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十六章

 太陽が南中の空に昇る中、街路樹の下のベンチに座っていた高田の元に、宮倉彩夏がやってきた。

「やっほー。お待たせ、正平くん」

「……やあ。今日はいつも通りみたいで安心したよ」

「あはは、何それ? で、本日のデートは?」

 高田はその質問に答えず、組んでいた足を解いて立ち上がると、ボタンを留めていないスーツを靡かせ、宮倉の手を引いて歩き出した。

 宮倉は少し驚いたような表情を見せたが、それでも黙って高田の後ろをついて行く。

 たどり着いたのは、一等地のホテルだった。

「え? もうホテルに入るの? まだ明るいよ。どこか遊びに行ってからにしない?」

「いや、なんだか悪い夢を見てしまってね。正直言って、今はかなり気持ちが落ち込んでるんだ。だから、彩夏に慰めてもらいたいなって」

「そうなんだ……辛かったんだね……。分かった。じゃあ、行こっか」

 宮倉は高田の腕に身体を寄せる。

 二人はフロントで最上階のスイートにチェックインを済ませると、部屋に入るなり抱擁を交わし、そのままキングサイズのベッドに倒れ込んだ。

「きゃっ」

 高田は猫のように、自分の頭を宮倉の胸に擦りつける。大きく息を吸い、バラのフレグランスを鼻腔へと存分に取り込む。宮倉は両手で高田をそっと抱き、なめらかな指で髪の毛を撫でていく。顔を上げた高田と宮倉の視線が交わると、二人は示し合わせたように唇を重ねた。時間の経過など一切気にせず、何度もお互いを求めた。

 肌が重ね合わさり、汗のしずくがベッドシーツを濡らしていく。何度も繰り返した行為だが、飽きのようなものは一切なかった。

 ――どうだ、小野寺。お前がどんなに金を持っていようと、この世界では俺が支配者だ。彩夏は俺のものなんだ!

 宮倉を抱きながら、高田はそんな征服感に心をたぎらせた。

 お互いに息が上がり、自分の身体すら満足に動かせなくなった頃、二人はようやく身体を離した。

 宮倉が疲れて寝息をたてる横で、高田は仰向けになり、呼吸を整える。部屋の中は、余韻の暖気を含んだ甘い空気が漂っていた。

 しばらくして喉が渇いた高田は、ベッドから起き上がると、カーぺットの床を裸足に上下、下着姿で歩いた。備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、キャップを開けて一口飲む。冷たい感覚は、火照った身体をストンと落ち着かせてくれる。高田は水を飲みながら窓際に立つと、締め切っていたカーテンを開けた。

 窓の外はすっかり夕暮れになっており、人工物が放つ点々とした無機質な灯りが、街並みをぼんやりと映し始めていた。

 高田は道路を走る車のヘッドライト群を眺める。この景色だって、自分が高い位置から見るためだけに存在しているのだ。

 この世界では何をしても許されるという優越感は、高田の心をこの上なく満たしていた。


 しかしそれは、宮倉の元へ戻ろうと、視線のピントを直した瞬間に瓦解した。


 ガラスに反射する形で見えた真っ暗な部屋の中――。そこに映る自分のすぐ後ろに、フードを被った俯き加減の男が立っていたのだ。


 顔面の血の気が引いて、一気に蒼白となる。

 次の瞬間、振り返るより早く、高田は後頭部に、まるで雷が落ちたかのような強い衝撃を受けた。

「うっ!」

 何が起きたのか理解出来ないまま、もんどりを打ちながら床に崩れ落ちた。

「ううっ。だ、だれだ……」

 傍にあった椅子の肘掛けに手をかけつつ、相手を見上げる。ゾッとするほどに無表情なその顔は、なんと、あの小野寺正孝であったのだ。

「そんな馬鹿な……な、なんで、お前がここに!?」

 小野寺は右手にバットを握り締めていた。高田はこれで頭を殴られたのだと理解した。首筋にだらりと生暖かい液体が流れ落ちる。瞬間的な痛みは痺れに変わりつつあり、立ち上がる事が出来ない。

 小野寺はバットを真上に振りかぶると、そんな高田めがけて振り下ろしてきた。

「うわあっ」

 咄嗟に、頭を両手で守りながら身体を縮こませる。それを追いかけるように、風圧が通り過ぎ、鈍い音が耳元で響いた。だが新たな痛みはない。恐る恐る顔を上げると、バットは椅子の肘掛けに直撃しており、その滑らかな木目の曲線を叩き割っていた。

「ひいっ」

 高田は、ペットボトルからこぼれた水で濡れる床を四つんいで進み、慌ててその場から逃げ出す。

 ――どうしてだ? ここは俺の世界のはず! 全てが俺の思い通りになる場所だ。なのに、どうして奴がいる!?

 ベッドの上に目を向けると、羽毛布団の盛り上がり方からして、宮倉はまだ眠っているようだった。

「おい、お、起きるんだ、彩夏。奴が……小野寺が……」

 小声で呼びかけながら、ベッドの陰に身を潜める。

 小野寺の動きを警戒しつつ、手探りで宮倉の身体を探していく。すると震える指先が、枕元の辺りで髪の毛を触り当てた。それを辿ると、覚えのある形の耳に到達する。

「彩夏、起きろっ」

 しかし揺らしても全く反応が無い。こんな緊急時にも関わらず、暢気に寝続けるとは! 高田の頭からは大量の血が流れ、視界もぼやけ始める。

「彩夏!」

 腹立たしくなった高田は、宮倉の横顔を平手で叩いた。するとその瞬間、彼女の頬が、まるでろうのようにドロリと溶け出した。

「う、うわっ」

 驚いた高田が手を引くと、きめ細やかだった宮倉の肌はあっという間にどす黒く変わり、その一部から骨のようなものが見え始めた。

「うわあああっ!」

 パニックになった高田は、ドアを勢いよく開けて部屋から飛び出した。指に引っ掛かっていた皮膚のようなものを振り落とし、ランプの仄かな灯りに照らされる廊下を無我夢中で走った。

  ――これは夢? 現実? と、とにかくここから逃げなければ……!

 エレベーターの前に到着すると、開閉ボタンを壊れんばかりに連打する。しかし電源が入っていないのか、扉は一向に開く気配がない。

「どうなってるんだ! なんで動かないんだよ!」

 苛立ちに扉を殴りつける。

 すると横の階段から、赤いワンピースを着た、髪の長い女性が上がって来るのに気がついた。

 高田は助かったとばかりに駆け寄る。

「た、頼むっ! 警察を呼んでくれっ!」

 状況を説明しようとした高田に、女は突然、前のめりになってもたれ掛かってきた。

「うわっ……!」

 咄嗟に支えようと女の肩に触れた時、高田の腹部に強い痛みが奔った。

 ――痛っ! なんだ……? 今、何かを押し付けられたような……。

「ど、どけっ!」

 高田は女の身体を力一杯押し返した。

 バランスを崩した女は、階段を転げ落ちると、踊り場で動かなくなる。だが高田にとってそんな事は二の次だ。急いで痛みの原因を調べる。すると、細い果物ナイフのようなものが、自分の下っ腹に、ざっくりと刺さっていた。シャツの裾に、アンバランスな赤い染みが広がる。

「な、なんで……」

 踊り場で倒れる女性の顔を見たとき、高田はまたしても絶句した。なぜならその人物が、過去にドリームキャンディで一夜を共にしたトップモデルであったからだ。だが今回は選んではいないはず……それがなぜここに?

 状況が理解出来ない高田に、更なる悪夢が訪れる。廊下に並ぶ部屋のドアが次々に開くと、そこから精気を失った表情の女性たちが現れ始めたのだ。それらも全て、高田が夢で関係を持った人物たちであった。

「な、なんだよ、お、俺が何をしたって言うんだっ!」

 高田は壁に背をつけ、左右から迫り来る女たちを牽制けんせいする。と、背中越しに、壁とは違う鉄の感触がした。

 横目で確認すると、そこには『屋上、火災避難用階段』と書かれたドアがあったのだ。

 高田は後ろ手にレバーハンドルを下げ、背中で扉を押した。冷たい空気が廊下に吹き込んでくる。

 ――寒いっ!

 異常な寒気に身震いしながら、ふらつく足取りで非常階段を上る。屋上のドアを開けると、一面、コンクリートの広い空間に飛び出た。

「誰か、助けてくれ……さ、寒い……殺される……」

 震えが止まらない自分の身体を両手で抱きしめながら、端まで歩く。

 フェンスの無い足場から下を覗き込むと、そこにはただ、真っ暗な闇が広がっていた。人影どころか、建物、車、外灯、道路、それらがいつの間にか一切無くなっていたのだ。

「そんな……ど、どうなってるんだ……なんだこれは……俺はこんな夢なんて望んでいないっ! 誰か、助けて……助けてくれぇっ」

 高田はついに立っていられなくなり、膝から崩れ出す。視界がぐらぐらと揺れ、バランスを取れなくなると、強い風に煽られた瞬間――――。

「あっ――――」

 視界がぐるりと回り、伸ばした腕が虚空を掴むと、高田は闇に飲み込まれるように、屋上から落下していった――。

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