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第1話 自宅―古書店

 妙な頭痛が私を悩ませていた。

 妙な、と言うのはその頭痛が一向に止む気配がないからだ。一定の間隔をおいて、甲高い声が頭の中を乱反射するような、酷く不快な痛みがもう二週間近くも続いていた。頭痛はまるでコンピュータのエラーメッセージのようで、その冷たい痛みは一々私の癪に障り、生活の諸活動さえ手に着かないほどだった。

 一週間前からは仕事を休んで、薬局で買ってきた頭痛薬を服用量の限界まで飲み込んでベッドに突っ伏していた。以前から体の不調を感じることは確かにあった。数年前交通事故で半年近く入院したことがあったが、あれから指の先が震えたり、酷い耳鳴りを感じたりなどしたことが何度かあった。事故で頭部を負傷したことによる後遺症だろうと、当時の担当医は言っていた。今となってはその程度の不調は慣れていたものの、こんなに酷い頭痛に見舞われたのは初めてで辟易してしまっていた。しかし頭痛薬が切れれば買い足しに行くしかあるまい。私は数倍重くなった頭に体のバランスを取られながらマンションを出た。

 ニューヨーク郊外、レンガ造りの街中を歩いていると、まるでこの場所を初めて訪れたときの、自分の存在だけが周りから浮いているような浮遊感を感じる。私の体の輪郭だけが影で縁取られて立体的であり、一方レンガのアパート群は手で千切った模造紙を貼りつけたようにのっぺりとしている。そういえばこの町に来たのはいつの頃だったろうか。例の交通事故の影響で、その前後の記憶がまるで無かったが、街に移り住んだのはそれよりも前だったはずだ。でなければ、家族や古くからの友人もいないこの街に、わざわざ越してくる必要もない。

 仕事はこの街に来てから始めたので、もう四、五年ほど経つだろう。自宅から程近いところに事務所を借りて私立探偵をしているが、浮気調査や身辺調査などの地味な依頼がほとんどで、時折訪れるストーカー対策調査のような比較的華々しい依頼をやりがいにしていた。とはいえ私には探偵業務にはもってこいの不思議な特性があるようで、つまり私は自然と怪しい人物や事件に出会いやすい性質らしかった。一番最近の依頼は浮気調査だったが、依頼を受領したその日にたまたま立ち寄った酒屋で、私は調査対象と浮気相手が逢引する個室の隣室に通された。おかげで次の日には報酬を得ることが出来たが、こんなことは珍しくもなかった。


 だから私が、薬局の帰りに立ち寄った古書店で、身丈の長いローブに身を包む男に話しかけられたときも、最初こそ私は驚かなかった。

「頭痛には原因がいまだ分かっていないものがあることはご存知ですかな」

 その時私は、数冊の探偵小説をレジに持ってきたものの、いつも退屈そうに新聞を読み返している老店主がいないことに気付いて、レジの脇にある鈴を鳴らしたところだった。その声と共に突然人らしい気配を感じて振り返ると、眼前に壁が突っ立っていた。

「そもそも人間の身体的な病には、必ずしも身体的な原因があるとは限らない。ある国の諺にも『病は気から』と言う言葉がある通り、精神的原因によることもあれば、環境的原因が寄与していることも少なくはないのです」壁が喋った。

 勿論壁は喋らない。壁に見えていたのは男の腹部であった。平均身長の私がほとんど真上を見上げなければならない位置に彼の頭はあった。寧ろこのオンボロ古書店の天井が、彼の身長以上に高いことに驚いた。

「ではあなたの場合、その頭痛の原因とは何でありましょう」

 浅黒い肌をした男の顔は、逆光のために表情を読み取ることすらできなかった。

 ところでこの男はさっきから何を話しているのだ。私は漸く口を開いた。

「ええと、頭痛の原因?だいたい私、頭痛のことなんて話しましたっけ?あんまり痛むから独り言でも言ってしまいましたかね」

「いいえ、あなたはこの店に訪れてから一言も話していません」

 男は体を震わすようにして低い声で答える。

 今は頭痛だけで手一杯だというのに、また怪しい人に絡まれてしまったのだろうか。私の性質は時を誤ると不運を呼ぶ。

「ところであなたは一体何なんです。私に何か用ですか」

「はい。ぜひあなたとはお話ししたいと存じます。あなたさえよければご一緒にお茶などいかがですか」

 ああ面倒だ。今は小説を流し読みしながらベッドに横になっていたいものなのだが。

「すみません、また後日でよろしいですか。どういうわけか知りませんが、ご存知のとおり頭痛がひどいもので」

「あなたへの用事というのはまさにその頭痛についてのものなのです。とにかく、私をただの医者だと思ってお付き合い願えませんか、アリソン」

「……」

 はあああああ。

 心中で深いため息を吐かざるを得なかった。

「どうして私の名前を知っているんです」

「なんでも知っていますよ、あなたのことも」

 陽光が雲に遮られたのか、逆光が弱まり、相対的に男の顔が先ほどより判別できるようになった。深い皺が眉間や頬に刻まれているものの、灰色の瞳がギラギラと若々しく、初老の壮年という奇妙な印象を私に与えた。

 男はしばらく私の目を覗きこんだのち、

「とはいえあなたが望まないのであれば、私に強制する資格はありません。後になって気にかかるようでしたらこちらをご覧ください」

 そう言ってどこから出したのか、名刺を私の前に突き出した。

 いきなり現れてお茶でもどうかと誘ったうえに、頭痛や名前まで言い当てて、結局は後で連絡しろと。体の調子が戻ったら、この男の身辺調査から始めた方がいいのかもしれない。

 気づけば私は男の名刺を手にしていた。名刺に目を落とすと、控えめな文字で名前が書かれていた。聞いたこともない――単純に語彙としても聞いたこともない――名前は、その意味有り気な響きが男自身の纏う空気によく似合っている。だが名刺には名前しか書かれていない。これでは連絡のしようがない。

「『ヘルメス・テトラプラシオ』、さん、ですか。あの、電話番号とか――」

 名刺から顔を上げたときには、男はすでに眼前から消えていた。

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