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第3話 探偵事務所

 文章を読むことで頭痛が引き起こされた?

 途端に意識の外に追いやっていた頭痛が、再び私の頭を支配した。ガツンガツンと脳を叩く。一定間隔を保って、コンピュータのエラーメッセージのように。妙に口が乾き、私はぐいとコーヒーカップを傾ける。

「つまり私は、あの文書を読んで、無意識にデバッグの行動をして、その影響で頭痛に見舞われたと?」

「そうでもあり、そうではない、とも言えますね」

 ヘルメスは意味深長に言葉を濁す。

「どういう意味ですか」

「そう睨まないでください、きちんと説明しましょう」

 別に睨んでいるのではない。頭痛のために眉をひそめているだけだ。

 私の弁明を待つことなくヘルメスは言葉を継ぐ。

「あなたは実際の行動上でのデバッグは行っておりません」

「行動上での?」

「はい。つまりあなたは、実際にジャンプしたり、後ろ歩きをしたりといったデバッグ行動は行っていません」

「では、なぜ頭痛が?」

「あなたは行動上のデバッグはしていませんが、脳内でのデバッグは行っていたのです」

 はあ、と気のない返事を返すしかなかった。

 つまり、どういうことだ?脳内のデバッグとは一体何だ?

「世解術については、あの文書で読みましたね?」ヘルメスが言う。

「え?ああ、あの、錬金術の一種だとか」

 たしかそんなことが文書には書かれていた。世解術とは錬金術の一つで、世界を解析する錬金術だそうだ。また世解術の中には、言語分野から世界を追求する学派があり、あの文書も世解術によって解明された世界祖語なる言葉で綴られており、読んだ人に無意識に刷り込みを行うらしい。そしてその刷り込みの内容とは、本人が気づかぬうちにおかしな行動を取る、というもの。つまりデバッグだ。あの文書の主は、デバッグ仲間を増やしたいがためにわざわざそんなことをしたらしい。世界の解析とはあまりに形而上的なことのように思えて、流石に私は冗談だろうと思っていたが、

「実在するのですか」

「もちろん。あの文書に書かれていたのは、ほとんどが真実です」

「ということは、私もまたデバッグするように刷り込まれた。しかし私は行動上でのデバッグはしていない。脳内のデバッグとはどういうことですか」

「順を追って説明しましょう。

 まず人々は、あの文書を読み、世界祖語による刷り込みの情報をインプットしました。それはデバッグをしろという命令です。脳はその命令を受け入れ、デバッグを開始します。脳内のデバッグを。行動上のデバッグを行うためには、まず脳内というプログラムをデバッグしてからでなければいけないのです。デバッグで脳内に何も異常がないことが確認できれば、命令は記憶の深層に刷り込まれ、やがて時を見計らって、脳は体の各運動神経へとはたらきかけます。こうして脳のデバッグから行動上のデバッグに移行するのです」

 ヘルメスはそこまで説明すると息をついてコーヒーを啜った。

 私の方は、いきなりのことで理解に苦しんでいた。突然頭痛の原因はわけのわからぬ文書と錬金術だと言われても、それを信用していいのか分からない。この男、ヘルメスが全くの嘘を言っているとも考えられるのだ。

 そこで私は気づいた。そうだ、やはりヘルメスは私を騙している。からかっているのだ。でなければこの質問には答えられまい。

「いえ、待ってください。それではなぜ私だけが頭痛に見舞われているのですか。あの文書を読んだ人は他にも数多く、それこそ世界中の人々が目にしているはずです。なぜ私だけが――」

「あなたの脳に、重大なバグがあったからです」

 私の反論はいとも簡単に打ち破られた。

「重大な…バグ?」

「厳密に言えば、頭痛を感じているのはあなただけではありません。ごく少数ですが同じような状態にある人はいらっしゃいます。そしてあなたを含めた頭痛患者には、共通点があるのです。それが、重大なバグ。あなたの場合、それは、」

 ごくり、と生唾を飲み込む音がしてから、それは私が発したものだと気づいた。指先が冷たくなって震えている。私はそれを抑えるように手を組んで、彼の口元を注視した。

「それは、記憶です。あなたの記憶は、改竄されています」


 私はおもむろに立ち上がり、コーヒーカップをシンクに置いた。

 記憶が改竄されている。ヘルメスはそう言った。つまり私の記憶はどこかが間違っていて、それがデバッグに引っかかった。その影響で頭痛が引き起こされた、と。

「頭痛はつまり、デバッグの結果と言えるでしょう。エラーメッセージです」

 ヘルメスは表情を変えることなく、まるで私の反応を確かめるように見つめている。

 記憶が改竄とはまた馬鹿げた話だ。私は噛み付くようにヘルメスに言う。

「冗談もほどほどにしてくれませんか――」私の言葉を遮るようにヘルメスが応える。

「あなたがニューヨークに来たのは何年前のことです?」

「え?ええと、三年と少し、でしょうか」

「ではあなたがニューヨークに来る前、どこに住んでいましたか?」

 この街に来る前だって?そんなの、そんな、のは……

「……」

「あなたのご両親の住んでいるところは?通っていた学校は?学生時代の友人の名前は?なぜこの街に来たのです?どうして探偵のお仕事を始めたのです?学校を卒業後は何をしていました?四年前の交通事故で、あなたが轢いた人を覚えていますか?」

 遠くなっていく。彼の声が遠くなっていく。記憶も一緒に、急に私との距離が遠ざかっていく、本当の距離に戻っていく。記憶ははじめからずっと遠くにあった。なるべく近くにある記憶に手を突っ込んで、一つ一つ掴んでみる。両親は死んだ。学校はこの国ではないところ。友人とは長いあいだ連絡もとっていないから名前を忘れてしまった。なぜこの街に?どうして探偵を?卒業後は?分からない。分からない。分からな――

 ――は?私が轢いた人?

「まさか、違う、私は轢かれた方よ」

 その事故によって私は怪我をして、半年間入院することになったのだ。退院してニューヨークに移り住む頃には、年も越していた。

 頬を汗が伝う。

「いいえ、あなたは轢いた方です。あなたは人を轢き殺し、その衝撃でガードレールに衝突、重傷の怪我を負いました」

「証拠、は、あるっていうの…」

「あいにく証拠は持ち合わせておりません。ご自身でお調べください。それが」

 ヘルメスは立ち上がり、事務所のドアへと向かう。

「それが、探偵の仕事でしょう」

 私は膝から崩れ落ちて、床に手をついた。汗の雫が顎の先から次々と落ちていく。

 ヘルメスはドアノブに手をかけながら言った。

「頭痛が治せるかどうかはあなたの調査次第です。あるいは、私に仰って頂ければ頭痛を治すくらいできますが、本当の記憶については教えません。どちらにするかはあなたがお決めください」

 そう言ってヘルメスは出て行った。

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