしたらいいんだろうなって、考えてさ。
それに、リリィもネェツアークさんの事をとても気にしているから、何にしても関係をよくしていたいってのもある』
『それで、汁屋のオヤジに、お前はどんな事を尋ねたいんだ?。
大農家殿とは仕入れ先として接点はあるが、その"えんもくとじ"の某に繋がる部分なんて何もないぞ』
随分と長い間話し込んで、やんちゃ坊主が王都の汁物屋に長い間訪れていない事は殆ど判った様なものだった。
だが、それらを報せてもらっても、見返りというわけではないが、代わりに与えられるようなものはオヤジにはない。
『いや、ちょっと訊くのが恥ずかしいんだけれどさ、自意識過剰とか、思わないでくれよ?。
その、オヤジさんの所で、"ルイ・クローバー"の噂って、耳にした事あるか?』
思わず煮物を焦げ付かないように、鍋底に回している大きな木杓文字の手を止めて、やんちゃで癖っ毛と八重歯と、首にスカーフを捲いているのが特徴的な少年を見つめた。
『ルイの、お前の噂か?』
そう呟くように口にして、その姿を改めて見て、気が付いた事と、それに連れられて思い出しながら、少しばかり芳ばしい匂いがする鍋をかき回し始めた。
『だ、だから、何もなかったならそれでいいんだよ!。
その鳶目兎耳っていうのは、情報を扱うところだからさ、もしネェツアークさんがオレの事を調べた時に、先ず入ってくるのは"噂"話だろ?。
それでオヤジさんとこは飯屋でもあるから、結構色んな話が入ってくると思って聞きたかったんだ』
やんちゃ坊主にしては、珍しく恥ずかしがりながら、一気にそんな風に捲し立てていた。
春の季節が終わりかけで、大分日も伸びたが、流石に暗くなってきたのでつけた照明となる火の精霊のランプの灯りの元でも、ルイの顔が赤くなっているのが良く判る。
確かにやんちゃ坊主の口にしたものは、喋る者が変わったなら、ある意味自意識過剰ともとれる内容で、思春期にありがちな、気持ちの浮付きにも見える物だった。
ただルイ・クローバーについて言うならば、それは別に自意識過剰でもなくて、冷静に自分の姿を観察した上あってもおかしくはない発言だと、汁物屋のオヤジはその姿を見て改めて思う。
14歳という年齢にしては、まだ背の高さは小柄ではる。
でもその容姿からクソガキと例えられる性格や、グランドール・マクガフィンを真似た格好とあちこちにある生傷を引き抜いたなら、姿見はどちらかと言えば"上等"な部類に入る顔立ちだった。
性格も、年頃の子ども達にあるような群れるような事はせずに、マグガフィン農場という国一番の農場を営む好漢の補佐みたいな仕事を熟している。
そして食堂に訪れる、丁度ルイ・クローバーと近い年齢の娘を持っているだろう父親、稀に母親と思える人々の軽い溜息交じりの会話をオヤジは思い出す。
子どもが同年代という共通点は、親自体の年齢が違っていたとしても何かと話題が合わせやすい事も多いらしく、汁物屋の中でも話題になっていた。
どうやら、娘達は揃って同じ人物に思いを寄せているらしく、それについて父親は嘆き、一部の母親は喜び、そして全員がほんの少しだけ心配をしていた。
汁物屋の店主はその親達の会話を聞き流しながら、"大変だねえ" と無意識に実感のこもった相槌と共に客人達に汁物を提供する。
適当ながらも、実感のこもった店主の相槌は、親達は何処か安心するものを感じながらその話題を続けていた。
そしてその相槌が"やんちゃ坊主のルイ・クローバー" という濾過を無意識に働かせて、その親達の娘が恋をしている"男の子"の正体を知っている為に出されているものだと、この状況になってオヤジは理解をする。
『ルイ、お前、恋文をもしかしたら沢山貰ってないか?。それでいて、まだ誰にも返事を返してもいない』
そして、自分の店で汁物を呑みながら、親たちが不満そうに言っていた言葉を思い出しながら、オヤジは木杓文字をやんちゃ坊主の方に向け、尋ねる。
―――どうやら、娘が一生懸命書いた恋文の返事はなかなかくれないみたいで。
―――でも、返事を出さないのは皆一緒らしいから、そこは安心している。
―――マクガフィン殿と一緒にいる時は、比較的大人しいからその時に、大体皆恋文を渡しに行くらしい。
―――誰も、まだ本当に返事を貰っていないのか?。
ルイと世代の近い娘を持つ親達が特に気にして話題にもしていた事でもあるから、直ぐに尋ねた。
そしてこの質問には、それまで己の自意識過剰だったかもしれない質問に恥じ入っていた部分が一度に抜け落ち、ルイは眼を丸くした後に、非常に面倒くさそうに片眉だけを上げる。
『げ、何でその事―――って、オヤジさんが知っているんだよ?……んん?!ああ!?』
思わずそんな反応を返したのちに、ルイは口を丸く開け、次にまるで水槽で飼われている観賞用の小魚の様に口をパクパクとさせた後に漸く声を出す。
『そ、"そんな事"が、汁物屋のオヤジでも知っている、オレの噂になっているって事のなのか?!』
自分で口にしながら、確認する様に汁物屋の主人を見たならば、木杓文字を鍋底に再び突っ込みながら頷いてくれる。
『マジかよ……』
脱力しながら、やんちゃ坊主は力なく項垂れていると、煮物の仕上げの水分を飛ばしつつ、煮崩れを起こさないように、丁寧に杓文字を扱いながらオヤジが声をかけてくれる。
『そんな声を出すって事は、手紙を貰いっぱなしにしている事は、少しは悪い事だとは判っているという事なんだな?』
オヤジの確認にルイは項垂れたままではあるけれど、素直に頷いた。
『手紙は最初の内は読んだけれど、後は殆ど読んでないような状態で、寝台の下に置いている木の箱に貯め込んでいる状態っすよ。
その、もしかしたら、恋文じゃない物も入っていたかもしれないけれど、オレにはどれも同じに見えたから、開けてもないけれど。
なあ、これって、手紙を送った側の、"女の子の保護者"からしたなら、印象を悪くなるかな?』
名前こそ出してはいないが、ルイの想いを寄せるリリィや、にネェツアーク・サクスフォーンが絡めて尋ねているのが判った。
『まあ、親御さん達も"片想いなら仕方ない"という感じで、この汁物屋の店の中で聞いた話だからなあ。
気持を弄んでないだけ、いいとは思うけれども、ここから後は、皆反応が違うだろう』
その噂話の内容を思い出したなら、手紙を出した娘の親の反応は本当に様々で、まだ昼間という事で誰も飲んでなどいないが、"返事くらい書いてやれ"と気持ちを昂らせている者もいた。
ただ誰もがその恋文に関し、送り先である少年の事を追及とまではいかないが、詮索する者もいない。
自分の娘の恋は応援するけれども、あくまでもそれは個人の問題でもある。
確りした味付けながらも後に味を引っ張らない、あっさりとした汁物屋を贔屓にしてくださる"お客様"の性格も出ているところもあると、店主ながらに思うので断言はしなかった。
店主はどちらかと言えば素気ない態度で、答えたがルイには短く簡潔な言葉で十分意味は通じる。
『あー、そっか、そうだよな』
納得をする少年は腕を組んで何やら考え事を始めたので、オヤジは用意してあった大皿に出来上がった煮物を、木杓文字で見栄えよく持っていく。
出来立ての料理からでる湯気の向こうで、考え込でいる姿のルイのシワとはまだまだ縁のない額に縦筋が一本刻まれた。
『よし、決めた。はっきりと全員に断わりをいって、手紙も今後いっさい受け取らないことにしよう』
はっきりと宣言するように言って、組んでいた腕を解き、右手は拳にして左手は掌にして、ぶつけて店内に音を響かせる。
『……という事は、"全部はっきりと断る"になるのか』
リリィという女の子に恋をして、尖ってばかりに見えていた態度が軟化したと思っっていた。
だが、そのはっきり過ぎる態度と決断に、そうでもなかったという"流し"に鍋をおいて片手で手押し式の水道で水を注ぎながら、意外な印象を受けてもいる。
汁物屋の店主は別に非難めいた視線も態度もしてはいないが、ルイがもっと要領のいい返事をするぐらいは、考えていたと思った。
だが、ルイが口に出した決意と判断は、手紙を送ってくれた女の子達を、少なからず傷つける事になるのが判っている少年は癖っ毛の髪を掻きながら、オヤジの方を向いた。
『多分さ、オレに手紙くれた奴も、出来るなら友好的な返事が欲しいんだろけれどさ、それは止めておこうと思うんだ』
『どうしてだ?何かしら不都合でもあるか?』
生業が客商売という事もあるけれど、そんなにはっきりと縁を斬るわけではないだろうが、少なからず溝が出来てしまう様な決断に、オヤジとしては首を傾げたくなる気持ちになっている。
慣れ合いを迎合するわけではないが、曖昧である事で周囲に害を齎さずに互いに不利益に繋がらない付き合いというものも、経験を持って知っているつもりである。
『不都合っていうかさ、そのこれも考えすぎかもしれないけれど―――』
眼を右上の方に向け、ルイは鳶色の人の姿や言動を思い出しながら、口を開く。
『もしも、オレがネェツアークさんみたいな立場だったら、"リリィの事が大好きだ"って言いながらも、男同士の友だちならともかく、女子がオレの事を好きって言ってくる関係で、仲良くしている様に見えたなら、きっと面白くないだろうなって思うんだ』
そこで、先程拳にしていた手をそのまま口元にあてて、少しだけわざとらしく小さく咳をした。
汁屋のオヤジもその前振りで、やんちゃ坊主がまだあった事はないが、リリィを大層過保護に思っている人物の真似でもするのだろうと、予想が出来るので、言葉を挟まずに待つ。
『"リリィお嬢さんの事がありながら、わざわざ告白してく女子のお友だちとも仲良くされますか、そうですか、良い度胸ですね"』
『くっ』
多分声自体は似てもいないのだろうが、その絶妙な言い回しで、ロブロウの件を語っていた時に、回り諄いという印象の言葉を使うネェツアーク・サクスフォーンが十分に想像出来た。
ルイは"笑い受け"を狙ったわけではないのだけれども、予想外にツボに直球だった汁物屋の店主は脇を押さえて、造り上げた煮物の方には顔を向けずに声を出さずに笑ってしまう。
その様子にルイの方も思わず連れられて笑いながらも、引き続き自分の考えも口にする。
『こんな感じに、今真似したみたいな事をいって、すげえ高圧的笑いながらいつの間にか距離を詰めてきて、額にデコピンを食らわせられそうな気がしてならねえんだよ。
それに、今オヤジさんはオレが手紙を貰っている事を知っているなら、"鳶目兎耳"って王様が必要としている情報を、国中―――それとも世界中か集めている人が、ルイ・クローバーの事調べたなら直ぐに判ってしまう』
少々芝居がかった行動と自分でも弁えながらルイそう言ったなら、オヤジは指で笑いの為に目尻に浮かんだ涙を掃いつつ頷いた。
『そうか、それなら"知られた"上で、これからも見張られているぐらいのつもりで、行動に気をつけるしかないって事だなあ』
やんちゃ坊主が真似をした、眼も髪も鳶色だという、この国の王様が情報を集める為に使っている程の人材だというネェツアークという某。
その追跡を振り切るのは、いくらこの国の英雄でもあるグランドール・マクガフィンが養子に迎えようと考えている少年でも、少なくとも今は難しいだろうとオヤジは考える。
それは、やんちゃ坊主自身も覚悟が出来ている様子で、”見張られている”というその言葉にも怯む様子など見せずに頷いていた。
『取りあえず、リリィの友だち以上の関係になるのを、正々堂々と認めて貰えるぐらいのつもりで、これからはやっていくことにする』
片手で"ガッツポーズ"を作り、八重歯を見せて笑う姿にオヤジは頼もしさすら感じたのと、そろそろ夕方の店開きの時間が迫ってもいたので、締めくくりに確認の言葉をかけてやった。
『じゃあ、今のところは、ルイ・クローバーにしてみたら、返事をだしていない恋文以外のことは大丈夫みたいだな』
『うん!とはいっても、オレはオッサンから拾われてセリサンセウムって国に来てから、まだ2年と少しぐらいしか過ぎてないから。
生意気なクソガキ位しか、"鳶目兎耳"とかでも、集めたくても、集まらないんじゃねえかな』
何気なしに尋ねられた言葉にそう答える。
『お前は確かマクガフィンの大将に拾われたっていうのが、街で汁物屋をやっているオッサンでも知っていたが、それは異国だったのか?』
セリサンセウムという他の諸国とも陸続きの大国で、容姿でこの国の人種という物ははっきりしない。
けれど、身に纏う衣装から喋る言語や日頃の生活で根付いた振る舞いや文化などで、"国の違い"は判る物があった。
王都の汁物屋のオヤジの店にも、贔屓にしてくれている客が稀に異国の客人を伴って訪れて来ることもあってそれなりに接しているので不慣れでもない。
加えて文化やそちらの国の文化の風習で、食べられるものが限られている時期があるらしく、頼まれて(とはいっても簡単な一手間だが)食事を作る事で感謝される事もあった。
礼というわけでもないが、話のついでに"セリサンセウム"という国と他の国の違いを感じさせる話を、色々と興味深く聴かせて貰いもする。
なので、オヤジは外国での文化に触れた事があると思える人物にはそれとなく"感触"で判るつもりでいたのだが、ルイが異国にいたというものを感じなかった。
そのルイの方はガッツポーズを作っていた拳を緩め、口元に当てて、スカーフを捲いている首を傾げていた。
『でも、オレ自身、どうして異国にいたのかよくわかってねえし……。
オレさ、例えじゃなくて本当にオッサンに拾われるまで、本能のままに生きている”猿”みたいなものだったんだよ。
あ、でも字は読めたかな―――』
今度は自分で気がついた疑問で、首を反対側に傾ける事になる。
"どうして、野猿と言われるくらいだったのに、字なんて読めていたのだろう?"
―――それは、誰かが教えてくれたから。
でもそれを教えてくれたのは、グランドール・マクガフィンではない。
出逢った頃には読めて、理解も出来ていた。
―――じゃあ誰だ?。
頭の中に浮かぶ問いに答えるのは、野猿と呼ばれた時から自分の中にあった、自分の心。
"ルイ・クローバー"という名前が、自分に定まる前からあった、己の存在が揺らがないための拠り所。
気が付いたなら、昔からいてくれた心は、ルイが忘れかけていた―――心のそこの方にしまい込んでいた記憶を掘り出して、渡してくれる。
(ああ、そうだ、教えてもらったんだ)
―――お前は、絵が上手いから、字も直ぐに覚えられると思ったんだ。
セリサンセウムという国では殆どみかけなくなった、長い髪でしかも青い色をして、垂れた眼をした背の高い人。
いつも帽子を被っているけれど、自分の世話をする時には脱いでいる。
長い髪で隠れているけれど、左の片側だけ刈り上げている少し変わったものだった。
(垂れ眼で、こんなに特徴的だったのに、どうしてオレは、忘れようとしていたんだろうな)
簡単な筆記具と、見本となる絵本みたいなものを、こっそりと渡してくれた。
―――これをあげるから、ここは"場所が悪い"から、誰も見てない所と時間で練習をしてごらん。
―――お前なら、絵と文字を見比べて、それで意味をなす名前を理解することはできるだろう。
―――"賢いお猿さん"だと、ばれないようにするんだよ
詳しくは知らないけれど、教えてくれる人は忙しい立場で、言葉を短く必要な事だけを口にして立ち去る事が多かった。
そんな中でも、短剣も与えてくれて、時間が取れた時に、教えて貰わなければ、理解し難い部分を、字の事も含めて、それは丁寧に教えてくれる。
そして、"野猿"の元を立ち去る時は、コートを纏い目深に帽子を被る。
(ああ、そうだ、"あの人"はあの人で、自分のそんな面を、本当は優しくて弱い面を懸命に隠そうとしていた)
だから極力顔が見えないように、とても鍔の広い帽子を目深に被り、表情が見えないようにしていた。
でも、"商人"として表に出なければならない時に、"ヒャハー"と高らかに、変な笑い声をあげて、首からまるで飾りの様に下げている十露盤をじゃらりと鳴らす。
大体の字が読める様になった頃、野猿だった少年は理由の判らない争いに巻き込まれ、瀕死になり九死に一生の形で、青い髪の商人に助けられる。
(その時にオッサンがいきなりきたんだ)
商人がルイを介抱している所に、今でも経緯は判らないけれど、あの時以来、見たことがない軍服みたいな衣服を身に付けたオッサンが愛用の大剣を抜いた姿で現れた。
袋叩きにあって、虚ろな意識の中でも、軍服から出ている肌の部分が顔と手ぐらいしかないのに、褐色だと霞む視界の中でも見えた。
治癒術を懸命に青い髪の商人かけてくれながら、まだ正体の判らない時期のオッサンと、偉く緊迫した雰囲気の中で行われた会話を薄っすらと覚えていた。
―――……ヒャハ―、これは"大農家グランドール・マクガフィン殿ではありませんか?それとも本日は
―――その小僧、どうするつもりだ。
"挨拶"を遮り、質問には答えず、低く重い声で青い髪の商人に敵意をむき出しにしているのが、朦朧とする意識の中でも判った。
抱えてられている腕の中で、商人が唾を飲み込む音が、身体を触れている事で細かく伝わってくる。
助けられているのは"野猿"の筈なのに、まるで縋られる様に抱えられ、商人が勇気を振り起し、口を開くのを見上げる形で見つめた。
―――いえいえ、もう瀕死の野猿ですが、面白いものを背負っていたので、飼っていただけの事ですよ。
何とかそう言った商人が、ありったけの魔力で治癒術を注ぎ、まだ小柄な少年に過ぎなかった身体を、グランドールに向かってなげて、逞しい片腕で掴み取られた。
乱暴なやり取りで、唯一身に付けているズボンの縁を、身体が地面に激突しないようにしてくれた。
大農家と商人が、少年が無傷で受け止められた事に、ほぼ同時に安堵の息を小さく吐いたのが、"野猿"にだけは分かった。
《……元気でな、"野猿"、その人なら、お前の事を"まとも"にしてくれる》
テレパシーなんて全く知らないけれど文字を教えてくれる時に聞かせてくれた、青い髪の商人の穏やかな声が癖っ毛の頭の中で響く。
自分を掴んでいる大男から、心の底から恨まれているのに、商人の方は無条件に信頼している。
それが不思議でたまらなくて、感覚だけでその人が周囲から呼ばれている"名前"を初めて心に浮かべた。
《……スパンコーンさん?》
自分の頭の中で、響いた青い髪の人の声と同じ様にしたなら、どうやら届いたらしい。
《……私のことなんて、忘れてしまいなさい》
その頼まれ事が、野猿としての最後の記憶だった。
(ん?じゃあ、オレは"頼まれたから"、スパンコーンって世話になった人の事を忘れていたのか)
自分が義理堅いのか、それとも多分この世界に産まれてから物心がついて、グランドール・マクガフィンに引き継がれるまで"育てて"くれた人が、"忘れて欲しいから"と、伝えられたらあっさり忘れてしまう自分が、いい加減なのか判らなくて苦笑いを浮かべる。
青い髪の商人の事を思い出せたなら、傾いていた首も自然と元の位置に戻っていた。
『おいおい、クソガキなのは仕方ないにしても、猿とは言い過ぎだろう―――』
自分を"猿"と例えるルイの言葉に、汁物屋のオヤジがそんな言葉をかけた時、一般的に国の役所に仕事に終わりを告げる中央の時計台の鐘が、昼間より抑え気味の音色を奏でる。
(うーん"鳶目兎耳"のネェツアークさんなら、オレがオッサンからスパンコーンさんに引き継がれる前の経緯まで調べる事は出来るのかなあ。
ああ、でも、あの悪人面の人が動くのは、リリィの為だけ思うし。
こんなクソガキの為に、時間を使う程暇ではないか)
『"ルイ"、スマンがもう夜の店を開く時間だから、お前が良かったらまたおいで。
仕事の片手間でいいなら、幾らでも話を聞かせて貰うから』
少し動きを止めた八重歯の少年の名前を汁屋のオヤジが呼んで、そんな言葉をかけたならルイは小さく頷いてから、笑顔を浮かべる。
『うん、判ったそうするよ』
(とりあえず、今はネェツアークさんとまた会った時に、上げ足取られないように身辺整理しておこう)
"そんな隙がある人に、あの可愛らしいお嬢さんを任せられる気にはなれませんねえ"
気構えただけで、鳶色の人の声が聞こえてくるような気すらした。
ネェツアーク自身は、滅多に会うことはないという口ぶりであったけれども、やんちゃ坊主としてはその発言を翻してもらっても構わない程の地固めをするつもりでもある。
(オッサンに頼るつもりはないけれど、"グランドール・マクガフィン"という名前も、信用して貰う力にはなっているよなあ)
ただ少しばかり、今しがた思い出した、青い髪のかつての保護者の存在も気にかかる。
"……私のことなんて、忘れてしまいなさい"
忘れてしまえと言われて、素直に忘れていた自分にルイは呆れていた。
けれども以前という程時間は過ぎてはいないが、クソガキであった自分が思い出したとしてもスパンコーンという名前の商人に、恩返しが出来るという訳でもなかった。
(何かすげえオッサンとの間に、敵意を向ける程のことはあったんだろうけれど、オレの"恩人"には代わりはない)
殆ど忘れていたようなものだけれども、異国の薄暗い廃れた店の隅っこでも、生きてこられたのは間違いなく言葉や文字を教えてくれた、青い髪の目尻の垂れた商人のお陰だった。
その感謝を胸に浮かべたなら、癖っ毛の頭の中に浮かぶのは、強気な目元が印象的な大切な女の子が優しく笑ってくれる姿。
(何があったかしらないけれど、出来ればオッサンが嫌な思いをしないように、恩返しをしたいな)
きっかけは突然であったけれども、思い出したのも何かの縁だと感じたし、そう決断する。
『ありがとう、オヤジさん。
オレもオッサンの屋敷の寮母さんが、みんなの飯作っているだろうから帰るよ』
『ああ、今度来た時には、ルイが気に入ったという、ロブロウで竈番さんが作ったという蓮根の炒め物を作ってやるから、またこいよな』
そんな諸々があって、少年は自分の部屋に戻り、恋文に一度全て眼を通し、ケジメをつける為にグランドール・マクガフィンの帰りを待つ。
「それにしても、オッサン、今日は帰りが遅いな」
全て読み終えた恋文を" 燃やす"為、オッサンが帰って来るのを待っていたが、その日は結局日付が変わる頃に戻って来たので、諦めたのだった。