浜辺の旅館⑥~母親との別れ
厨房でふたりきりになると庄屋を手招きをする。
「旦那さま。よろしゅうございますか」
浜辺に出ると夜風が酔いの顔に心地よく頬を撫で上げた。
寄せては返す波の音がキラキラと光り輝く。
「ホオッ~」
美貌の若女将に誘われ庄屋は最高ムード。しごくご満悦である。
「さあさあ旦那さま。こちらへどうぞ」
酔っぱらいの手を引き波打ちの岩屋に辿りつく。
この岩壁あたりは暗闇で足元はわかりにくい。
大変に危険な断崖絶壁であった。岩から足を滑らせたら海に叩き込まれまず助かることはない。
かつて絶望した女が果てようとした岩屋であった。
「旦那さまぁ~。さあさあっこちらにおいでください。さあ旦那さま」
気分のよい庄屋である。
夜風と月明かり
美貌の女との逢瀬ムードを盛り上げる。
砂浜から海岸の険しい岩屋にのぼる。
「さあこちらへ」
足元のふらつく庄屋を断崖絶壁に誘い出す。
一歩間違えるとざぶんざぶんと波打ちが白いシブキをあげる絶壁である。
「月の灯りで。私がご覧になれますかしら」
"私がご覧に?"
女はシナをつき艶をつくる。
着物姿は月灯りでセクシーさを増していた。
「こちらにいらっして。月の灯りで私がよりよく見えますわ」
誘っている
この女はワシを誘っている
庄屋は嬉しくてカァ~と頭に血がのぼってしまう。
「アッ旦那さま。足元にくれぐれも注意してくださいね」
ツルリと足を滑らせたら
「海に突き落とされてしまいますわ」
そういう女自身も足許は危ない。
危険回避のため体を安定させ岩に背をもたせた。
月灯りを確かめ危険な断崖を背景に右へ左へと庄屋の位置を確認して動き出す。
薄暗い月の灯り。
見える角度が限られる。
岩に立たなくては見えにくいのである。
だが岩で立ち上がりは不安定である。
庄屋は眩い女に感嘆の声をもらす。
「おおっなんと綺麗な女じゃ」
月明かりに映える女はこのまま天女になるのであろうかと錯覚する。
見ているだけでは我慢できない。庄屋は断崖の岩にあがろうとする。
老人は女に夢中になり滑りやすい岩にのぼってしまう。
「足許が…ゴツゴツした岩じゃが。危ういが気をつける」
庄屋は断崖絶壁の岩屋頂点に登りつめた。
両手が自由になると女の体を触りたくなる。
「おおっ月の灯りでよく見える」
これから愛し合う恋人同士ならば最高にロマンチックであろう。
女はうふふっと笑みを絶やさない。
岩の頂きにある庄屋に女が見えるようにもったいぶったしぐさを繰り返した。
「キラキラと輝くようだ。いつ見てもきれいな女だぜ」
浜の磯にある貝殻が想像された。
庄屋は岩の上で身を乗り出し不安定な格好となる。
浜辺の潮は知らぬ間に満潮に近くなってきた。
満潮の海は月灯りでどこまでも広がる。
ザブ~ン
ザワザワ
断崖なる絶壁に波がぶち当たる。
ザワザワと音を立てて白波がばらばらと散っていく。
岩肌を背にした女。
月が雲に隠れ岩屋全体が暗黒になるのを狙う。
わざと腰を引いたり突き出し悪女を演じる。
雲の動きに岩壁にザブ~ンと白波がきれいにあがった。
ザザァ~
ザザァ~ン
浜辺に"なにやら"響いたものがあった。
一瞬のざわめきである。
浜辺の音はこの白波だけであったのであろうか。
気のせいか男の悲鳴のような…
ウグッとか
いやっ
人の気配はもともとなったような気もする。
ザザァ~ザザァ
白波はいつまでも繰り返し寄せて岩肌にぶち当たる。
いつまでも
何処までも
くだけ散っていくだけである。
絶壁の岩屋の頂点は女だけがいた。
雲の翳りから月灯りに照らしたのは髪の毛を取り乱した女だけである。
女は岩肌にしゃがみこんでいた。
立つとぶるぶる足が震えた。
私はどうなっても構いはしない。
どうせここで身を投げようとした女だ。
何も私は後悔することはない
私はいけない女であったのかもしれない。
私は…
最愛な子供に顔を合わせてはいけない女になってしまった。
月は雲に見え隠れしながら沈む。
夜は更けていく。
女が岩影の微睡みから目覚めるのは朝日の行幸であった。
目覚めは眩しい朝日が撫でて覆ったからであった。
朝日が浜辺を明るくしていく。
視界には海辺にはなにも浮かんではいなかった。
穏やかな顔をして海辺を見ている。
「さあって」
女は着物の裾を直したらくるっと踵を返した。
浜辺の旅館をチラッと眺めるととぼとぼと歩き出したのである。
足は浜辺の駅に向かうのである。
朝一番の列車を待つために
浜辺の旅館にも朝がやってくる。
居間に男連中はだらしなく酔い潰れガアガアと鼾が喧しい。
旅館の二階で寝ていた子供が目覚める。
「うん!ここはどこなの」
キョロキョロと布団の回りを見渡した。
いつも母親が添い寝をしていた。
「そうかっ思い出したぞ。僕は旅館に戻って来たんだ」
忌まわしき庄屋の屋敷から旅館に来たとわかりホッとする。
ならば
母はどこだ。
「お母さんは」
どこにいるの
僕のお母さん
三歳児には母親が必要である。
優しく穏やかなお母さんは二階にはいない。
目覚めたばかりの目をショボショボさせ一階に降りてみる。
老夫婦の寝室を覗く。
「おばあちゃんいるの」
お母さんいないの?
「僕のお母さんいないよ」
おばあさんもオヤッと驚嘆な顔になる。
「お母さんはいないのかい。何処に行ってしまったんだね」
おじいさんを頼りに狭い旅館を走り回る。
「お母さ~ん」
母親のいそうな所。支度部屋をタカタカと走っていく。
子供は泣き声をあげて探した。
そうかっ!
母親だから
朝の準備で厨房にいるかと廊下を渡る。
鎧戸は閉まっていた。
重たい扉を子供の力で開けようとしてみる。
「開かない」
いつも厨房は扉なんてないはずだった。
「重いやっ。僕だけではダメなんだ」
おじいちゃんおばあちゃん手伝って
老夫婦に助けを求め泣きじゃくり走る。
「お母さんは中にいるの?」
泣き顔の子供は盛んに尋ねる。
お母さんはいるの
老夫婦は押し黙ったまま動けない。
「僕の大好きなお母さんはこの中にいるんだね」
おばあさんはたまらず泣き崩れ子供をしっかりと抱きしめた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
子供の顔はまともに見えない。
オイオイと声をあげてひたすら泣くだけである。
重い扉はいかにしても開きはしないのである。
女は子供の形見として「臍の緒」をこっそり持ち出し肌身離さずとして逃亡生活に落ちていった。