古本屋と脅迫状
駅から少し歩いたところに、その古本屋はある。
扉を開けると、紙の匂いがした。床にも本が積まれているが、日向の部屋とは違い、どこを歩けばいいかは分かる。
レジの前に、小野さんがいた。ここで何度も会っている。私に本を薦めてくれるし、私が選んだ本についても、どうだったかと聞いてくる。
「先生、最近ちゃんと寝てます?」
小野さんが言った。
三崎さんはレジの奥で、目元をこすった。
「少し寝不足でね」
「無理しないでくださいよ」
私に気づくと、小野さんが持っていた本を上げた。
「これ、この前、まとめて譲ってもらった本に入ってたんですよ。懐かしくて読み直しました」
『帰り道』だった。
三崎さんが昔、賞を取った作品だ。私も施設にいた頃に読んだ。日向と順番に借りて、返す前にもう一度最後だけ読んだ。
ここへ通い始めてから、店主がその作者だと知った。
「俺も好きです、それ」
「あの最後、残酷ですよね」
「そうですか。俺は少し救われたけど」
「あれで?」
「うん。施設にいた頃、日向ってやつと読んだんです」
小野さんは本を閉じた。
「同じ本でも、違うんですね」
その言葉に、私は頷いた。
小野さんが帰った後も、三崎さんはレジの奥に座っていた。
私は買おうと思っていた本を置いた。
「大丈夫ですか」
三崎さんは本を見るでもなく、引き出しから封筒を取り出した。
「佐藤君、少し聞いてもらってもいいかな」
*
封筒には、差出人の名前がなかった。
昨日の郵便に混じって届いたという。
中の紙には、小説の題名と、航の名前があった。
〈航が雪の中で死ぬ、あの小説の元原稿を持っている。書いたのは山本正人だ。あなたではない。盗作を公表されたくなければ、五十万円を払え〉
連絡用のメールアドレスと、返事を求める期限が続いていた。
別紙には、手書きの原稿の一ページ目を撮った写真が印刷されていた。題名の下に、崩した字で人の名前がある。
私は、三崎さんを見た。
「これ、どういう……」
「若い頃、他人の原稿を使ったんだ」
聞こえた言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
「あの本を?」
「うん。言い訳になるけど、どうしても認められたくてね」
私は、レジ横にある『帰り道』の棚を見た。
作者名には、三崎直樹とあった。
手を伸ばしかけたが、そのまま下ろした。
「昔にも、一度、こういう手紙が来た。もう終わった話だと思っていたんだけど」
「同じ人からですか」
「原稿を持っていたのは、あの人だから」
三崎さんが写真を指した。
「本当は山元なんだけど。今度は山本と書いてある。名前の間違いなら、よくあるけどね」
「その人とは、どういう関係なんですか」
「昔、文章を書いていた知り合いだよ」
三崎さんは封筒を折りかけ、やめた。
「また、許してもらえなくなったんだろうな」
盗作のことまで打ち明けてくれた。
私はそれ以上のことを、すぐには聞けなかった。
「払うつもりですか」
「払えば、今度は終わるのかな」
私は答えられなかった。
「まず、誰が送ったか確かめた方がいいと思います。昔、一緒に本を読んでたやつに、見せてもいいですか」
「その、日向君?」
「はい。写真を撮ってもいいですか」
三崎さんが頷いた。
私は手紙と、原稿の写真を写した。
*
日向は、煙草を置く皿とカルピスのコップを、同じ距離に置いていた。
私が入っても、どちらにも手を伸ばさない。
「『帰り道』の作者、古本屋やってるって話、したよな」
「うん」
「その人が脅されてる」
「ふーん」
私はスマホを差し出した。
日向は受け取らず、私の手元をのぞいた。
「昔にも、一度手紙が来たんだって。三崎さんは、今回も同じ人だと思ってる。原稿を持ってた人だからって」
原稿の写真がついていたことと、名前の漢字が違うことも伝えた。
日向は手紙を見ていた。
「航、最後は生きてるら」
「俺もそう思った。ずっと前に読んだから、覚え違いかもしれんけど」
「お前の本、ある?」
「あると思う」
「持ってきて。前の手紙も」
私は画面を戻した。
「昔の手紙と比べるってことか」
「うん」
店で聞いた話も伝えた。
小野さんが本を譲られたこと。作品の結末を残酷だと言ったこと。三崎さんを気遣っていたこと。
「同じ本でも、読み方が違うんだなって」
日向はカルピスを取った。
「同じか、見ればいいじゃん」
*
家の本棚に、文庫本が残っていた。
三崎さんにも連絡すると、昔の手紙を保管していた。後で何を求められたか、分からなくならないように残したのだという。
翌日、その手紙を見せてもらった。
私が初版本も読みたいと言うと、三崎さんは棚から一冊出してくれた。
「初版は少し違うからね」
「どこがですか」
「最後の方を、文庫にするときに直したんだ」
私はその本も借りた。
日向の部屋で、二冊を並べた。
文庫本の扉には、小さく「改訂版」とある。私はこれまで、その文字を気にしたことがなかった。
初版本では、航は帰ってこなかった。
文庫本では、航を捜す人の声が届いた。
私は文庫本を閉じ、初版本の最後をもう一度開いた。
同じ題名で、同じ作者の本だった。
最後の一章が違っていた。
昔の手紙の写しを開いた。
〈文庫にするなら、最後の章は私の原稿に戻してください。航が帰ってくるところまで、私が書いた通りに。拒むなら、原稿を出版社に送ります〉
下に、山元正人、とあった。
金の要求はなかった。
「最初に欲しかったのは、金じゃなかったんだな」
「今度は、五十万だら」
私は三崎さんの言葉を思い出した。
昔にも、こういう手紙が来た。
同じ要求だったとは、一度も言っていない。
「その人の結末に戻したんだ。自分で考え直したんじゃなくて」
日向は、二枚の手紙を並べた。
「名前も違うら」
「山元と山本。三崎さんは、間違いじゃないかって」
「山元が、自分の名前を間違えた?」
「わざとかもしれん。匿名で出してるし」
「かもしれんな」
日向は、今回の手紙に添えられていた写真を拡大した。
元の字の、下へ長く伸びた線が見えた。知らなければ、山本と読んだかもしれない。
「古い本と、ここにある字を読んだやつかもな」
私は写真を見た。
「別の人が、原稿を持ってる?」
日向は煙草の箱を探していた。
「どこにやったか、聞けばいいら」
*
三崎さんに、山元さんと話したいと伝えた。
「僕のことで、また嫌な思いをさせるのは……」
「原稿が今どこにあるか、確かめたいんです」
「もう関わりたくないかもしれない」
私は黙って待った。
三崎さんはスマホを持ち、しばらく画面を見ていた。
「本人に聞いてみる。会うかどうかは、山元が決めることだから」
三崎さんはスマホを置き、レジの横にあった紙を手にした。
「昨日から、少し書いてるんだ」
題名も、宛名もなかった。
書き直した言葉の上に、細い線が引かれている。
〈航を帰したのは私ではありません。私が変えたのは、航が帰れなくなる方の結末です。〉
私はその二行を読んだ。
「説明するつもりですか」
「出版社にも、店に来てくれる人にも。山元の名前を出すかは、本人と話してからだけど」
三崎さんは紙の端をそろえた。
「払って、また黙ってるのは、もう……」
言葉が止まった。
私は続きを促さなかった。
三崎さんによると、まだ誰にも見せていない下書きだった。
私は、日向にも読ませてよいか聞いた。
三崎さんが頷いたので、写真を撮った。
日向の部屋に戻り、文庫本の横で、撮った写真を開いた。
「三崎さん、公表するつもりだって」
「ふーん」
「でも、先に話したら、脅迫してる人が怒るかもしれんよな」
「先に話したら、払う理由なくなるら」
私は画面を見た。
三崎さんが失うものばかり、考えていた。
「公表するってことだけ伝えて。下書きは送らんで」
夕方、日向の言葉を伝えに店へ戻った。
三崎さんは、山元さんが明日、会ってくれると言った。
「小野君にも話そうと思って。これから来てもらうんだ」
三崎さんは下書きを引き出しから出した。
「ずっと好きだと言ってくれていたからね。公表する前に、あの人には、僕から言いたい」
扉が開いた。
小野さんは、レジの前にいる私を見てから、三崎さんに挨拶した。
「お話って、何ですか」
三崎さんは紙を持ったまま、顔を上げた。
「『帰り道』のことなんだけど。若い頃、知り合いの原稿を、自分の名前で出したんだ」
小野さんは黙っていた。
「初版の最後は、僕が変えた。文庫にするとき、元の原稿へ戻したんだよ」
三崎さんが、下書きをレジへ置いた。
小野さんは、そこにある言葉を読んだ。
「最後は、先生が変えたんですか」
「うん」
小野さんは、レジ横の棚を見た。
そこにも、三崎さんの名前で本が並んでいた。
「これを、出すんですか」
「山元と話してから。出版社にも、説明しようと思う」
小野さんは紙へ目を戻した。
三崎さんは、その間、何も言わなかった。
「写真、撮ってもいいですか。ゆっくり読み返したいので」
三崎さんが頷いた。
小野さんはスマホを出し、紙の上で構えた。
「文庫の方は、読んだ?」
「初版だけです。昔から読んでたのは」
小野さんが言った「残酷」を思い出した。
私と違う読み方をしたんじゃなくて、違う結末を読んでいた。
三崎さんは棚から一冊取り、小野さんへ差し出した。
「読んでみるかい」
小野さんは、表紙を見た。
それから、開かずに受け取った。
「明日、返しに来ます」
扉が閉まるまで、三崎さんは立っていた。
下書きをしまうと、レジの奥へ戻った。
その夜、三崎さんは脅迫状に記されたアドレスへ初めてメールを送った。
要求には応じず、関係者に説明するつもりだとだけ書いた。
送る前に、その文面を見せてもらった。
日向には、小野さんが下書きを撮影し、文庫本を借りていったことも伝えた。
*
翌日、日向を連れて、山元さんに会いに行った。
帰りにガルボを買うという条件だった。
山元さんは、私の差し出した二冊を見た。
先に文庫本を手に取り、最後の方を開いた。
「こちらを読んでいたんですね」
「施設にいた頃に。日向と二人で」
山元さんは、日向を見た。
日向は椅子に座り、何も言わなかった。
「あの手紙では、お金は求めませんでした。最後を戻してほしかったんです」
山元さんの弟は、山の事故で亡くなった。
小説は、弟をそのまま書いたものではない。それでも、航が帰ってくるところだけは変えられなかったという。
三崎さんとは、互いの書いたものを読み合う友人だった。
見せた原稿が、三崎さんの名前で本になった。
その本の中では、航は死んでいた。
「名前は、戻してもらわなかったんですか」
山元さんは文庫本を閉じた。
「戻してほしかったですよ」
私は、その返事を待っていた自分に気づいた。
「文庫にすると聞いて、またあの最後で出るのかと思ったんです。これから読む人まで、航が帰ってこない話を読むことになるから」
山元さんの指が、本の最後の方に挟まっていた。
「だから、まず最後を戻してくれと。戻すなら、出版社に原稿を送るのはやめる、と約束しました」
「それで、三崎さんを許したんですか」
少し間があった。
「戻してくれれば、分かってくれると思ったんです。私が、何のためにあの話を書いたのか」
「原稿の写真、出して」
日向が言った。
私は写しを机に置いた。
「これ、今どこにある?」
山元さんは、題名の下の字を見た。
「私の原稿ですね。先月、古い本の箱を人に渡したんです。底に、書類を入れた封筒が残っていたんでしょうね。上の本だけ確かめて、渡してしまったから」
山元さんは写真の角を押さえた。
「別にしまったと思っていました」
「誰に?」
山元さんの口から、小野さんの名前が出た。
地域の本の交換会で知り合い、何度か本を渡していたという。
今回の箱には、初版本も入っていた。
「名前も教えていたんですね」
私が聞くと、山元さんは頷いた。
「会で、やまもとです、と。連絡はいつも電話でした」
私は今回の手紙にある、山本という字を思い出した。
声で聞いた名前は、同じだった。
山元さんは、私たちを見た。
「原稿を、誰かが使ったんですか」
私は、今回の手紙の写真を見せた。
山元さんはしばらく読んでから、文庫本をこちらへ戻した。
「今度は、この人にも聞かないといけませんね」
私は、文庫本を受け取った。
「三崎さんは、出版社にも説明するつもりだと言っていました。山元さんの名前を出すかは、本人と話してからって」
山元さんは、昔の手紙の写しへ目を落とした。
「書いたのが誰かは、今度は説明してほしいです。三崎が最後を変えたことも」
私は頷いた。
「ただ、弟のことまで、あの人の説明に使ってほしくありません」
山元さんは、本の表紙を指でなぞった。
「出版社と話すなら、私にも直接、連絡をもらいたい。三崎から、もう一度電話してくれるよう伝えてもらえますか」
「伝えます」
日向は、机に出した写真を戻していた。
*
外へ出ると、日向が煙草に火をつけた。
「小野さんの名前が出るかもしれないと思ってたのか」
「本、もらったって言ってたら」
「それだけじゃ、原稿を持ってるかは分からんだろ」
「だから聞いたじゃん」
本を譲ってもらったという話が、原稿にまでつながった。
昨日、小野さんが下書きを撮っていた手を思い出した。
日向は煙を吐いた。
店主への気遣いも、思い出した。
最近、ちゃんと寝てます?
無理しないでくださいよ。
「でも、原稿をもらった人だからって、手紙を書いたとは限らんよな」
「うん」
山元さんから預かった言葉を伝えに、店へ戻った。
日向も一緒だった。まだガルボを買っていなかった。
*
三崎さんは、私の話を聞き終えると、下書きを裏返した。
そこへ、山元さんが望んだことを書き留めた。
名前と結末のこと。弟のことは出さないこと。直接連絡を取ること。
「僕から電話する。今日の夜、話せるか聞いてみるよ」
三崎さんは、その紙を自分の方へ寄せた。
「出版社にも、今、連絡する」
スマホで、メールを書き始めた。
『帰り道』に他人の原稿を使った経緯を説明したいこと、山元さんにも話を聞いてほしいこと、近いうちに会って話す時間をもらいたいこと。
三崎さんは一度私たちに画面を見せ、読み返してから、送信を押した。
下書きは、レジに伏せたままだった。
受信箱に戻ると、三崎さんの指が止まった。
差出人は、脅迫状に記されていたアドレスだった。
昨夜送ったメールへの返事が来ていた。
〈「航を帰したのは私ではありません。私が変えたのは、航が帰れなくなる方の結末です。」こんな文章で済ませるつもりか。結末を戻したから何だ。公表はするな。先に五十万円を払え。〉
私は撮っておいた下書きを開いた。
二行が、一字ずつ、そのまま移されていた。
「昨夜のメールには、この文章は入れてないですよね」
「入れてない。見せたでしょう」
三崎さんは送信したメールを開いた。
私は日向と一緒に読んだ。
「下書きは、あの後、誰かに見せましたか」
「誰にも。写真を撮ったのは佐藤君と小野君だけ。山元にも、出版社にも、下書きは送ってない」
私はスマホを手元へ戻した。
撮った下書きは、日向に見せたほか、誰にも送っていなかった。
原稿を持っているというだけの話では、なくなっていた。
「小野さんから、誰かに伝わったのかもしれん」
私が言うと、日向は頷いた。
「それも聞けばいいら」
私は小野さんへ、店で話をしたいと連絡した。
返事のメールについては、まだ話さなかった。
三崎さんに二通のメールを印刷してもらい、紙を裏返して置いた。
*
ほどなく、小野さんが店へ来た。
借りていた文庫本を、レジに置いた。
「これ、返しに来ました。昨日、一気に読んでしまって」
小野さんは三崎さんを見た。
私は、山元さんから原稿を譲った相手を聞いたことを伝えた。
「本と一緒に、原稿があったんですね」
「ありましたよ」
「それを見て、盗作だと気づいた」
「昔、何度も読んだ本ですから」
小野さんの手が、レジに置いた本へ戻った。
「最初は、先生の書きかけだと思ったんです。署名を読んで、違うと分かった」
「ほかに、原稿を見せた人はいますか」
「いません。こんなこと、誰に話せます?」
「昨日読んだ説明文は?」
「それも話してません。先に読ませてくれたんですから」
私は匿名の返事を印刷した紙を出した。
三崎さんの送信メールも、その横に置いた。
小野さんは、二行を読んだ。
視線が紙の下まで行かず、戻った。
「先生が、ほかの人にも見せたんじゃないですか」
三崎さんは首を振った。
「下書きは、君の後は誰にも見せていないよ。昨夜のメールにも、今、出版社へ送った連絡にも、添えていない」
小野さんは、レジに伏せた下書きを見た。
「原稿を持ってるから、俺だってことですか」
「それだけなら、決められません」
私は返事の紙を指した。
「でも、説明文も、今回の連絡先へ届いている。誰かに渡したなら、その人のことを聞かせてください」
小野さんは返事をしなかった。
日向が、レジの文庫本を手に取った。
「これ、読んだ?」
「読みましたよ」
小野さんの声が少し強くなった。
「結末を戻しましたって、それで許されるんですか。あの本は今も、先生の名前で売られてるじゃないですか」
三崎さんは答えなかった。
私は文庫本の背を見た。
三崎直樹、とあった。
小野さんの言うことを、そのまま否定することはできなかった。
小野さんは、三崎さんを見て続けた。
「出版社には、少し待ってもらえないんですか」
日向は本を置いた。
「じゃあ、なんで話すの止めたの?」
小野さんは、紙を押さえた。
「ちゃんと責任を取ってからでしょう」
「五十万、誰に払うの?」
返事はなかった。
三崎さんが、小さく息を吐いた。
「小野君。最初の手紙も、この返事も、君が送ったのか」
小野さんは、三崎さんを見た。
「……そうです」
声は小さかった。
「先生の本だと思って、何回も読んだんですよ。先生が言うと、ほかの本の話まで、ちゃんと聞こうと思った。先生だって、それで金を得たでしょう」
小野さんは私へ顔を向けた。
「佐藤さんも、好きだったんでしょう」
「好きでした」
「だったら」
その先は続かなかった。
「山元さんへ返すために要求したんですか」
私が聞くと、小野さんは首を振った。
「先生に、痛い思いをしてほしかったんです」
「受け取るのは、小野さんですよね」
小野さんは、文庫本へ目を落とした。
私は、あの本を読んだ時間を思い出していた。
日向と本を返す日を確かめたこと。航のところへ届く声を、もう一度読んだこと。
その時間を台無しにされたくない気持ちは、私にもあった。
それでも、五十万円を受け取れば戻るとは思えなかった。
三崎さんは返事の紙を引き寄せた。
「払わないよ。それから、説明するのもやめない」
小野さんが顔を上げた。
三崎さんは、小野さんを見ていた。
「今日ここで、全部なかったことにするつもりもない。手紙も、メールも、残しておく」
三崎さんの手が震えていた。
私は、紙がレジの縁から落ちないように、少し奥へ寄せた。
*
小野さんが帰った後、店には私たちと三崎さんが残った。
三崎さんは、昔の手紙を手に取った。
「山元さんと、友人だったんですね」
私が聞くと、三崎さんは頷いた。
「弟さんのことも、知っていた」
「うん」
「それでも、結末を変えたんですか」
三崎さんは、紙を封筒へ戻した。
「その方が、強いと思った。読む人に残るって」
日向は、借りた初版本を閉じた。
「山元が欲しかったものは、なくしたんだな」
三崎さんは返事をしなかった。
私は、山元さんが本の最後に指を挟んでいたことを話した。
これから読む人のために、まず結末を戻してほしかったこと。戻してくれれば、三崎さんにも意味が分かると思っていたこと。
三崎さんは、昔の手紙の封を閉じられずにいた。
「僕は、もう許してもらったつもりだった」
私はレジに並ぶ二冊を見た。
「最初に、そこまで話してくれていたら」
「盗作のことを言うだけで、もう……」
三崎さんが顔を上げた。
「違う。僕が、話したくなかったんだ」
私は、返事をしなかった。
三崎さんは下書きを表へ返し、封筒から昔の手紙を出して、その横に置いた。
「最後の章を戻すよう求められた」と、空いたところに書き足した。
続きを書きかけて、昔の手紙を開き直した。
「山元に電話する。出版社と、賞の方にも説明する。どう話すか、僕だけで決めない」
私は頷いた。
レジの端に、貸した文庫本が残っていた。
三崎さんはそれを棚へ戻さず、自分の前に置いた。
*
数日後、私は借りた初版本を返した。
三崎さんは、山元さんと電話で話したと言った。
「来週、二人で出版社へ行くことになった」
レジには、書き直した紙が置かれていた。
三崎さんは、その端をそろえて封筒へ入れた。
店の棚には、まだ『帰り道』があった。
外で、日向が待っていた。
「読んだ?」
「初版も。最後、嫌だった」
「ふーん」
「最初にそっちを読んでたら、好きになってたかもしれんけど」
私は自分の文庫本を出した。
扉の、小さな改訂版という文字を見た。
「同じ本だと思ってたんだよな」
日向は、本を受け取って最後の方を開いた。
しばらく見て、閉じた。
「こっちは、帰ってくるら」
私は頷いた。
あの結末を好きだったことまで、取り消さなくていいと思った。
日向が本を私へ戻した。
「ガルボ」
「分かってるよ」
私は文庫本を鞄へ入れた。




