浜辺の旅館④~一難去ってまた一難
運転手はクルマを庄屋の屋敷につける。
「申し訳ないなっ。旦那さんの命令なんだ」
わかるなっ
事情がわかったら観念してクルマを降りてくれ
「俺が悪いわけじゃない」
悪いのは庄屋のバカ旦那なんだぜ
子供をしっかり抱いて降りてみる。
権力を持つという庄屋に掛かってはなるようになるしかないのである。
「おいでなすったね」
庄屋で働く下女らは玄関から庭に一列に並び恭しく頭を下げた。
「(旅館の)若女将さんでございますね。ほおっ~お噂のとおり大変お綺麗でございますわ」
下女らはクスクス笑いながら皮肉たっぷりに言葉を続ける。
"美貌があるのさ。さぞかし旦那さまに愛されてのご寵愛を受けなされ"
「これだけの美貌と器量でございます。旦那さまお気に入りでございましょう」
一列に並ぶ女の集団は毒のあるモノ言いである。
どう言うわけでずらりと下女が並ぶのか。
様子を見ようかとつらつら下女を眺める。
はすっぱな着物でわかりにくいが意外なことに若い女である。25前後という塩梅か。
出迎えた下女らは全員が全員とも庄屋のお手つき(妾)であった。
歳が経ったり体に飽きがきて夜伽の寵愛を受けることがなくなると下仕事の飯もりになったまでである。
「フン!あのバカ旦那のジジィめ。歳も考えずぬけぬけと。新しい瑶を仕入れやがって。いくら若い女を囲って抱いてもあの我が儘さは持たないのさ」
車を降ろされた女は屋敷に入るよう言われた。
嫌がる素振りを見せると背後から運転手にグイッと押さえつけられた。
「若女将。ここまでやって来たんだ。度胸を決めて旦那に抱かれな」
奥座敷に通されると庄屋の旦那はデンっと構えていた。
旦那は女と子供をジロッと交互に一瞥する。
「若女将っ。手荒な真似(誘拐)をしでかしてしまったな。あいすまぬところだ」
車では横柄な態度だった庄屋が一段高い床から頭を下げた。
「すまなんだな若女将。ウチのやつらが早とちりをしたものだ。まったく最近の若い衆は何をしでかすか。わかったもんじゃあない」
庄屋は他人事のようにすらすら口をついた。
庄屋の口調からは誘拐そのものは運転手の独断である。
庄屋は子供の顔をよく見る。睨まれた子供は怖さから庄屋を嫌がり母親の後ろに隠れてしまう。
「このボウズは賢い顔をしている。ボウズは何歳なんだ。ほぉっ3歳になるのか」
代議士の妾が3年前だったのか。
子供の父親は代議士である。代議士は旧制一高を経て東京帝国大学法学部を首席で卒業していた。
秀才の名を欲しいままにしての政界入りを果たす大物である。
「代議士の子供は間違いないとこだな」
庄屋はいわくつきの子供を利用するのである。
美貌な女と賢い子供。
一際醜くく悪人顔の庄屋とは釣り合いが取れず住む世界が違って見える。
庄屋は女に労いの言葉をかけた。
「今日は疲れたであろう。母屋に布団を用意してある。子供と一緒に休んでいけ」
女は嫌がった。
後生だから子供と旅館に返して欲しいと願う。
「泊まるのは嫌でございます。旅館の老夫婦が心配をしています。何卒ぞご慈悲を」
女の願いは当然なことである。子供を誘拐されて母親まで連れて来られては。
我が身は自由にならない。
「黙れ!バイタ!」
庄屋はガンとして受けつけない。
妾あがりの女!
生意気なことを言うなっ!
身分不相応な訴えに不快感を表した。
「若女将。今夜はゆっくりしておくんな。ワシも悪いようにはしない。さっ下女に従い母屋へ行きな」
女の後ろから下女が寄り添う。2~3人が影のように忍び寄る。
「腹も減っただろう。たっぷり好きなものを食べさせてやれ」
下女たちは女の手を取り(逃げないように)母屋へ案内をする。
下女はキツくギュっと手を握った。女に対する嫉妬心の現れである。
「あんたっ逃げようとしないことさね。あの庄屋は恐ろしい男だよ」
浜辺の旅館は心配する老夫婦と従業員がいた。
「庄屋さんで一体どうなってしまったんだね」
子供が誘拐されていなくなる。
さらには迎えにいったはずの母親まで行方不明となって。
踏んだり蹴ったりである。
「おじいさん困りましたね。警察に誘拐犯人を捕まえてと頼んだら」
犯人が庄屋さんはまずいと断られてしまう。
「挙げ句には母親までいなくなったんだね」
老夫婦には太陽と同様な孫がいなくなりガタっと肩を落とし白髪が増えた。
「あの横暴な庄屋のことだ。頭に血がのぼったら何をしでかすかわからない」
暴れ出したらなにをするかわからない庄屋の仕業。
老夫婦は一気に歳を取った気がした。
「庄屋さんは気紛れなんだよ。だから浜辺の村人は困ってしまうんだ」
庄屋の母屋に連れていかれた女と子供に下女から形ばかりの飯を与えられた。
ゴワゴワな白飯と菜っ葉のおしたし。質素なものと言うより残飯である。
「さあアンタ。腹減ったんだろ。子供と一緒に食べてくんな。食べ終わったらその居間の後ろに布団があるさ。風呂は右手にあるんよ。入らないなら湯は捨てるよ」
下女はつっけんどんに辛くあたった。
空腹の女と子供は食事を済ませ風呂をもらう。
湯加減をみたらぬるま湯である。
「私はともかく子供は風邪をひくわ」
馬小屋に長く監禁されていた子供である。
ざふんと熱い風呂に入れ綺麗にしてやりたかった。
風呂場の外は下女や下男が大笑いである。
「あのスケベ親爺の寵愛を受ける女が風呂もろくろく入らない。なんと汚ことだろう」
庄屋の旦那に不衛生な女だっと言われておしまい!
汚いバイタ(売春婦)と嫌われろっ!
やいのやいのと笑い声だった。
風呂は体を拭く程度で済ます。いくらなんでも寒くて堪らない。
「今日は疲れたわね。旅館に帰ったらゆっくり温泉につかりたいね」
女は子供を寝かせる。子供は疲れ果ててスヤスヤと眠る。久しぶりに母親の手の温もりを感じて幸せそうな寝顔であった。
女も子供の横で寝入りである。
ゴソッ
寝床に何者かの跫がある。
女はハッとして目が冴える。跫は下女であった。
寝入りの女のほっぺたをペンと叩く。
「あなた様。起きていなさるかい。ご足労だがね"旦那様"がお呼びなさるんだよ」
さっさと起きてくんな。
「私について来なさるがよい」
下女は命令口調でピシッという。
着物を羽織れと命じる。
「あなた様は長襦袢や下着をつけていなさらないな。旦那さまの寵愛を受けるのに邪魔なもんはつけなさるな」
下女に従い庄屋の寝室に連れていかれる。長い廊下を行くと暗闇の中に光が漏れる障子が見えた。下女は意地悪な顔を女に示し障子の中に入れと命をする。
女の肩をグイッと押す。
行きなっ!
下女は物も言わず障子を開ける。
用は果たしたわ!
どこへともなく消える。
部屋の中には大きな布団が見える。蝋燭の光はゆらゆらと揺れる。
醜い肥った庄屋の顔が歪んで見えた。
「待っていたぞ若女将。今宵はオマエを心残りなく抱きたい」
庄屋は着物を一枚羽織るだけであった。
女の手を引こうかと身を乗り出すと着物の合わせがほどける。胸から足からと醜い姿が現れた。
庄屋の年老いた裸を目の前に見る。醜い肥った老の体は顔を叛けたくなる。
庄屋は醜い体を惜しげもなく見せつける。
女は嫌がる。
「嫌でございます」
まるで獣か悪魔のような醜い庄屋だ。
少しでも男らしさがあれば我慢して抱かれる気持ちもわくのだが。
「さあ若女将も脱げ。着物はワシには邪魔なんだよ」
女の肌が蝋の燭の灯りでほんのりと赤らに見える。
庄屋はゴックンと生唾を呑む。女の細腕をつかむと獣のような庄屋の腕に抱かれていく。女の柔肌は嫌悪感から鳥肌が立った。
顔は嫌悪でいっぱいである。
「こんな生活をしていてはいけない」
庄屋などの寵愛を受けても何の得になりはしない。さらにいつ何時に代議士の前に連れ出されるかわかったものじゃあない。代議士のスキャンダルのために囲われている面もある。
「子供を連れてこの屋敷から脱出したい」
牢屋のような屋敷から逃げることを考えると決行はどうするか悩む。
昼の食事が済むと屋敷の中は庭師や大工など職人から下女と昼寝をする。
せわしなく働く屋敷に平和が訪れる時である。
昼寝の際には監視の目も緩やかでチャンスとなる。
女は頭を使った。
昼の支度を任されるとわざと手を遅くし雑用を残した。
「あいすいません。ちょっと風邪気味なもので。水仕事が億劫でした。野菜とじゃがいもの仕込みを残します」
皆の衆が昼寝の時も時間を使って仕込みます。
屋敷の昼飯が片づけられひとり厨房で仕込みを淡々とする。
「アンタが遅いからいけないだよ。ったくどんくさいんだね!早めに野菜なんて片づけておしまい」
下女は誰ひとり手助けをせずで昼寝に向かう。
厨房には女の使う包丁のサクサク音だけが聞こえた。
しめた!
「厨房に人がいなくなったわ。この厨房の勝手口から外に逃れれば浜沿いの街道に出られる。街道に出たらひたすら浜を西へ歩けば旅館に辿りつける」
女は忍び足で子供のいる母屋に行く。
子供はひとりスヤスヤと昼寝していた。
「お願いだから大人しく寝ててね。いい子だからね」
背中に子供を負うのである。
よいしょと背を伸ばして女はキリリっとなる。
再び厨房に行くと当座の食料として握り飯を調達する。子供が喜ぶ卵厚焼きをごっそり盗む。
「さあっ行きますわ」
"勝手口まで無事行けますように"
キョロキョロ
"誰もいませんように"
女は祈りながらこっそりと厨房を抜け出す。
背中の子供はよい子であった。お昼ご飯を食べてスヤスヤ眠るのである。
下駄をはき勝手口から顔を出す。屋敷の番人見張りが巡回したら脱出はやめざるを得ない。
二度三度キョロキョロした。屋敷の番人は姿は見えない。
女は足がブルっと震え飛び出した。
背中の子供はずっしりと重い。
屋敷の勝手口から浜辺の街道までほんの僅かな距離である。
それが如何とも長く感じる。
女はうまく街道に逃れ普通の旅人に紛れた。
「よいわっ。うまく抜け出したわ。このままいけばいい」
ひたすら西へ西へと歩くだけである。庄屋の屋敷から浜辺の旅館へはどのくらいの距離であろうか。
女の足で辿りつける距離なのか心配になる。
女の足がいつ疲れて止まるか心配も心配。
庄屋が追って来ることも心配。
逃げ出したことを知り追いかけてくるは恐怖である。
街道をすたすた歩く。
時はいつだろうか。昼寝の最中に脱出して以来時間は経過する。
夕陽も沈みかなりの距離を歩く。背中の子供は目を覚ます。
「お母さんどうしたの。僕自分で歩くよ。下ろしてちょうだい」
子供が自分で歩くと言われ気がつく。
「そうね赤ちゃんでなかったもんね。歩けたわね」
子供がてくてく歩けば女は後ろをよいしょよいしょとついていく。
「お母さんお腹空いたね。おじいちゃんおばあちゃんの旅館までお腹もたない。腹ペコペコだよ」
女は握り飯を取り出す。子供の大好きな厚焼き卵も出す。
「お母さん嬉しいなあ。こんなに大きな握り飯だなんて。卵なんかでっかくてヒャア美味しいよ」
子供はニコニコしながら握り飯に厚焼き卵にかぶりついた。
「たくさん食べてね」
嬉しい顔で頬張る息子である。
女は息子を見て母親としての喜びを噛みしめた。
夕陽が沈み街道に闇が広がる。街灯などない時代である。
歩けど歩けど…浜辺は波打ち際で宵闇あった。
「お母さん怖いね。山賊が出たら大変だよ。僕はお母さんを守ってあげれるかなあ」
街道の暗闇と波打ち音。そこに頼もしげな息子である。
「お母さんお母さん。あの街角の光り見えるかい。あの角を僕知ってるよ。もう少し歩けば旅館だ」
知った景色が見えた!
「あの近くの街におばあちゃんと来たことがあるもん」
子供は早足になる。疲れていてもいち早く老夫婦に会いたくなる。
母親もはやる気持ちを押さえ早足である。長い街道の歩き疲れもなんのそのである。
「お母さんお母さん」
街道を先に行く子供は母親に叫ぶ。
薄明かりの中に見馴れた旅館の風景があった。
「旅館に帰ってきたわね。ホッとするわ」
息子は子供の足はパンパンに張ってしまっていた。
時は零時になる少し前である。懐かしい旅館は玄関の常夜灯が赤く点灯している。
泊りの客室は灯りが見えない。
「この時間だからね。おじいちゃんたちは寝てるでしょうね」
仕方ないわ。
「起こして玄関の鍵を開けてもらいましょう」
息子はハイハイと駆け足で玄関横の呼び鈴を鳴らす。
リーンリーン
呼び鈴は鳴るがいくら待っても人の出てくる気配がない。
深夜は老夫婦だけが旅館にいる。手伝いの従業員は全て通いである。
「あちゃあ」
誰も起きてくれない
心配顔を子供はする。
「おじいちゃんは年寄りだから。夜は起きてこれないのかもしれない」
息子は裏庭に回って中に入れないかと玄関横をすり抜けようとする。
いつも遊ぶ庭だから鍵がなくても旅館に入れると思ったのだ。
その時である。
親子の背後に人の気配がした。
"ゴソッ"
複数の人がいるような衣擦れがした。
親子はハッとして振り向いた。
女は暗闇に人がいるとわかった。