仕立屋キングス・スタイナー
この国の著名人なら誰もが憧れる。
キングス・スタイナーに仕立てた衣服に袖を通してみたいものだと――。
王国歴2018年 春の季節も終わろうとする時期。
金の髪に青というよりは、空色に近い瞳をもつ、顔の整った夏の季節を迎えたなら、1つ年をとる17才の少年は革手袋を嵌めた手で、丸太を切り株の上に置いて斧を振り上げる。
「よいしょっと」
セリサンセウムという国で、軍に所属する新人兵士アルス・トラッドの小気味良い掛け声と共に振るった斧が、乾いた心地良い音を響かせ、先程切り株の上に置いた丸太を割った。
「アルス君、それを更に半分の半分位に割った大きさまでしておいてくれ。
で、数日お日様に当てて、乾かして水分を抜いたなら良い薪の完成~」
「はい、判りました賢者殿」
新人兵士が利発にそう返事をする相手は、彼が騎士として護衛している賢者―――の使い魔で、あって当人ではない。
その使い魔の姿は、アルスの髪色と同じ金のカエルで、フヨフヨと彼の周囲の空を泳ぎながら、声だけは顔の半分以上の大きさがある口から上司の声を伝達してくれる。
「分かりました。じゃあ、薪を日干しするのには、あちらのスペース使いますね」
アルスが快活に答えると、使い魔のカエルが「ゲコッ」と機嫌良さげに鳴き、空を泳ぎながら屋敷内に戻って行った。
それを見送ってから、新人兵士は先程半分に割った薪を、革手袋を嵌めた手で取って再び切り株の上に乗せて、対して働いていない自覚はあるけれど、小さく息を吐き出した。
「良い天気だけれど、一気に暑くなったなぁ。
でも、梅雨もまだだし、それが終わったならもっとなんだろうな」
この国の王様の住む都からそれ程離れていない、"鎮守の森"という場所の中にある屋敷の中庭に、初夏を意識させる、強い陽射しが降り注ぎ、アルスは木陰から、自分の瞳と同じ色をした空を見上げる。
「……戻ってきたけれど、何となく気持ちが落ち着かないな」
中庭から見える風景を眺め、新人兵士は思わず染々と呟いてしまう。
アルスが賢者の護衛騎士として配属され、それなりの事件があって1ヶ月が過ぎた頃。
セリサンセウム王国の西の最果てにある領地ロブロウから、40年程前に平定され、18年前には侵略戦や世界中を巻き込む大災害も乗り越えた穏やかな世相の国に、似つかわしくない報告が王都に届けられる。
人攫いの咎を犯した4人の貴族を、その土地を納める領主が法に則り処断したというものだった。
そして平和なダガー・サンフラワーの治世に物騒にも感じられる"4人の貴族の処刑の調査"を、アルスの上司である賢者が国王から直々に命令される。
内容が内容なだけに、表向きには穏便に、裏からという形で調査をアルスの上司である賢者が行う事になった。
そんな作戦を考えたのは、アルスの軍学校時代の恩師である男なのに美人と有名なアルセン・パドリックで上司の賢者とも、軍学校時代から付き合いがあった。
加えて表向きの調査の方は、賢者と恩師の旧友で、この国の英雄でもあるグランドール・マクガフィンとその弟子であるルイ・クローバーが、王都からの"農業研修"として表向きの理由をつけられて調査は行われた。
アルスは職務である"賢者の護衛騎士"としてついて行き、表向きはグランドールの助手の様な形で手伝いを行う。
そしてその場所で、これまでの、特に魔法が不得手だから避けていた少年の考え方や価値観を覆すような体験を得る事が出来た。
何より、その土地で親友と呼べる存在が出来たことは、アルスにとって大きな喜びとなる。
その親友はアルスが体験した事を含め、ロブロウであった出来事の片づけが済んだなら、彼の唯一の家族である弟を連れて王都にやってくると言うので、現在は再会を待ち望んでいた。
そうして農業研修と一行が戻ってきたのが2週間前。
戻った当初は、上司の賢者はやれ報告書だの、親友となった少年の紹介状の作成と、かなり慌ただしい事になっていた。
それと同じ様に忙しさに追われていたのは、アルスの"小さな同僚"である。
その同僚は賢者の秘書を勤め、この国教の教会に属する巫女で少しばかり勝気で緑色の瞳を持つ、リリィという名前の女の子。
桃色とも薄紅とも例えられそうなフワフワとした髪をした、十分"美少女"という表現が当てはまる11歳。
"秘書"という役割よりは、その年齢ながらもこの魔法屋敷の家事全般を担ってくれている。
アルスの"先輩"であり同僚にも当たるのだが、今の所、賢者も家事に関してはリリィに逆らえない。
その同僚は帰って来てから、小さな身体で2週間だけでも留守にしたら軽く埃がたまってしまって屋敷中を、懸命に掃除していた。
リリィが頑張っているのを思い出したアルスは、それに応えようと、斧を振り上げた時、屋敷の入り口の方から声が耳に入る。
「すみません、誰かいらっしゃいませんか?」
(確かリリィは今、洗濯で、屋敷の奥の方に行っているし、水を扱っているなら、多分聞こえていないだろうな。
それにしても、この声の"お客さん"は聞き覚えがない)
色々な諸事情があって、アルスの上司である賢者は殆ど世俗と離れた日常を、この鎮守の森の中の屋敷の中で隠る様にして送っている。
それでも国の最高峰の賢者という事もあって、訪れてくる人物は極少数ではあるが存在し、配属されて日が浅いアルスも、会った事もあった。
その人達は、普通の新人兵士として国の中に点在する軍の駐屯地や部隊に配属されたのなら、季節の中で一度会える―――というよりは、国の季節の祭事や行事で見かけるかどうかぐらいに、高官の立場の方々が多い。
そんな関係者ばかりでもあるので、失礼があってはならないと、もう一度確認の為に思い返してみるけれど、やはり新人兵士の記憶の中では覚えがなかった。
(誰だろう?)
その声は高くも低くなく、声が低い女性にも声が高い男性にも受け取れる。
正直に言って聞いただけでは、男女の区別をつける事がアルスには出来ない。
でも耳に届いた言葉使いは、とても丁寧なもので、少なくとも乱暴な男性というのは、最初から除外してもよさそうだった。
(なんていうか、柔らかい声だな)
最終的に、新人兵士はそんな感想を抱いていた。
「って、賢者殿も書類にやっていらっしゃるって言っていたし、リリィも大変だろうから、誰も出れないなら、自分が行かないと!」
自問自答を自己完結をした後に、3歩目以上からは"走れ"と軍学校で教育されている新人兵士は、自分の勤め先で住居となっている屋敷の門へ駆ける。
(何にしても、失礼の無いようにして、挨拶をすれば大丈夫―――)
角を2度曲がったなら屋敷の正面玄関に繋がる、煉瓦を敷き詰められた歩道が見える。
その煉瓦道は、屋敷をぐるりと囲んでいる植木の箇所で終わっている。
その煉瓦道が終わる場所は、かつて配属されたばかりのアルスが、賢者の魔法で植木の"根っこ"に足を絡め取られ、派手に転倒した場所でもあった。
そこに黒い衣服を纏い、黒髪を高い位置に結い上げている人物の後ろ姿が見える。
(あ~、背の高さも微妙だな)
植木の手入れも"仕事の内"となっている新人兵士には、その高さを掌握している。
遠目から見ても、頭の箇所と植木の枝や葉の位置で大体の身長を目測することが出来る様になっていた。
先日も手入れをしたので、客人の身長を推し量るのは難しくはない。
だが今回は恐らく客人と思われる人物が立っている頭の位置が
"女性でも高い人ならあり得なくはない身長"
で、男性なら
"平均的な高さ"
を伺わせる箇所にあるのが見て取れた。
髪を結い上げているから、女性かもしれないが、セリサンセウムという国では、今でこそ男性は短髪が殆どだが、昔は長髪が主流だった。
その流れが変わったのは、今の国王の父親であるグロリオーサの活躍がある。
そもそもは40数年前には腐敗政治や内紛で傾いていたこの国に決起軍というレジスタンスを作り、平定を齎した。
その強さから他国から"鬼神"と恐れられていた先王で、髪形に関しては短髪を認める事を国を平定したなら、直ぐに布告した。
それには笑い話にもされる根もない噂話によると、グロリオーサ自身が、自分の豊か過ぎる、大型犬の尻尾の様な髪を切りたくて仕方なくて広めた布告であると、伝えられている。
ただその髪を切りたくて仕方なかった鬼神の国王陛下自身は、政を任せていた宰相から
『祭事で陛下は髪が長髪の方が、便利ですから、切らないでください』
と言いつけられ、結局儀式に必要とされる随意分な長さを残し、生涯を通して長髪だったと国の暦に記録されていた。
現在は国王陛下であるダガーもやはり祭事の関係か長髪であるが、随分と短髪の文化も根付いてきている。
アルスの軍学校の同期は勿論、縁がある成人の男性の殆ども皆短髪であったが、昔の名残で伸ばしている人もいるのは否定できない。
(どうしよう、呼びかけて応対した時性別を間違えるのは、とても失礼な事になる)
それでも迎えに走っていたなら、不意に植木の向こう側に、客人と思われる人の姿が隠れてしまった。
(と、兎も角、賢者殿に逢いにいらっしゃったなら、無駄足を踏ませるのも失礼になる)
走って、かつて自分が尻餅をついた箇所で、背を向けている客人に呼びかけた。
「すみませ、えっと、"ウサギの賢者殿"の―――」
"ウサギの賢者"と口に出した瞬間に客人が振り返る。
「―――え、って、うわああああ!?」
と声を上げ、約2ヶ月ぶりに、"ハンニャ"という名前だけは知っている面をつけた客人の姿に、アルスは尻餅を再びついていた。
「ああ、驚かせてしまってすみません」
いつの間にか面をつけて振り返るその姿には、随分と驚いたけれど、通して聞こえてくるのは、"柔らかい中間"の声で、尋ねてきたのはこの人なのだと判る。
尻餅をついてしまったアルスに、ハンニャの面をつけた―――恐らく、アルスの上司である"ウサギの賢者"の客人は手を差し出してくれた。
その手には軍学校の教本で見かけた事のある"東の国の防具"とされる手甲を装着している。
「すみません、その、勝手に驚いて、自分が転んでしまったのに」
「ふふふ、私も君の様な立派なお兄さんの兵士が尻餅をつく姿は滅多に見られないので、貴重な体験になりました」
言葉だけなら"嫌味"に捉えられても仕方がない事なのに、その柔らかさや語調を含める響きで全く嫌な物に聞こえない。
(何ていうんだろう、しとやか……うーん、それともたおやか?)
それでも未だに客人の性別が判断出来ないアルスは礼を口にしながら、差し出された手甲を嵌めているを手に、自分も作業の途中で革手袋を嵌めたままの手を伸ばした。
"ハンニャ"の面の人が身に着けている見かけたことのない、恐らく異国の大きく広がった袖口から伸びた手を遠慮なく掴ませて貰った。
(でも結構握力はあるみたい)
尻餅をついたアルスを引き上げる為握った手甲を嵌めた手の力は、痛み等は全くないのだけれど、確りと掴まれる。
もしここで(するわけもないのだが)アルスが手を振り掃ったとしても、自分の手を握るハンニャ面の客人の手は離れないと確信した。
(じゃあ、この方は男性―――って、あ)
だが、今度は引き上げ立ち上がりながら、恐らく上司の客人の手甲から伸びる指先が見えたなら、それは繊細な爪化粧が施されていた。
剣術や徒手空拳の武道の延長で、爪を保護する為に婦人の使う爪化粧を塗ったりする話も耳に入れたりもするが―――。
(こちらの方は、綺麗な装飾もされているし……もう自分では判別つかないや)
とりあえずアルスは立ち上がった。
「……兵士さん、何やらこちらに来てから随分考え込んでいらっしゃるみたいですけれど、何かありましたか?」
ハンニャの面の眼の箇所に空いている穴の部分から、覆われる事で影になっていながらも、月の様に日の光を反射する金色の眼が、アルスを心配そうに見つめている。
(優しそうな方だから、失礼だけれども、直接訊いた方が早いかもしれない)
「あの、嫌な思いされたなら申しわけないのですけれど、貴方に尋ねたいことが」
「私にですか?応えられる事なら良いのですが―――」
アルスを引っ張り上げて、黒い異国の装束の袂に手を当て乍ら、ハンニャ面の客人が首を傾げた時、"バンっ"と新人兵士の後方でけたたましい音が、響く。
その音に関しては、日頃は丁寧に扱われている"ウサギの賢者の魔法屋敷の玄関の扉"が派手に激しく開かれた為の物であると、新人兵士のアルスでも判った。
そして次の瞬間、
「キーンーグースー!」
と、正面玄関から屋敷の囲いになっている植木の位置まで、撃跳ねるのではなく、"飛ぶが如く"の勢いで、アルス・トラッドの上司で賢者が、名前らしきものを呼びながらやってくる。
(キングス?……て、確か)
前々から上司である"禁術でウサギの姿をしている賢者"や、自分の恩師、小さな同僚から幾度となく名前を聴いている、王室御用達で、国王の許可なく仕立てる事も禁止されている、上司と同じ"最高峰"を冠にする仕立屋―――。
短い時間でそこまで思い出せたけれど、突進してくる上司の気配が迫ってくるのを感じ、そちらの方向を見る。
「うわああ、賢者殿?!」
予想を上回る物凄い速度で、客人を目指して上司がやってきていた。
『古の人々が、兎を"羽"と数えたのが、その跳ねて進む様は鳥が飛ぶように見えたからだそうです』
という美人な恩師の一般教養の座学で教えて貰った事を、思い出させる納得の速度だった。
(って、今学校の事思い出してもどうにも―――ってあれは?)
学校繋がりで、体育でも優秀な成績を納めていた少年は、賢者が"三段跳び"を決めるべく踏み込んでいるのを察知する。
事情は知らないが、自分の上司がハンニャ面をつけた、柔らかい声を出す客人に抱き着こうとしているのは、理解できていた。
だが、それには自分が邪魔になる。
(間に合うか?!)
身を引こうとした瞬間―――ウサギの賢者が飛びながら、3段跳びの2段目を飛びながら、固い爪を弾いたなら、新人兵士の足首に"シュルン"と植木の根が絡みつく。
「え"っ―――ぬわっと!」
少しばかり懐かしいこの状況を思い出しながら、アルスは今度は前のめりに転んだなら、金髪の頭上で、"ぼふん"と受け止める音が耳に入ってきた。
「賢者様?それに、えっと兵士君、大丈夫ですか?」
「キングス、サブノックへの長期出張、お疲れ様~。
何時もより長い時間会えなくて、ワシ、寂しかったよ~」
アルスの事を心配する仕立屋の声と、これまでも散々友人の自慢をされていたので、話には聞いていたけれど大好きな友人―――親友に無事に抱きついたらしい賢者の声が、アルスの頭上から降ってくる。
「あれ、玄関が開きっぱなし……わあああ、アルスくん?!どうしたの」
次に聞こえてくるのは、アルスの小さな同僚の可愛らしい声で、最初は距離は開いていたが"どうしたの?"と口に出す頃には、声は金髪の頭上に来ていた。
「大丈夫?」
「何とか……、ありがとうリリィ」
そう答え、伏せていた頭を上げたならこちらも懐かしい情景というべきかどうかわからないけれど、少女の細いくるぶしに形の良い脚が、空色の瞳に写った。
(最初あった頃は、ウサギの賢者殿が"軍隊"が嫌いって聞いていた事もあって、リリィも"ツンツン"していたもんなあ)
『新人の軍人は、礼儀正しいってホントね。賢者さまがおっしゃっていたとおりです』
『軍歴を重ねるごとに、勘違いする事がないように、あなたは気をつけてね』
丁度、今と同じ様な俯せに転んだ格好になっている時に、その様な言葉をかけられた。
声の響きは変わらないが、今とはとても比べ物にならないくらい冷たく、仕方がなかったとはいえ、本来の優しさをひた隠して"いじわる"な女の子をやっていた時の事を思い出したなら、少しだけアルスの胸に笑いが込み上げる。
(でも、これを言ったら、きっと嫌みになってしまうし、リリィも恥ずかしがってしまう)
強気な目元を裏切らない、負けん気の強い美少女ではあるけれど、基本的に優しい世話好きな女の子なので、配属された初日には、ちょっとした出来事もあり、それが"雨降って地固まる"の効果をもたらし、互いに直ぐに打ち解けてくれた。
そんな中で日常を共に過ごして、新人兵士と巫女の女の子が互いに気がついたのは、物事の考え方や、受け取り方が似ているという事。
似てもいなくても、互いに意見をしあっても、価値観が合っていたり譲り合えるのでその様子には、ウサギの賢者を含め、アルスとリリィを周知している付き合いがある様々な方達から、
"顔は似てないけれど、性格が良く似た兄妹なんだ(ろうな)"
と、勝手な確信や予想込みで思われていた。
「賢者さま、久しぶりにキングスさまに会えて嬉しいのはわかりますけれど、アルスくんを踏み台にするなんて!」
今は家事の仕事をする為に、巫女の上着を外し、エプロンをつけてフワフワとした髪を緩く三つ編みにまとめ背にたらし、頭に三角布をつけた、秘書でもある女の子が賢者を"叱る"。
「酷いなリリィ、幾らワシでもそこまでイタズラはしないよう。
こけさせたのは確かにワシだけど、それはアルス君に、ウサギの体当たり(タックル)を食らわせてしまうことになるから、その衝撃を避けるためにだね」
そんな会話がアルスの頭上で新たに交わされた後に、再び爪の弾ける音がして、新人兵士の足首に巻き付いていた垣根の根っこは外れて、土の中へと戻って行った。
「アルスくん、1人で起きること出来る?」
まるで本当に小さい子供にかけるようなリリィの言葉遣いには、流石に苦笑いを浮かべ、丁度腕立てをする様に両掌を地につけて、アルスは勢い良く身を起こす。
「ロブロウでもケガらしいケガをしなかったのに、帰ってこっちでケガをしたならおかしいね」
つい最近"仕事"で訪れたこの国の西の領地を口にし、身軽に身を起こしたけれども、尻餅をついた後に前のめりの転倒だったので、アルスは見事に全体的に砂ぼこりにまみれていた。
失礼にならによう、リリィとウサギの賢者を抱えているというよりは、"抱っこ"している面をつけている客人と距離を開け、アルスは衣服を叩き、土埃を落とし始めると、盛大に舞った。
「うわ、これは酷いな。ああ、ダメだよリリィ、今から洗濯物を干すんだろう?手も服も汚れてしまうよ」
小さな同僚が、予想以上に酷い土埃を落とすのを手伝おうと、作業用の軍服になっているアルスに近寄ってきているのを手で制する。
「でも、アルスくん背中にもついているし、届かないよ?。
大丈夫、洗濯物を干す前に手も洗うし、エプロンも三角布も外すから」
そう言ってリリィは、小柄な身体でリスの様に素早くアルスの背中に回って小さな手で叩き落とし始めてしまった。
アルスは苦笑いを浮かべ、"ありがとう"と礼を言って小さな同僚が、叩き易い様に中腰になって共に土埃を落とし始める。
その様子を面をつけた内側で、アルスが"月の様だ"と例えた金色の瞳を細め微笑みながら、仕立屋はウサギの賢者の毛を撫でながら見つめていた。
「"アルス・トラッド"君は、リリィさんにとって本当に素敵なお兄さんになりそうですね」
長い耳の根元に素早く呟いたなら、ウサギの賢者は丸眼鏡の奥の円らな瞳を細めて、嬉しそうに微笑んでいた。
その後、土埃を叩き落としたアルスは改めて薪割りを終え、リリィは自分で言った通り、土埃が付着した三角巾とエプロンを外し、丁寧に手を洗って洗濯物を中庭に干し、各々の役目を果たしていた。
そしてハンニャの面を身に着けた客人であるキングスと、魔法屋敷の主であるウサギの賢者は、勤労に励んだ若人を労わるべく、台所でお茶の支度に勤しむ。
ただウサギの賢者も、自分の役割として、国の議会に提出する"ロブロウでの活動報告書"を書かなければいけない。
いけない筈なのだが、
"息抜きも必要だよね~"
と、殆どのお茶の支度をしてくれている客人の腕の中で長い耳をピピッと動かし小さな口でそんな事を言いながら、仕事をサボタージュしていた。
そして新人兵士の少年と巫女の女の子が、それぞれ仕事を終えて、
"汗をかいたなら良く汗を拭き、出来るなら簡単な着替えをするように"
という上司からの指示に従い、簡単に着替えをしていつも食事をとる草原をモチーフとした食堂の扉をアルスがエスコートする形で開けた。
するとアルスがリリィの為に造った、普通の物より一回り小さい台車を、珍しくいつも身に着けているコートを脱いだ、チョッキにズボン姿のウサギの賢者が押していた。
それを丸テーブルの横に付けた時に、自分の部下となる兵士と巫女を見つけ、円らな瞳をアルスの方に向けてから、彼が帯剣しているのを見て、小さく頷いた。
「アルス君、今日は"先客"があるから、その下に剣を安置してくれるかな。
安置する道具は自分で持参してきてくれるから、置く場所自体はいつもの留め金の所で構わないよ」
円らな瞳から注がれる視線で、剣の安置場所の事を言われているのだとアルスは直ぐに気が付いた。
けれども、"先客があるから下で"と"置く場所自体はいつもの留め金でいい"という言葉に金色の髪を揺らし、その言葉の解釈の首を捻る。
「わかりました、賢者殿」
(取りあえず、見て、それでも判らなかったら質問しよう)
そう返事をして、扉の付近にある剣の安置場所を、空色の眼で見つめて直ぐに納得する。
アルスの軍から備品として与えられた剣を安置する、食堂の扉のモチーフと同じ仕様の青銅で野花を象った金具の安置場所の上に既に、"安置されている武器"があった。
("弓"になるのかな)
その形状は教本に載っていた弓という武器ととても良く似ているけれど、全体的に長さが著しく短く見えた。
取りあえず、いつもの様に自分の剣を留め金の上に安置して、その武器を見て、ある疑問が出てくる。
("仕立屋"が生業なのに、武器なんているのかな?。それとも賢者殿や、王族の方々の服を扱う方だから、嗜みとしての武器ということ?)
沢山の疑問が浮かんだけれど、折角上司や、その上司であるウサギの賢者が"大好きだ"と公言する国最高峰の仕立屋が、自分と小さな同僚の為にお茶を用意してくれている。
それを押し退けてまで、聞く話なのかと言えばそうでもない。
(それに、キングス様は軍属のどこかの部署に所属しているわけじゃないけれど、立場で言ったなら、やっぱり賢者殿やアルセン様と言った階級の御方。
質問の許可をされているわけでもないのに、するのは失礼だよね)
だから興味本位で、根掘り葉掘りするみたいなことはやめようと、新人兵士は考え、ただそれでもしてもおかしくはない確認だけを耳の長い上司にしてみる事にした。
「こちらの安置場所に置かれている弓の形をしているのは、キングス様の武器ですよね、賢者殿。
それで留め金も、ご自分で持参なさって、この場に設置されたということですよね」
元々訪問客が少ないウサギの賢者の魔法屋敷では、先ず剣の安置場所の扱いも良くないそれ程良くないのは、アルス自身が配属された初日に身を持って体験して知っている。
それは"武器を携えた"客人はいるかもしれないけれど、食堂で食事を共にするという存在がそれ程少ないのだと、新人兵士は直ぐに考え至ることが出来る。
「ああ、そうだよ。しかもセンスがいいでしょう」
「はい、自分は見たことがない種類ですけれど、留め金に使われているデザインは、何かの植物の花と、多分狐ですよね?」
今度は無言で頷き賢者は肯定する。
改めて留め金の方は見たならば、どういう仕組みなのかは判らないが、確りと壁に接着されていている。
デザインもウサギの賢者が誉め称えたとおり、アルスも素敵だと思うし、前以てこの食堂に併せて造った様に見えた。
ただアルスには、花の名前が判らないけれど、狐のデザインによく合っていると思えた。
(でも、花にしても変わった花弁だなあ)
すると姿はウサギだけれども、賢者でもある存在は、直ぐに新人兵士の抱いた疑問に気が付く。
台所に戻ろうとしていた脚を止め、再び身体の正面を2人の部下の方に向け、右手の指と爪を上に向けて立てて説明を始めた。
「狐と一緒に留め金に使われている花の名前は、彼岸花で、そのデザインみたいに、紅色の独特な細く長く反り返った花弁を持った物だよ。
セリサンセウムという国では、余り見かけないけれど、湿った場所を好むから田畑の畦道とかでは咲いている所もあるんじゃないかな。
それに注意しなければいけない事もあって、全草有毒―――その花の全ての部分に毒があって、特に鱗茎、球根の部分が強い」
「毒ですか?」
毒という言葉にはリリィの方が反応し小さな唇に、自分の両手を当て、丁度隣にいるアルスからみても、いつもの血色の良い顔から血の気を引かせ、少しばかり青くなっている。
(あ、そう言えば)
2週間前に戻って来た、表向き農業研修という形で赴いた西の領地のロブロウでの目的は、4人の貴族の"処断"に対しての調査だった。
結局ロブロウの領主が行った4人の貴族―――全て、処断を行った領主の血縁者達は、罪を犯していて、確固たる証拠もあってこの国の法に則ったなら、処刑は貴族と言えども免れるものではなかった。
リリィという女の子は、負けん気も強いがそれと同じ様に正義感も強くて、貴族の行った事が悪い事で、この国の法律で死をもって償わなければならない事なのだと、11才という年齢なりに受け入れていた。
けれど、丁度多感な思春期という時期にも入り、身体も二次成長に差し掛かっていた少女には"死"というものは考え出したらやはり気持ち良いものではなく、加えて少女自身も必要以上だと思いながらも、意識をしてしまう事を止める事が出来ない。
加えて、その4人の貴族の処断の方法が、殆ど苦しむことはないが、一口、口に含めば死に至る毒の入った酒の杯を呑ませるものだったという。
その話を、ロブロウという領地に入って、ただの何気無い世間話の様に出された話題でもあったのに、今の様に直ぐに血の気を引かせてしまっていた。
"死"もそうだけれども、毒という言葉が、リリィに必要以上の緊張を与えているのがアルスには判る。
(この話を続けるのは、まずいですよ、賢者殿―――)
リリィに妹の様な思いを持っている少年は、少しばかり責めるような気持ちすら持って、全く女の子の変化に気が付いていないような自分の上司を見つめた時、
「賢者様、彼岸花と狐はスタイナー家の家紋に使われているのですから、毒の話は事実ですけれど表現に注意してください」
客人のキングスの声が食堂に割って入ってくる。
例の"柔らかい声"で、アルスの胸の内で浮かぶ尖るような部分が、宥められて、上司への不満も殆ど収まった。
「キングスさま」
直ぐ隣にいる女の子の方も、その"柔らかさ"に気持ちを持ち直したのか、アルスの耳に入ってくる客人の名前を呼ぶ少女の声は通常の物に聞こえた。
呼ぶ声に応える様に、黒い異国の衣を纏った姿で音もなく客人が、"面"を外した姿で入ってくる。
丸い平らな丸いトレーに小鉢を4つ乗せ、ウサギの賢者の横に佇む姿に、客人の素顔を知らないアルスだけが見つめる形になる中で、上司が見上げる様にして語りかけていた。
「運んできてくれたんだ、ありがとう。それにしても、キングス、お面を外しても大丈夫なのかい?」
「ええ、新人兵士君が、件のアルス・トラッド君で、リリィさんにもこんなに優しいお兄さんになら、少しばかり勇気を使ったなら、大丈夫でした。
それに私自身がアルセン・パドリック様の秘蔵っ子とも呼ばれるアルス君と、話してみたかったのもありましたから」
そう言って慣れた仕草で食卓に小鉢を配膳する。
「それで、こちらも少しばかり時期は早いですけれど、薫りの良い梅を旅先で頂いたので、シロップにしておいてゼリーにしました。
色々話すにしても、食べながらにしませんか?」
そう言って、にっこりと"子ども達"に向かって笑って見せていた。
そのキングス・スタイナーの容姿は、一般的にきつい印象を与えがちつり目であるのだけれど、先に耳にいれた声の柔らさやに加えて、ウサギの賢者を"抱っこ"していた姿。
それにこれ迄の立ち振舞いからも"やっぱり優しそうな人"が、アルスにとってのハンニャという面を外した姿の第一印象となった。
敢えて特徴を言うならば、顔の造りは、セリサンセウムという大国を含め付近一体の諸国とも違う国の人だと判る。
(もしかしたら、よくウサギの賢者殿や、ロブロウでも聞いていた"東の国"っていうのは、キングス様の故郷なのかもしれない)
正直に言うなら、キングス・スタイナーという名前と"セリサンセウムの最高峰の仕立屋"という情報で、てっきりこの国の人なのだとばかりだと、新人兵士は思い込んでいた。
(異国の方なんだ)
まだ客人に確認はしていないけれど、アルス自身は異国の人とこんなに身近に、しかも話すのも初めてである。
"外国"の知識はあるけれど、物心ついてから今まで外の国を行ったこともなければ、ここまで近距離で会ったこともない。
(本当なら、言葉とか違うんだろうけれど、全く違和感というか訛りや、方言のみたいなものもないんだな。
もしかしたなら、ご両親がこちらで働いていて、産まれて育ったのはセリサンセウムという可能性もあるし)
セリサンセウムという国は大陸の半分以上を占める大国でもあるので、言語は同じでも、地方によっては発音が異なったり、王都から離れた場所には、独特の方言もあったりする。
特に軍学校では、この広い国の様々な場所から訓練生が集まるので、異国はともかく色んな発音や方言があるものだと感心した記憶はあった。
「さ、リリィさん、座ってください。
ゼリーを食べながら、先ず、個人的にスタイナー家の家紋にあしらわれている彼岸花の印象を、良いものにしてもらいつつ、顔色を更に良くしましょう」
(あ、キングス様も、気がついていたんだ)
アルスも取り合えず、リリィが持ち直したのも判るので座らせた方が良いと思い、小さな背中を支えるように押した。
「キングス様もああ仰っているし、座って、お菓子を頂きながら話をきこう」
「はい、アルスくん」
そして、丁度椅子に座る際に、アルスの正面に仕立屋の素顔を見たなら肌がきめ細く整っているのに気がついた。
アルスの隣に座っている美少女と比べたなら、流石に弾力やら張りは負けるだろうが、日頃"男子"という事もあって、全く手入れをしていないアルスに比べたなら、軍配は仕立屋の方に上がると思えた。
そんな肌の中につり目の左の目元にだけ、紅の化粧が一筋挿してあるのにも気がついた。
(あ、思えば―――)
リリィに優しく語りかけるその姿で、アルスは自分が客人に抱いていた疑問を思い出す。
(キングス様って、結局"男"なのかな、"女"なのかな?)