十七章
誰かの呼ぶ声が聴こえる……自分の名前を誰かが呼んでいる。
――俺は死んだのか?
暗闇に落ちたはずなのに、今はなぜか光が眩しかった。
ゆっくり目を開けると、いくつもの人影が自分を見おろしていた。
「高田くん、大丈夫か!」
「高田さん!」
全員、どこかで見覚えのある顔だった。それがだんだんはっきりしてくる。
――……社長? それに――。
「……近藤部長? みんなも……どうして?」
「良かった、気がついたか!」
「あたし、先生を呼んで来ますっ」
「待ちなさい、わしも行こうっ」
「社長、急いで!」
バタバタと慌ただしい音が遠くなる。静かになったところで、高田が近藤に訊ねた。
「ここは、どこなんですか?」
「病院だよ……」
「病院……? みんな集まって、一体何が?」
「覚えていないのか? 高田くん。キミは自宅で意識を失い、倒れていたんだよ。彼女が見つけてくれなかったら、今ごろどうなっていたか――」
「……彼女?」
仰向けの高田の傍に、そろりと近付いてきたのは、八葉商事の中村奈津子だった。
「中村、さん?」
「高田さん……無事で、本当に良かった……」
中村はカーディガンの袖で自らの目尻をそっと拭った。
「今朝、彼女が高田くんのアパートを訪ねたんだよ。そしたらキミの部屋のドアが開いている状態だったそうだ」
近藤の説明に中村が頷く。
「はい。鍵を掛け忘れたのかなと思ったけど、ドア自体が閉まりきってなかったから、変だなって……それで、悪いとは思ったんですが、入らせてもらったんです。そしたら……」
声を詰まらせた中村に代わり、近藤が続ける。
「青ざめた状態のキミがベッドの上で気を失っていたそうだ」
それで救急車を呼び、病院に搬送されたという事だったらしい。
「まったく、一時はどうなることかと心配したぞ」
近藤はそう言って脂汗をハンカチで拭き、頬を緩めた。
「それで、みんな来てくれたんですか……」
「ああ。なんたって、今まで、みんなキミに救われて来たんだ。キミの危機には、駆けつけて当然だろう」
「……ありがとうございます」
悪夢から目覚めることが出来たという安堵感。そして、自分は、いつの間にかこんなにも愛されていたのかという実感に、高田は自然と目頭が熱くなった。やせ細った輪郭を伝い、一筋の涙が流れ落ちる。
それからやって来た医師の診断によると、栄養バランスの偏りや、極度の疲労が原因であるということらしく、発見がもっと遅れていたら、命は無かったかも知れないと言われた。
高田は静養も兼ねて、数日間の入院をすることになった。初めは朝昼晩の三食食べるということが出来なかった。胃が弱りすぎて、活動が不安定になっていたためだ。しかしそれも、時間と共に改善していった。
退院も近づいていたある日。暇つぶしにと、同僚が持ってきてくれた、最新号の週刊誌を読んでいた高田は、スクープとして大きく取り上げられた記事を目にした。
そこには、『美人アナウンサー、宮倉彩夏。小野寺正孝と破局!』という文字が大きく掲載されていた。情報によると、小野寺には他にも恋人がおり、それを知った宮倉が激怒――。修羅場になってしまったらしい。
「ところで――」
退院日の前日。高田はお見舞いに来てくれた中村に訊ねた。
「どうして中村さんは、ウチが分かったんですか? 確か、来た事は無かったですよね」
「あ、それはですね、前日に偶然、高田さんの会社に用がありまして。せっかくなので高田さんにもご挨拶をと思ったのですが、お休みされているということを聞いて……。その時に、あ、訊ねたわけではないのですが、女性事務員の方が高田さんの住所を教えてくれたんです。それで分かっていたので……」
「その女性って、言葉使いがギャルっぽい子?」
「あ、はい。そうです」
「やっぱり」
いくら仕事仲間とはいえ、人の住所を勝手に伝えるとは、アットホームな会社にも程があるだろう。
高田は思わず苦笑した。しかし、今回はそのおかげで命を救ってもらったとも取れるわけだから、強くは言えない。
「それで、あの時、中村さんは何時ごろ来られたんですか?」
「高田さんが倒れていた日ですか? えっと、確か五時くらいかな?」
「五時!」
突発的に大声を上げてしまい、高田は慌てて自分の口を押さえる。幸い、大部屋の患者は皆、眠っているようだった。
「――そ、それって、朝のですよね?」
「は、はい……だって、高田さん、何時に出社するのか知らなかったし……一応、夜にメールもしたんですが……」
「そうでしたか……。でも、どうしてウチへ?」
「実は……事務員の方に、高田さんのお家の住所が書かれた紙を渡されてしまいまして……。捨てるのも気が引けたもので……それで、その紙と一緒に、お弁当でも作って持っていこうかと――」
「お弁当?」
「ほ、ほら、高田さん、忙しそうだったじゃないですかっ」
中村は慌てた口調で言う。
「あんまりバランスのとれた食事も出来てないって……。お昼も丼モノが多かったみたいだし。だから迷惑かと思ったんですが、ちょっと作って、持っていったんです」
俯き加減でパイプ椅子に座る中村は、両手を膝の上で合わせ、少しだけ頬を赤らめた。
「そ、そうだったんですか。すみません。せっかく作ってくれたのに食べられず……」
「あ、いえ! 作ったと言っても、味は全然庶民的で誇れるものじゃないし、気にしないで下さい。それに、高田さんが無事だったのが何よりです」
心底心配してくれたのだろう。照れたように笑う中村に対し、高田はこの時、初めて好意という感情を抱いたのかも知れない。確かに、ルックスでは宮倉やトップモデル達には及ばないかもしれない。だが、彼女には彼女の良さがあると思った。
「――そうだ。じゃあ、もし良かったら、今度また作ってもらえませんか?」
「えっ?」
「料理です。病院からも規則正しい食生活をするように言われているんですが、恥ずかしながら経験があまりないもので」
高田は照れたように鼻を掻く。
「…………あっ、は、はいっ。私で良ければ!」
二人は、紅潮した顔を見合わせると、くすりと笑いあった――。




