九章
引き抜きの話は、一日も経てば、あっという間に社内を駆け巡っていた。
出社した高田を見るや、一斉に社員達が集まってくる。
「高田! お前、昨日、日輪の話を断ったって本当かよ」
「え、あ、ああ」
「高田さん、本当なの? この会社に残ってくれるって! 辞めないのね?」
「別に辞めるつもりはありません。俺にとって、ここの仕事は大切ですから」
その日、高田は会社の全員から賞賛され続けた。朝礼の後には齢、七十を超える社長に呼び出され、涙を流して抱きつかれる始末であった。
会社の存続が自分の手腕に大きく掛かっているというプレッシャー。それもまた、自分に疲労を貯めてくれていたのではないかと、高田は改めて感じるようになった。
もしこれが日輪照明だったら、自分がどんな失敗をしても会社が潰れることは絶対にないだろう。個人と上司が責任を取るだけで終わるはずだ。そういう意味では、疲労を貯めるには安定しすぎていると言えた。ドリームキャンディで夢を見ることが生きがいである高田にとって、その安定は必要のないものだった。
もちろん、高田が会社に残った理由が、まさか濃密な夢を見るためだなんて想像出来た人物は一人もおらず……高田は名実共に、会社のホープから英雄へと変わった。
高田は毎日全力で仕事に取り組んだ。社内でも積極的に交流を持つようになったことで、後輩の悩みや相談も受けるようになり、ミスによる残業があると聞けば、喜んでそれを手伝った。
また、高田は、自然と女性から話しかけられる機会も多くなっていた。
「高田さんってぇ、変わりましたよね~」
ギャルの香りを残している女性事務員が高田に言う。
「え? そうかな?」
「凄くカッコ良くなったっていうかぁ。あー、もしかして彼女が出来たとか?」
「彼女か……そうだね。それが今の全てと言っても良いかもしれないな」
「ええーっ、やっぱり居るんだぁ! ちょっと残念~。あたし高田さんの事、狙おうと思ってたのにぃ」
「どうかな。まあ、少なくとも、俺とキミじゃあ、趣味から生活から合わないだろう」
「そんなことないですよ~。あたし尽くすタイプだもん。三歩後ろ歩くタイプだしぃ」
「じゃあ、掃除や料理は得意なのかい?」
「出来ますよ~。どっちもここ数ヶ月やってないけど~」
「そんなのはお断りだ」
「ひどーい!」
「はははっ」
たわいないやり取り。それすら、疲労の蓄積に繋がるという考えしか、高田の頭にはなかったのだった。




