パパの日記
ふっふっふ、ついに手に入れたわ。
前から何度か書いてるのを知っていたけど、こんな小さなものだったんだ。相変わらず、パパはマメだね。
手のひらサイズのメモ帳みたいなノートが4冊…それがパパの日記だと、私はすでに気づいていた。
パパの部屋を掃除してたら、偶然パパの机の上から二番目の引き出しの奥を掃除しようとして、これまた偶然鍵がついた小物入れを見つけてしまい、そしてまたもや奇跡ともいえる偶然によりその鍵が机の上のペン立てに入っていて………って、やめやめ。
ぶっちゃけてしまうと、パパの部屋を漁っていたのだ。この小さなノートを見つけるために。
日記つけるなんて、女子か!…って突っ込みしつつ、捜すほどに気になっていたノートを前に、私は少しだけ中を見るのを躊躇っていた。
さすがにパパとはいえ、プライベートの塊である日記を私が見て良いのだろうか…最後の最後で、良心が揺れる。
………うん、見よう。あんなに悩んでたパパ、初めてだもん…少しだけ事情を知っとくのも、パパのためだから。
たぶんだけど、この前の里帰りのとき田舎の叔父さんに『そろそろ真剣に結婚したらどうだ?』とか言われてたから、そのことで悩んでるんだと思う。
冗談じゃないわよ、私だけのパパなのに!今さら変なオバサンがパパと結婚するなんてことになったら…イヤだ、考えられない!!パパは、私一人のパパだもん!!!
無理やりな理由を私自身に納得させて、とりあえずページをめくっていく…
大学生になった俺は、大学の近くのぼろアパートに一人暮らしをしていた。
貧しい訳でもなく普通に暮らせる程度の仕送りもあったので、バイトしなくても問題はまるで無かった。
ただ最近、隣に引っ越してきた親子がちょっとだけ気になっている。
父親はいないようで、母親と四、五歳の女の子の二人暮らし。仲は…良さそうには見えない。毎日、娘を叱る声が聞こえていたから。
母親は夜の仕事をしているようで、夕方になると出かけ朝方になると物音がしてたのでその頃帰宅していたのだろう。
女の子が保育園や幼稚園に行く様子もなく、夜は一人で過ごしていたに違いない。
隣の女の子と顔を合わせるたび、可哀想で…時折微笑んでくれたりするその子に、俺も何かしてあげられないかと思うようになっていたのだ。
だから、つい余計なことを言ってしまった。
「仕事の時だけでも、俺が娘さんを預かりましょうか?」
ただの隣人がそんなことを突然言ってきたら、普通は遠慮や拒否を示しても仕方ないと俺は考えていたけど、予想に反して俺のおせっかいはすんなり受け入れられた。
…今思えば、それが全ての始まりだったのかもしれない。
勝手にすれば?…的な反応しか示さなかった母親に対して、女の子…美咲ちゃんはとても喜んでくれた。
夕方、母親と一緒に部屋を出た美咲ちゃんは俺の部屋にやってくる。そしてご飯を食べたりテレビを見ながらそのまま俺の部屋で寝て、朝になったら母親の元に帰る。それから俺は大学に通い夕方までには家に帰って美咲ちゃんを迎える、そんな感じで過ごしていた。
最初から俺と仲良くしてくれる美咲ちゃんだったけど結構無口な子で、それでも頑張って話をしていくと…あまりに信じられない話ばかりを聞かされてしまうことになる。
母親が出かけて一人になるとテレビ番組を見て過ごし、夜はいつの間にかそのまま寝ていたこと。それを毎日、このアパートに来る前から続けていたこと。
それに小さく見えてた美咲ちゃんは、本当は七歳で小学生だということ。その上で…小学校に通ったことが無いこと。
夜にご飯を食べた記憶はほとんどなく、お風呂も一週間ぐらい入らないこともあるということ。
こんなことが俺の隣の部屋では、現実であり普通だったということ。
そして、そんな生活の中でも美咲ちゃんは…楽しそうに笑っているということ。
…正直、美咲ちゃんの母親と顔を合わすのが辛くなった。毎回会うたびに、この母親を殴ってしまいそうな自分を抑えてたからだ。
体罰などはなかったみたいだが、こんな生活を美咲ちゃんにさせてる時点で虐待だ…だけど、俺は誰にも言えなかった。目の前で美咲ちゃんが『お母さん、大好き!』と一番の笑顔で明るく笑ったんだ。親子の絆に口を出しちゃいけないと、その時の俺は無理やり納得していた。
それにバイトもせずに大学生活を送る俺が、母一人で子供を育てる苦労も知らずに、あなたは間違ってる!…なんて言うのは世間知らずにも程がある。
だからそのかわり美咲ちゃんには、出来るだけ美味しいものを食べさせようとかなり料理にこだわるようになった。
美咲ちゃんも手伝ってくれたりして、その時はそれで上手くいってるとどこか満足していた。していたかった、が本音なのかもしれないけど…
…美咲ちゃんを預かるようになって、三ヶ月ほど経っただろうか。
最近では美咲ちゃんの母親が二、三日帰らないことも普通になってきて、美咲ちゃんも俺の部屋で過ごす時間のほうが長くなっていた。
そんな生活のせいだろう…美咲ちゃんの母親は、遂に帰ってこなくなった。
一週間ぐらいでさすがにマズイと思い、連絡先か何かがないか隣の部屋を探しに向かうと…すでに母親の私物らしき物は一切なく、代わりに一枚のメモ用紙が置かれている。
〈美咲、元気でね〉
…七年間、美咲ちゃんを育ててきた母の最後の言葉は10文字にも満たなかった。
人生であんな必死に脳が働いたのは、大学受験とその時だけだろう。
美咲ちゃんを施設に?
その前に、母親の捜索届けを警察に?
美咲ちゃんには、何て言えばいい?
親戚、親類はいるのか?
気が変わってすぐ迎えに来るかもしれないのに、わざわざ…母親に捨てられたって事実を言うのか?
もう二度と会えないかもしれないのに、美咲ちゃんはお母さんを待ち続けなきゃいけないのか?
あんな小さくて、自分の現状を理解出来ず無邪気に笑える女の子に…ただの隣人の俺が、なんて伝えるべきなんだ?
悩んで考えて、迷って苛立って、さらに悩んでまた考えても…答えなんて出なかった。
美咲ちゃんにとってこの問題は…ただ受け入れるしかない、あの母親から産まれてきて捨てられたという残酷な事実だったから。
美咲ちゃんがとても可哀想だ………いや、違う。可哀想でも、不幸でも何でもない。だって美咲ちゃんは笑えるから。俺に微笑んでくれたじゃないか。
そうだ、美咲ちゃんは今から幸せになればいい。あんなクズみたいな母親と別れて、普通に暮らせばいいんだ。
心からそう思えた。ただの他人の俺が思ってしまった。もう、俺は美咲ちゃんを見捨てることは出来ない…いや、見捨てたくないんだ。知らない誰かに放り投げるよりも、俺が幸せにしてやりたい。
決意を固め自分の部屋に戻り、何事もなくテレビを見ていた美咲ちゃんになるべく普通を装い自然に伝えた。
「美咲ちゃん…いや、美咲。今日から俺は、お前のパパになる。だから、これからはパパって呼んでくれ」
悲しい事実は伝えずに、俺の気持ちだけを素直に話した。すると美咲はこっちを見て、コクコクと二回首だけで頷いた。
さほど意味を理解していない娘が再びテレビに向き直すのを確認して…見つからないように、声を殺して涙を流した。
泣くのは今日だけだ。明日からは絶対に、美咲の前では笑顔でいよう。カッコ悪いパパじゃ、美咲に笑われるぞ!
…まぁ笑ってくれるなら、カッコ悪くてもいいけどな…
それからは、何もかもが大変だった。
真っ先にしたことは、俺は美咲の本当の父親になることだった。
美咲には父親がいなかった。正確には、戸籍に父親が登録されていないだけだが…それはつまり、美咲は認知されてない子供ということ。
幸いにも美咲の母親の名前に住所、市販の印鑑さえあれば、俺だけでも登録みたいなことは簡単に出来た。
そして俺は法に触れると知りながらも…美咲を認知して父親になり、自分の娘として引き取った。
あの母親が訴えてくるどころか気付きすらしないとは思うが、二十歳の俺が七歳の娘の父親だなんて疑問に持たなかったのか不思議だけど…まぁ、そこはお役所仕事のおかげだろう。
犯罪まがいをしてでも本当の娘として戸籍に入れたのは、美咲を学校に通わせたかったからだ。
他人の子供、しかも女の子ともなれば色々ややこしい世の中だから…きっと何かと問題が起きたはずである。
実の娘なら多少ゴタゴタになりかけても、なんだかんだ学校は受け入れてくれるとの考えがあった。そして、見事その通りに事は進められた。
学校に通うようになり、友達もそれなりに出来たらしい。食事中もおしゃべりが止まらなくて、今では注意してしまうほどで…美咲は本来こんな子だったんだなぁ、と改めて嬉しくなる。
でもさすがに美咲が小さいとはいっても、二人で生活し始めたら今までみたいにはいかなくなってきた。
結論から言えば…俺は大学を辞めた。
あんなに苦労して入ったのに辞めるときは紙一枚で事足りるなんて笑えたが、就職先などの情報も大学で調べたのでそこは感謝もしている。中退者に優しいなんて、何か間違ってる気もするが…
通勤時間を合わせての就業時間、それに休日と残業…給与や内容はそっちのけ、美咲を寂しくさせないためにと都合の良い仕事を探す。
すると神様が美咲の味方なのかと思えるほどに、ほぼ条件に一致するところに就職が決まった。給与だけは…今後の俺の努力次第らしいが。
最近付きあいの減った友人達には、何も言わずに大学を去った。まぁ言ってもよかったが、このロリコン野郎と罵られそうだったので奴らには黙りを決める。
…そうだ、まだちゃんと説明しないといけない人たちがいたな。
「この、馬鹿息子がっ!!!」
…こうして父さんに殴られるのは、かれこれ何年ぶりだろう…
全ての説明を終えて俺が見たのは、兄貴の茫然自失した顔と父さんの渾身の右ストレートと…母さんの涙だった。
ある程度は予想していた結果に、もう引き返せない道を選んだことをひたすら謝り続けている。
大学も勝手に辞めただけでなく挙げ句にはただの他人の子を自分の娘にしただなんて、ここまでなに不自由なく育ててくれた両親からすればまさにバカ息子である。
だが、反省も後悔もする気はない。ここで反対されようが止められようが、美咲はもう俺の娘なんだ。
そんな美咲は今、兄貴のお嫁さんに何処か遊びに連れて行ってもらっている。こんな話を、何かの間違いでも絶対に聞かせたくなかったから。
優しそうなお嫁さんで、美咲ともすぐ仲良くしてたから相当な子供好きだろうな。兄貴もそろそろ一人ぐらい作ればいいのに………って、調子に乗りすぎか。
仕送りはもう要らないことと、美咲にだけは笑顔でいてくれと家族に向かって土下座した。迷惑はかけたくないから、俺が気に食わないなら実家にはもう二度と帰らないとの約束も踏まえて。
…ふと、誰かが俺の横に来る気配がしてゆっくり頭を上げると、近づいてきたのが母さんだと気づくと同時に…今度は母さんに強烈なビンタをもらった。
「…本当に馬鹿なんだから。いつでも帰ってきなさい…孫も一緒にね」
………顔じゃなく、心を叩かれた気がした。
涙が溢れて止まらなかったけど、説教のほうが止まらなくてとても泣いてる場合じゃなかった。
こんな大事なこと、親に一言もなしに…相談してれば、大学も辞めさせずに助けられたのに…美咲の洋服やら下着やら、これまでどうしてたのよ………母さんの言葉はビンタより痛い。
兄貴のお嫁さんが帰ってくるという電話が鳴るまで、俺はひたすら正座で耐えた。それが一番辛かったかもしれない。
ぬいぐるみを5〜6個抱えた美咲は、足がしびれて立てない俺を見て爆笑している。周りもつられて笑い始めた。
…全く、カッコ悪いパパでごめんな…
それからは皆も何事も無かったように話を合わせてくれた。そして母さんの引き止めも断り、俺たちは実家に泊まらず帰ることにした。
本当は泊まるつもりだったけど、美咲と遊んでくれた兄貴のお嫁さんがやたら兄貴に引っ付いてイチャイチャしてたから、たぶん今夜………兄貴、頑張れ。
…もうすぐ、美咲の誕生日だな。あれからもう十年経つのか。
美咲も17歳になるし、もう俺も29か…隣に並んで歩いたら、完全に女子高生とおっさんの援助交際だもんな。
美咲は兄貴のお嫁さんと仲が良いから、友達との予定がなかったら実家に帰って誕生日を祝ってあげてもいいかもしれない。兄貴の子供もいるし、大人数のほうがきっと楽しい。
だけど実家に帰るたび、兄貴は結婚しろってうるさいんだよ…確かに俺も、いい歳して彼女もいないのはどうかと思うけどさ。
…結婚、か…兄貴のお嫁さん、この十年で4人も子供産んだのにまだまだ美人だからなぁ。あんな奥さんだったら、そりゃ羨ましいって。
でも、結婚するとなると………美咲に何て言えばいいかわからない。
そもそも美咲は、あの頃を覚えてるのか?
俺が本当の父親じゃないこと、母親が突然いなくなったこと…忘れててくれたら、それはそれで幸せなんだけど。
やっぱり言わなきゃいけないよな。俺がもし結婚するとしても、美咲の母親になる人を紹介する前に伝えるべきだ。
…美咲にすべてを話したら、何て言うのかな。怒ったりするかも…
『パパなんて、ただの赤の他人じゃない!…こんな家、出ていくから!!』
………傷つくだろうな、俺。美咲は良い子だから、それだけに余計怖い。
今でも美咲は、休みの日は一緒に買い物に行ったり映画を見たりしてくれる、本当に優しい女の子に育ってくれた。
片親しかいないことも何も言わずに、逆に高校生になってからはこんな俺に気を使ってくれるほどだから、出来ればこのままでも…
…やっぱ俺は馬鹿だな。そんなものは、本当の幸せじゃないだろ。
何があっても、例え美咲が家を出たいと言ったとしても、俺は出来るだけ美咲を助けたい。一人暮らしの費用ぐらい、喜んで出してあげよう。
そうだな…誕生日前に仲違いになるのも嫌だし、美咲の誕生日が過ぎてからにでもちゃんと話そう。そして、美咲の好きなようにさせてあげよう。
「…美咲、ただいま」
「あ、お帰りなさい!…ねぇパパ、私のケーキは!?」
「ほら、買ってきたよ。まったく、お前は仕事から帰ってきた俺に感謝の一つでも…」
「ハイハイ、いつもごくろー様です。あっ!今日は丸いケーキだ!!…パパ、ふとっぱら〜!」
玄関でケーキだけ受けとると、美咲は長い髪を揺らしながらUターンでキッチンに戻っていく。
いくら嬉しいからって、俺の鞄ぐらい預かってくれよ…こっちは一応、お前の父親なんだから。
まぁ今日は美咲の誕生日だしな。ケーキぐらいであんなに喜んでくれるなら、小言はなしにしよう。
とりあえず自分の部屋に入り、部屋着に着替える。鞄は机の上に置いて………って、あれ?…片付いてる?
部屋を出ると、すでに食事が準備されていた。美咲はもう椅子に座っているので、俺も反対側に座った。
頂きます、とお互いに手を合わせ食事を始めた。さすがに今日は誕生日ということもあり、なかなかのご馳走が並んでいる。
「そういえば…なぁ美咲、俺の部屋入った?」
「入ったよ。なんで?…いつも掃除してるの、私でしょ?」
「いや、掃除はありがたいけど…机の中は見てないよな?」
「見るわけないじゃん、パパの机なんて。あっ、もしかして、やだ、パパったら…エッチな本とか隠すなら、他の場所にしてよね?」
「ち、違う!断じて違うぞ!机には隠してない!!………あ」
…食卓に、しばしの静寂が訪れる。
美咲は一瞬だけ冷めた視線を俺に向け、その後は黙々と口に箸を運んでいる。美咲の料理が美味しいだけに、会話が何もないのはとてもつらい。
女の子…しかも娘の前でそんな話をするなんて、恥ずかしくてこの場から逃げ出したかった。
気まずい、どうしようもなく気まずい…話題を変えなければ。
「そ、その、なんだ、どうして今年は家で過ごすんだ?…確か去年の誕生日は、友達と遊びに出かけた、よな?」
「…別に。パパと二人でお祝いしたかっただけだし…」
「え?あ、それならおじいちゃんおばあちゃんの家に行って、皆でパーティーしても良かったのに…」
「あのね、パパ。ちゃんと私の話聞いてる?…パパと、ふ・た・り・で、私の誕生日を過ごしたかったの。ホント鈍感なんだから…」
…なんて、なんて良い子に育ったんだ…嬉しくて泣きそうだよ。
父親を毛嫌いしても仕方ない年頃なのに、美咲はこんなにも俺に優しくしてくれてる…俺は幸せ者だ。
照れくさいのか顔を赤くしながらそっぽ向く美咲に、俺はただただ感激しながらご飯を食べ続けた。
…ケーキを食べ終えたあと、俺は自分の部屋には戻らずにリビングにいた。
一応プレゼントも用意してるので、部屋に取りに行こうとしたのだが…美咲に止められたのだ。
いつもなら話があるときは、ダイニングテーブルに向かい合って座るのだが、何故か今日は違うみたいだ。
リビングに置いてある小さめで赤いソファーに、美咲の強引な引っ張りにより並んで腰をおろした。
ここは美咲のお気に入りスポットなので、俺が座ることはほとんどないのだが…まぁいいか。
当然かもしれないが二人用の小さなソファーに二人で座ると、自然と距離は近くなってしまう。
親子でもさすがに気恥ずかしいので、俺は離れるようにして少し横にズレた。すると…何故か美咲は俺に寄ってきて、さらに俺の腕に自分の両腕を絡めてきた。
「おい、やめろよ。恥ずかしいだろ…」
「ふふっ、こうしてたら私たち…親子より、恋人みたいだよね?」
「そうか?…完全に金銭のやりとりがある交際だろ?」
「もうっ!パパって結構若く見えるし、カッコいいんだよ!?…私の彼氏でも全然おかしくないって!」
美咲は腕を組んだまま俺の肩に頭を乗せて、やたら俺が若いだの結構カッコいいだのムダに誉めちぎってくる。
何が言いたいのかはよくわからないが、とにかく機嫌は良いらしい。終始笑顔で話してるから。
そんな俺も、娘にカッコいいなんて言われたら満更でもないわけで…ここでお小遣いアップをお願いされると、かんたんに甘やかしてしまいそうだ。
む、いかんいかん。高校生のうちはお金の大切さを解らすためにも、厳格な対応で必要な分だけ必要なときに…
「ねぇパパ…お願いがあるの、聞いてくれる?」
「………やっぱりな。ダメだぞ?いくら高校生で月に三千円は少ないとはいえ、お金ってのはあればあるだけ使ってしまう良くも悪くも…」
「え?…何それ?」
「…あれ?お小遣いアップの催促じゃないの?」
…どうやら、違うらしい。
「その話はまた今度ね。で、お願いっていうのは…」
「お、おう。なんだ?」
「………結婚なんて、ダメだから…」
「へ?」
「だから私がいるのに、今さら結婚なんてしちゃ…やだって言ってんの!」
…待て、よくわからん。
結婚?結婚なんて、いつ誰と?…彼女もいないんですけど?
真っ直ぐに見つめる美咲の真剣な視線に、しばらく予定も無いことを言われて俺は軽く悩んでいた。
どうして突然、そんなことを………おい、まさか…
「…見たのか?」
「………さっきは、嘘ついてごめんね」
「いや、それはいいが…そうか、ノートを見られたか…」
「昨日まで、ただの日記だと思ってたの。でもあれに書かれてたのって…」
…美咲の母親が出ていったあと、すぐにノートを書き始めた。これからの美咲の成長を、記録に残すために。
俺はどこか、あの母親が悪い人に見えなかった。美咲に体罰が無かった様子と、無邪気に笑う美咲を見てたら…愛情はある、生活するのに精一杯で少し美咲に構ってられないだけ、そう思えたから。
いつか人生を振り返り、美咲のことを思い出すだろう…そして必ず、自分の娘に謝りたいと思う日が来るはずだ。
母と娘が再会して、また一緒に暮らし始めたときに少しでも役に立てばと俺はノートを記していた。
…あれから10年経った今も、結局は使わず終いだったけど。
「…私、怒ってないよ?だから、パパと別れて一人暮らしなんてありえないからね?」
「そう、なのか。だったら隠す必要も無かったんだな…でも本当に、俺の勝手な行動に怒ってないのか?」
「ふふっ、パパがいなかったら施設に送られてたんでしょ?だから私、幸せだよ。パパの娘になれて良かった…」
「………ありがとう、本当にありがとう美咲…その一言が、俺の人生の全てを救ってくれたよ。あの時俺も、美咲を自分の子供にして良かった…」
美咲が笑顔で俺を見つめてるが、まともに顔を会わせられない…柄にもなく、号泣してしまった。
美咲の誕生日なのに、俺のほうが大切な何かを貰ってしまった。これまでの苦労がすべて報われている。
…もうノートを書くのはやめよう。あの母親が美咲と暮らしたいと言っても、俺は何があっても美咲を渡したりしない。美咲自身が母親を選ばない限り、俺は美咲を守り続けるんだ。
隣りの美咲を両手で抱きしめ、この手を二度と放さないと心に誓いながらも…しばらく涙を抑えることは出来なかった。
「も〜、汚いんだから…パパが泣いてるとこ、たぶん初めて見た気がする。これって男泣きだよね、パパ?」
「う、うるさいぞ。お前の父親になるって決めてから、我慢してたんだからな!?…今日ぐらい泣かせろ!!」
「ハイハイ、泣いていいんだよ?…私はいつまでも、パパの傍にいてあげる」
「…子供扱いするな!…も、もう泣かんぞ!」
「そうやってすねるほうが、子供なんじゃないの?…まぁ私はどっちでもいいけどね」
美咲を抱きしめながらもう少し泣こうとしたが、子供をあやすような美咲の態度にちょっとだけ腹が立った。
そもそもこっちは心を揺さぶられるほどかなり緊張する報告だったのに、美咲は何故か知らないけど余裕な態度を見せている。いや、むしろ普段より冷静だ。
怒りだすよりは確実に良い結果なんだが…どこか腑に落ちない。
…いや、俺も美咲を見習わないとな。今さら焦ったとしても俺たちの親子関係は変わらないわけだし、これで少しは楽になれたのも本音ではある。
美咲もずっと俺の娘でいてくれるんだし、兄貴に言われた通り…そろそろ俺も婚活でもして、素敵な奥さんを見つけるか。
兄貴の嫁さんほど美人じゃなくても、子供好きで美咲のことをちゃんと理解してくれる人であれば俺としては何も文句はない。でも美咲との相性もあるから、やっぱここは慎重に…
「あ、そうだ。忘れてたけど…パパ、結婚なんてさせないからね!」
「な、なんでだよ!?俺にずっと独り身で過ごせっていうのか!?」
「パパには私がいるじゃない!」
「でもな、俺だってもうすぐ30なんだ。嫁さん…ってのは話が飛躍しすぎだが、支えてくれる女性ぐらいいてほしいんだよ。わかるだろ?」
「だから、私がいるじゃん!!」
「いやいや、確かに美咲も俺の大切な娘には変わりないけど…ほら、あれだって。男には一人じゃ眠れない夜があってだな…」
「あのさ、パパ。私だって高校生とはいってもほとんど大人だよ?男が眠れない夜に、朝まで添い寝してあげることも出来るんだから…」
俺にもたれかかるようにして、美咲は体を寄せてくる。下から覗きこむような仕草に幼さは残っておらず、あの小さかった美咲はすでに立派な女性になっていた。
…コラ、どこでそんな表情を覚えたんだ?…お父さんは怒りますよ?
成長するごとに美しく育っていた美咲に、父親として素直に喜んでいた俺だが…距離が近すぎる今は、少し戸惑いを覚えてしまう。
整った顔はほんのり朱色まじりで、腕に触れている柔らかい二つの物は、昔と比べるとずいぶんと大きく膨れている。
…くそ、意識しないようにすればするほど…気になって仕方ないじゃないか…
「と、とりあえず離れろ!お前、何か変だぞ!?…父親にそんな冗談を言うな!!」
「…私は本気だよ?ずっと前から、パパが好きだったの…それこそ、ずっともやもやした気持ちだった。だっておかしいでしょ?自分の父親に、ドキドキしてるんだもん…」
「だ、だからってお前、父親は好きとかの対象じゃないだろ…」
「私だって変だと思ってたから、この感情は抑えてたの。母親がいないから、一人で育ててくれてるパパに思い入れしてるだけだ…って言い聞かせてた」
「だ、だろ?だったら早くどきなさい…」
「でもね、どんどん大きくなる鼓動に嘘はつけなかった。パパと買い物に行ったりするとき、何気なく手を繋いでたでしょ?パパはどうか知らないけど、私は毎回…耳まで熱くなってたんだよ?」
俺の話など一切聞かず、美咲はグングンと顔を近づけてくる。ヤバい、美咲の目に吸い込まれてしまう…
狭いソファーの端から軽く身を乗り出すほど逃げているが、これ以上はバランスが崩れて落ちてしまうので…もうダメだ。
美咲はもはや俺の上に覆い被さるような姿勢になりながら、それでも顔と顔の距離は短くなっていく。
「…田舎のおじさんがパパに結婚を勧めてたのは、こっそり話を聞いてて気づいてた。パパが真剣に悩んでたのも、頭がおかしくなりそうな自分にも…」
「それで勝手に…ノートを見たのか?」
「…うん。いろんなこと思いだして、パパの気持ちも理解して…納得させられたの。ここまで暖かく、優しく、見守ってくれてた人が、実の父親じゃなくてただの素敵な男の人だったら………好きにもなっちゃうよ…」
そこまで言うと、美咲は喋るのをやめて…俺を見つめていた目を閉じた。
これは…あれか、俺にキスしろっていうのか?
ここまで迫ってきたくせに、最後は目を閉じて待ってるだけなんて………娘ながら、されど女の子ってことか。
さて、どうしたものか…逃げられる体勢じゃないし、目の前にはキスを待つ女の顔をした娘…
………俺は…
しばらくして、俺は十年ぶりに父さんに殴られることになる。
…美咲が幸せなら、父親でも彼氏でもどっちでもいいか…
笑顔で二回目のキスを求める娘に、言い訳しつつも満更じゃない俺だった。
「ち、違うんだよ父さん!?…そんなふしだらな関係じゃないんだって!」
「…本当か?お前と美咲は一切、やましいことは無いんだな!?」
「………無い」
「パパの嘘つき。毎朝、チューしてるくせに…」
…父さん、どうして右手の拳がぷるぷる震えてるんですか?
ゆっくり立ち上がる父さんを見て、俺は寿命が残り少ないことを嘆いていた…