第2話 自宅―探偵事務所
翌日も頭痛が鳴り止むことはなかった。
私はカウチに寝転がって、昨日買った探偵小説を開く。カウチの前のローテーブルには、ミネラルウォーターの空いたボトルが所狭しに並べられている。またテーブルの下には、消費した缶詰の空き缶が一週間以上分、ゴミ袋に入れられている。ベランダのプランターには、サンザシが可憐な花を咲かせて芳香を放っているものの、力無げに頭を項垂れている。午前の時間がゆっくりと流れていた。
私は普段から読書を好んだ。それは単に物語が好きであると同時に、読書という行為自体が気に入っていたからである。体の調子がいい時には読んでいる本の内容はすっと頭に入ってくるが、一方で体の調子が悪い今のようなときには、目は文字を追うだけで、その意味を捉えようとしない。読書を通じて自分の状態を把握することができるのだ。状態の把握は、状態の受容につながる。カランカランと相変わらず絶えない頭痛も、これが私の現状なのだと把握してしまえれば、その状態を前提として今の私を再構成することができる。そうすると、頭痛という現象が私の存在の基盤であるかのようにも感じられてくる一方で、私の内部からは切り離されたもののようにも感じられてくる。それまで頭痛は内部から頭蓋を叩きつけ、視界の端にはその衝撃の波紋が見え隠れしていたが、今度は外部に切り離されたことによって、波紋は視界の範囲から消え、頭痛は頭上で鳴り響く鐘となるのだ。そうして頭痛を意識の果てに追いやって、私は探偵小説のページを繰っていた。
だがそれでも、小説の内容は頭に入ってこない。何が原因が、と再び意識の内部を注視すると、雑多な記憶の切れ端が散乱していることに気がついた。昨日会ったあの妙な男。彼の言動にはいささか不審な点が多すぎており、その邂逅自体が夢であったのではないかと思われるほど、彼に関する情報は浮き足立っていた。意識という平野にあの男の切れ端が散乱していて、小説に集中する余裕がないのだ。そして情報はいくら散乱しようが、私の記憶にはそれぞれが確かに刻まれていた。
探偵の仕事は、その半分が民事関係のゴタゴタを解消するものであり、そのためには関係者各自の証言や証書を逐一記憶にとどめて、後から照合する必要がある。故にこの仕事には即興の記憶力が必要とされていたが、怪しげな人間や事件に引き寄せられやすいという性質に並んで、探偵の仕事に役立っている私の得意分野がその記憶力であった。
私の視点は次第に小説の文字を離れ、その後ろにあるボトルのビル群に注がれた。
とりあえず彼のことについて整理しよう。今手にしている本は紛れもなくあの古書店で買ったものであるし、彼と会ったのも夢ではあるまい。彼について気にかかる点はいくつかある。まず、なぜ私の名前や頭痛を知っていたのかという点だが、これを知るのに特別な労力は必要としない。私の名前は仕事上、名刺や伝聞によって少なくともこの街では広まっている。それから頭痛については薬局で頭痛薬を買うところを目にしていればすぐにわかることだ。
つまり問題は、なぜ私なのか、どうしてわざわざ私に話しかけてきたのか、という点だ。頭痛で悩んでいる人ならば私以外にも数多くいる。茶に誘いたいなら他に適役はいくらでもいる。それでもなお、いかにも私を選んだかのように目の前に突如現れて見せ、話をしたいと言うからには、彼なりに大切な用件があるのだろう。事実彼は、私に用があると言っていたのだ。
そして私は、ローテーブルの隅に置かれた名刺を睨む。
「『ヘルメス・テトラプラシオ』、結局は会ってみなければ分からないか…」
そう私がため息混じりに呟いた直後、玄関のベルが鳴り響いた。
嫌な予感しかしない。おそらく出なければ出ないでいいのだろうが、それでは何もわからずじまいで終わってしまう。それならば。
「はいはいっと。…やっぱりあなたですか」
玄関前にはあの男ヘルメスが立っていた。ドアの框よりも身長が高いせいで、彼の首から上が見えない。私はかがみ込んで彼の顔を覗き込んだ。昨日あった時よりもその顔はよく見える。深く刻まれた皺、ギラギラと光る双眸、灰がかった肌色は石のように生気がない。
「『こちらをご覧ください』なんて言って、まさか本当に名刺を見るだけで現れるとは思っていませんでしたよ、ヘルメスさん」
苦笑いしながら私がそう言うと、
「お待ちしていましたよ」
まさかずっと玄関の前に?とは聞けなかった。
とりあえず場所を変えることにした。現状ヘルメスを名乗る男が信用できるはずがなく、家に上げるのがためらわれたからだ。古本屋や玄関の時の例もあるから、家の中にぱっと現れ出でることもできるのではないかと思ったが、だからといって自ら誘い入れる必要もない。私は彼を連れて探偵事務所に向かった。
雑居ビルの1階にテナントとして間借りしている事務所では、一週間ぶりに開けられた窓から差し込む陽光に、塵がきらきらと舞っている。応接セットと一人分のデスク、それから法律関係の書籍が詰め込まれた、天井まで届く本棚くらいしか置かれていない事務所でも、ヘルメスが足を踏み入れた途端に、その長身のせいで妙に狭くなったように感じる。私はシーリングファンのリモコンを押しながら、彼にソファを勧めた。
デスク脇の冷凍庫からコーヒーの豆を取り出して、ミルに流し込みながら私は聞く。
「それで、どうして私の名前を知っているんですか。いや、名前だけじゃない、住所や頭痛のことも」
「以前にも申し上げたとおり、私はなんでも知っています」
そういえば、と私はミルのハンドルを回しながら思い返す。この男は初めて会った時もそう言っていた。そして付け加えるように言ったのだ、『あなたのことも』と。
「なんでも、というのは私のことだけではないのですね」
「覚えていらっしゃるとは驚きました。記憶力が良いのですね?」
ヘルメスは妙に皮肉じみた言い方をした。
「アリソン、私のことはいいのです。あなたの話をしましょう」
「私が話すことなんて特にないですけど」
冷蔵庫から水に浸けたネルフィルターを取り出してから、もうこれを一週間近く放置していたことに気づいた。仕方なくペーパーフィルターをドリッパーにセットして、ミルから粉を入れる。ふわりと香る。
「では私からお聞きしましょう。頭痛はいつから続いていますか?」
「二週間前からですが」
まるで問診だなと思ったが、昨日は医者と思って話せと言っていたか。話して頭痛が治るのならさっさと仕事に復帰しているのに。だが。
「頭痛の原因として思い当たるものはありませんか」
「…いいえ、ありません」
だが、この男からはなにか答えが得られそうな気もするのだ。この男は、あまりに周りから浮きすぎているような感じがする。輪郭が影で縁取られ、地に足が着いていない異物感、誰でも一時感じたことがあるようなあの浮遊感を、この男はいつでも纏っているのではないかと感じるのだ。
「それでは、頭痛とは関係なくても構いません、二週間前に起こったことでなにか覚えていることはありますか」
「二週間前ですか、ええと、すみません、ちょっと考えます」
ポットからドリッパーに湯を注ぎ、コーヒーの粉を蒸らした私は、漂う香りを吸い込んで考える。二週間前、二週間前。カレンダーに目をやる。日記のようにその日あったことを書き込んでいるが、二週間前の日付には、『二日で仕事が片付いた。ラッキー☆』と書かれていた。そうだ、この日は例の、調査対象の隣の個室で酒を飲んだ翌日ということになる。
「依頼を一つ片付けた日ですね。別に変わったことはありませんでしたよ」
「その他に思い出せるものはありませんか」
「頭痛が始まる前のことですよね。頭痛を感じたのは帰宅した時だから、ええと」
帰宅する前に何かがあったのだ。朝か。昼か。依頼達成の報酬をもらったあと、その日は特に受けた依頼はなかった。日が暮れる前に、早めに切り上げて帰ろうとした。事務所を出て、そして、
「おかしなチラシが事務所前に散らかっていた…」
「おかしなチラシとは?」
「…知っているのでしょうが、自分で思い出すために説明します。
そのチラシは事務所どころじゃない、街中に、国中に、そして世界中にばら撒かれていた。私は手近に落ちていた一枚を拾ってみたものの、チラシと言うより短編小説のように書き連ねられていたので、家に持って帰って読むことにした。帰宅してラジオを点けると、『意味不明の文書が世界中に頒布されているが、その内容に科学的根拠は一切ない。手元にある場合はすぐに破棄しろ』というニュースが流されていた」
「しかし、あなたはそれをお読みになった」
「ええ。性と言うのか、職業病と言うのか、私はそのニュースで忠告されたことによって、かえってそのチラシを読みたくなった。いったい何が書かれているのか、誰によって書かれたのか知りたかった。それでカウチに座って一通り目を通してみたけれど」
文書はまるで、ある人の手記のようであった。書き手はデバッガーを自称していたが、なんでもプログラムのデバッガーではなく、現実世界のバグを探すデバッガーらしい。彼(彼女?)のデバッグ――壁に向かって歩き続けるとか、そこら中の人に話しかけるとかいう、ゲームのデバッグでやるようなやつを、現実で、だ――の内容が綴られていた。それから、錬金術だか魔術だか胡散臭い話が続く。そして最後、実はこの文書には仕掛けがあり、読んだ者には無意識に現実のデバッグを行う刷り込みが行われたのだ、というところでオチだ。
私はコーヒーをヘルメスの前に置き、対面に座った。
「グァテマラですか、いい香りだ。それで、あなたはどう思いますか、あの文書の内容は」
「…一言で言うと、どうでもいいですね。最初こそ面白そうだと思って読んでみましたが、まるで荒唐無稽で、突飛で。もしあれが真実でも、どうでもいいです。どうせ私がデバッグだとか言うおかしな行動をしたって、それほど私の害になることでも――」
そこで私の言葉は途切れる。今自分は何と言った?害にならないと?じゃあこの頭痛はなんだというのだ?十分害だと考えられはしないか?
「気づかれましたか?」
彼は私の反応を見るように、コーヒーを啜ったが、私は考えることに精いっぱいで返事も返せない。そしてヘルメスは、
「そう、あなたの頭痛はまさに、あの文書を読んだことによって引き起こされたのです」
事も無げにそう言った。