↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

日向と佐藤のミステリ

古本屋と脅迫状

作者: ぐす
掲載日:2026/10/08

駅から少し歩いたところに、その古本屋はある。


扉を開けると、紙の匂いがした。床にも本が積まれているが、日向の部屋とは違い、どこを歩けばいいかは分かる。


レジの前に、小野さんがいた。ここで何度も会っている。私に本を薦めてくれるし、私が選んだ本についても、どうだったかと聞いてくる。


「先生、最近ちゃんと寝てます?」


小野さんが言った。

三崎さんはレジの奥で、目元をこすった。


「少し寝不足でね」

「無理しないでくださいよ」


私に気づくと、小野さんが持っていた本を上げた。


「これ、この前、まとめて譲ってもらった本に入ってたんですよ。懐かしくて読み直しました」


『帰り道』だった。


三崎さんが昔、賞を取った作品だ。私も施設にいた頃に読んだ。日向と順番に借りて、返す前にもう一度最後だけ読んだ。

ここへ通い始めてから、店主がその作者だと知った。


「俺も好きです、それ」

「あの最後、残酷ですよね」

「そうですか。俺は少し救われたけど」

「あれで?」

「うん。施設にいた頃、日向ってやつと読んだんです」


小野さんは本を閉じた。


「同じ本でも、違うんですね」


その言葉に、私は頷いた。


小野さんが帰った後も、三崎さんはレジの奥に座っていた。

私は買おうと思っていた本を置いた。


「大丈夫ですか」


三崎さんは本を見るでもなく、引き出しから封筒を取り出した。


「佐藤君、少し聞いてもらってもいいかな」


*


封筒には、差出人の名前がなかった。

昨日の郵便に混じって届いたという。


中の紙には、小説の題名と、航の名前があった。


〈航が雪の中で死ぬ、あの小説の元原稿を持っている。書いたのは山本正人だ。あなたではない。盗作を公表されたくなければ、五十万円を払え〉


連絡用のメールアドレスと、返事を求める期限が続いていた。

別紙には、手書きの原稿の一ページ目を撮った写真が印刷されていた。題名の下に、崩した字で人の名前がある。


私は、三崎さんを見た。


「これ、どういう……」

「若い頃、他人の原稿を使ったんだ」


聞こえた言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。


「あの本を?」

「うん。言い訳になるけど、どうしても認められたくてね」


私は、レジ横にある『帰り道』の棚を見た。

作者名には、三崎直樹とあった。

手を伸ばしかけたが、そのまま下ろした。


「昔にも、一度、こういう手紙が来た。もう終わった話だと思っていたんだけど」

「同じ人からですか」

「原稿を持っていたのは、あの人だから」


三崎さんが写真を指した。


「本当は山元なんだけど。今度は山本と書いてある。名前の間違いなら、よくあるけどね」

「その人とは、どういう関係なんですか」

「昔、文章を書いていた知り合いだよ」


三崎さんは封筒を折りかけ、やめた。


「また、許してもらえなくなったんだろうな」


盗作のことまで打ち明けてくれた。

私はそれ以上のことを、すぐには聞けなかった。


「払うつもりですか」

「払えば、今度は終わるのかな」


私は答えられなかった。


「まず、誰が送ったか確かめた方がいいと思います。昔、一緒に本を読んでたやつに、見せてもいいですか」

「その、日向君?」

「はい。写真を撮ってもいいですか」


三崎さんが頷いた。

私は手紙と、原稿の写真を写した。


*


日向は、煙草を置く皿とカルピスのコップを、同じ距離に置いていた。

私が入っても、どちらにも手を伸ばさない。


「『帰り道』の作者、古本屋やってるって話、したよな」

「うん」

「その人が脅されてる」

「ふーん」


私はスマホを差し出した。

日向は受け取らず、私の手元をのぞいた。


「昔にも、一度手紙が来たんだって。三崎さんは、今回も同じ人だと思ってる。原稿を持ってた人だからって」


原稿の写真がついていたことと、名前の漢字が違うことも伝えた。


日向は手紙を見ていた。


「航、最後は生きてるら」

「俺もそう思った。ずっと前に読んだから、覚え違いかもしれんけど」

「お前の本、ある?」

「あると思う」

「持ってきて。前の手紙も」


私は画面を戻した。


「昔の手紙と比べるってことか」

「うん」


店で聞いた話も伝えた。

小野さんが本を譲られたこと。作品の結末を残酷だと言ったこと。三崎さんを気遣っていたこと。


「同じ本でも、読み方が違うんだなって」


日向はカルピスを取った。


「同じか、見ればいいじゃん」


*


家の本棚に、文庫本が残っていた。

三崎さんにも連絡すると、昔の手紙を保管していた。後で何を求められたか、分からなくならないように残したのだという。


翌日、その手紙を見せてもらった。

私が初版本も読みたいと言うと、三崎さんは棚から一冊出してくれた。


「初版は少し違うからね」

「どこがですか」

「最後の方を、文庫にするときに直したんだ」


私はその本も借りた。


日向の部屋で、二冊を並べた。

文庫本の扉には、小さく「改訂版」とある。私はこれまで、その文字を気にしたことがなかった。


初版本では、航は帰ってこなかった。

文庫本では、航を捜す人の声が届いた。


私は文庫本を閉じ、初版本の最後をもう一度開いた。

同じ題名で、同じ作者の本だった。

最後の一章が違っていた。


昔の手紙の写しを開いた。


〈文庫にするなら、最後の章は私の原稿に戻してください。航が帰ってくるところまで、私が書いた通りに。拒むなら、原稿を出版社に送ります〉


下に、山元正人、とあった。


金の要求はなかった。


「最初に欲しかったのは、金じゃなかったんだな」

「今度は、五十万だら」


私は三崎さんの言葉を思い出した。

昔にも、こういう手紙が来た。

同じ要求だったとは、一度も言っていない。


「その人の結末に戻したんだ。自分で考え直したんじゃなくて」


日向は、二枚の手紙を並べた。


「名前も違うら」

「山元と山本。三崎さんは、間違いじゃないかって」

「山元が、自分の名前を間違えた?」

「わざとかもしれん。匿名で出してるし」

「かもしれんな」


日向は、今回の手紙に添えられていた写真を拡大した。

元の字の、下へ長く伸びた線が見えた。知らなければ、山本と読んだかもしれない。


「古い本と、ここにある字を読んだやつかもな」


私は写真を見た。


「別の人が、原稿を持ってる?」


日向は煙草の箱を探していた。


「どこにやったか、聞けばいいら」


*


三崎さんに、山元さんと話したいと伝えた。


「僕のことで、また嫌な思いをさせるのは……」

「原稿が今どこにあるか、確かめたいんです」

「もう関わりたくないかもしれない」


私は黙って待った。

三崎さんはスマホを持ち、しばらく画面を見ていた。


「本人に聞いてみる。会うかどうかは、山元が決めることだから」


三崎さんはスマホを置き、レジの横にあった紙を手にした。


「昨日から、少し書いてるんだ」


題名も、宛名もなかった。

書き直した言葉の上に、細い線が引かれている。


〈航を帰したのは私ではありません。私が変えたのは、航が帰れなくなる方の結末です。〉


私はその二行を読んだ。


「説明するつもりですか」

「出版社にも、店に来てくれる人にも。山元の名前を出すかは、本人と話してからだけど」


三崎さんは紙の端をそろえた。


「払って、また黙ってるのは、もう……」


言葉が止まった。

私は続きを促さなかった。


三崎さんによると、まだ誰にも見せていない下書きだった。

私は、日向にも読ませてよいか聞いた。

三崎さんが頷いたので、写真を撮った。


日向の部屋に戻り、文庫本の横で、撮った写真を開いた。


「三崎さん、公表するつもりだって」

「ふーん」

「でも、先に話したら、脅迫してる人が怒るかもしれんよな」

「先に話したら、払う理由なくなるら」


私は画面を見た。

三崎さんが失うものばかり、考えていた。


「公表するってことだけ伝えて。下書きは送らんで」


夕方、日向の言葉を伝えに店へ戻った。

三崎さんは、山元さんが明日、会ってくれると言った。


「小野君にも話そうと思って。これから来てもらうんだ」


三崎さんは下書きを引き出しから出した。


「ずっと好きだと言ってくれていたからね。公表する前に、あの人には、僕から言いたい」


扉が開いた。

小野さんは、レジの前にいる私を見てから、三崎さんに挨拶した。


「お話って、何ですか」


三崎さんは紙を持ったまま、顔を上げた。


「『帰り道』のことなんだけど。若い頃、知り合いの原稿を、自分の名前で出したんだ」


小野さんは黙っていた。


「初版の最後は、僕が変えた。文庫にするとき、元の原稿へ戻したんだよ」


三崎さんが、下書きをレジへ置いた。

小野さんは、そこにある言葉を読んだ。


「最後は、先生が変えたんですか」

「うん」


小野さんは、レジ横の棚を見た。

そこにも、三崎さんの名前で本が並んでいた。


「これを、出すんですか」

「山元と話してから。出版社にも、説明しようと思う」


小野さんは紙へ目を戻した。

三崎さんは、その間、何も言わなかった。


「写真、撮ってもいいですか。ゆっくり読み返したいので」


三崎さんが頷いた。

小野さんはスマホを出し、紙の上で構えた。


「文庫の方は、読んだ?」

「初版だけです。昔から読んでたのは」


小野さんが言った「残酷」を思い出した。

私と違う読み方をしたんじゃなくて、違う結末を読んでいた。


三崎さんは棚から一冊取り、小野さんへ差し出した。


「読んでみるかい」


小野さんは、表紙を見た。

それから、開かずに受け取った。


「明日、返しに来ます」


扉が閉まるまで、三崎さんは立っていた。

下書きをしまうと、レジの奥へ戻った。


その夜、三崎さんは脅迫状に記されたアドレスへ初めてメールを送った。

要求には応じず、関係者に説明するつもりだとだけ書いた。

送る前に、その文面を見せてもらった。


日向には、小野さんが下書きを撮影し、文庫本を借りていったことも伝えた。


*


翌日、日向を連れて、山元さんに会いに行った。

帰りにガルボを買うという条件だった。


山元さんは、私の差し出した二冊を見た。

先に文庫本を手に取り、最後の方を開いた。


「こちらを読んでいたんですね」

「施設にいた頃に。日向と二人で」


山元さんは、日向を見た。

日向は椅子に座り、何も言わなかった。


「あの手紙では、お金は求めませんでした。最後を戻してほしかったんです」


山元さんの弟は、山の事故で亡くなった。

小説は、弟をそのまま書いたものではない。それでも、航が帰ってくるところだけは変えられなかったという。


三崎さんとは、互いの書いたものを読み合う友人だった。

見せた原稿が、三崎さんの名前で本になった。

その本の中では、航は死んでいた。


「名前は、戻してもらわなかったんですか」


山元さんは文庫本を閉じた。


「戻してほしかったですよ」


私は、その返事を待っていた自分に気づいた。


「文庫にすると聞いて、またあの最後で出るのかと思ったんです。これから読む人まで、航が帰ってこない話を読むことになるから」


山元さんの指が、本の最後の方に挟まっていた。


「だから、まず最後を戻してくれと。戻すなら、出版社に原稿を送るのはやめる、と約束しました」

「それで、三崎さんを許したんですか」


少し間があった。


「戻してくれれば、分かってくれると思ったんです。私が、何のためにあの話を書いたのか」


「原稿の写真、出して」


日向が言った。

私は写しを机に置いた。


「これ、今どこにある?」


山元さんは、題名の下の字を見た。


「私の原稿ですね。先月、古い本の箱を人に渡したんです。底に、書類を入れた封筒が残っていたんでしょうね。上の本だけ確かめて、渡してしまったから」


山元さんは写真の角を押さえた。


「別にしまったと思っていました」

「誰に?」


山元さんの口から、小野さんの名前が出た。

地域の本の交換会で知り合い、何度か本を渡していたという。

今回の箱には、初版本も入っていた。


「名前も教えていたんですね」


私が聞くと、山元さんは頷いた。


「会で、やまもとです、と。連絡はいつも電話でした」


私は今回の手紙にある、山本という字を思い出した。

声で聞いた名前は、同じだった。


山元さんは、私たちを見た。


「原稿を、誰かが使ったんですか」


私は、今回の手紙の写真を見せた。

山元さんはしばらく読んでから、文庫本をこちらへ戻した。


「今度は、この人にも聞かないといけませんね」


私は、文庫本を受け取った。


「三崎さんは、出版社にも説明するつもりだと言っていました。山元さんの名前を出すかは、本人と話してからって」


山元さんは、昔の手紙の写しへ目を落とした。


「書いたのが誰かは、今度は説明してほしいです。三崎が最後を変えたことも」


私は頷いた。


「ただ、弟のことまで、あの人の説明に使ってほしくありません」


山元さんは、本の表紙を指でなぞった。


「出版社と話すなら、私にも直接、連絡をもらいたい。三崎から、もう一度電話してくれるよう伝えてもらえますか」

「伝えます」


日向は、机に出した写真を戻していた。


*


外へ出ると、日向が煙草に火をつけた。


「小野さんの名前が出るかもしれないと思ってたのか」

「本、もらったって言ってたら」

「それだけじゃ、原稿を持ってるかは分からんだろ」

「だから聞いたじゃん」


本を譲ってもらったという話が、原稿にまでつながった。

昨日、小野さんが下書きを撮っていた手を思い出した。


日向は煙を吐いた。


店主への気遣いも、思い出した。

最近、ちゃんと寝てます?

無理しないでくださいよ。


「でも、原稿をもらった人だからって、手紙を書いたとは限らんよな」

「うん」


山元さんから預かった言葉を伝えに、店へ戻った。

日向も一緒だった。まだガルボを買っていなかった。


*


三崎さんは、私の話を聞き終えると、下書きを裏返した。

そこへ、山元さんが望んだことを書き留めた。

名前と結末のこと。弟のことは出さないこと。直接連絡を取ること。


「僕から電話する。今日の夜、話せるか聞いてみるよ」


三崎さんは、その紙を自分の方へ寄せた。


「出版社にも、今、連絡する」


スマホで、メールを書き始めた。

『帰り道』に他人の原稿を使った経緯を説明したいこと、山元さんにも話を聞いてほしいこと、近いうちに会って話す時間をもらいたいこと。

三崎さんは一度私たちに画面を見せ、読み返してから、送信を押した。


下書きは、レジに伏せたままだった。


受信箱に戻ると、三崎さんの指が止まった。

差出人は、脅迫状に記されていたアドレスだった。

昨夜送ったメールへの返事が来ていた。


〈「航を帰したのは私ではありません。私が変えたのは、航が帰れなくなる方の結末です。」こんな文章で済ませるつもりか。結末を戻したから何だ。公表はするな。先に五十万円を払え。〉


私は撮っておいた下書きを開いた。

二行が、一字ずつ、そのまま移されていた。


「昨夜のメールには、この文章は入れてないですよね」

「入れてない。見せたでしょう」


三崎さんは送信したメールを開いた。

私は日向と一緒に読んだ。


「下書きは、あの後、誰かに見せましたか」

「誰にも。写真を撮ったのは佐藤君と小野君だけ。山元にも、出版社にも、下書きは送ってない」


私はスマホを手元へ戻した。

撮った下書きは、日向に見せたほか、誰にも送っていなかった。


原稿を持っているというだけの話では、なくなっていた。


「小野さんから、誰かに伝わったのかもしれん」


私が言うと、日向は頷いた。


「それも聞けばいいら」


私は小野さんへ、店で話をしたいと連絡した。

返事のメールについては、まだ話さなかった。

三崎さんに二通のメールを印刷してもらい、紙を裏返して置いた。


*


ほどなく、小野さんが店へ来た。

借りていた文庫本を、レジに置いた。


「これ、返しに来ました。昨日、一気に読んでしまって」


小野さんは三崎さんを見た。

私は、山元さんから原稿を譲った相手を聞いたことを伝えた。


「本と一緒に、原稿があったんですね」

「ありましたよ」

「それを見て、盗作だと気づいた」

「昔、何度も読んだ本ですから」


小野さんの手が、レジに置いた本へ戻った。


「最初は、先生の書きかけだと思ったんです。署名を読んで、違うと分かった」

「ほかに、原稿を見せた人はいますか」

「いません。こんなこと、誰に話せます?」

「昨日読んだ説明文は?」

「それも話してません。先に読ませてくれたんですから」


私は匿名の返事を印刷した紙を出した。

三崎さんの送信メールも、その横に置いた。


小野さんは、二行を読んだ。

視線が紙の下まで行かず、戻った。


「先生が、ほかの人にも見せたんじゃないですか」


三崎さんは首を振った。


「下書きは、君の後は誰にも見せていないよ。昨夜のメールにも、今、出版社へ送った連絡にも、添えていない」


小野さんは、レジに伏せた下書きを見た。


「原稿を持ってるから、俺だってことですか」

「それだけなら、決められません」


私は返事の紙を指した。


「でも、説明文も、今回の連絡先へ届いている。誰かに渡したなら、その人のことを聞かせてください」


小野さんは返事をしなかった。


日向が、レジの文庫本を手に取った。


「これ、読んだ?」

「読みましたよ」


小野さんの声が少し強くなった。


「結末を戻しましたって、それで許されるんですか。あの本は今も、先生の名前で売られてるじゃないですか」


三崎さんは答えなかった。


私は文庫本の背を見た。

三崎直樹、とあった。

小野さんの言うことを、そのまま否定することはできなかった。


小野さんは、三崎さんを見て続けた。


「出版社には、少し待ってもらえないんですか」


日向は本を置いた。


「じゃあ、なんで話すの止めたの?」


小野さんは、紙を押さえた。


「ちゃんと責任を取ってからでしょう」

「五十万、誰に払うの?」


返事はなかった。

三崎さんが、小さく息を吐いた。


「小野君。最初の手紙も、この返事も、君が送ったのか」


小野さんは、三崎さんを見た。


「……そうです」


声は小さかった。


「先生の本だと思って、何回も読んだんですよ。先生が言うと、ほかの本の話まで、ちゃんと聞こうと思った。先生だって、それで金を得たでしょう」


小野さんは私へ顔を向けた。


「佐藤さんも、好きだったんでしょう」

「好きでした」

「だったら」


その先は続かなかった。


「山元さんへ返すために要求したんですか」


私が聞くと、小野さんは首を振った。


「先生に、痛い思いをしてほしかったんです」

「受け取るのは、小野さんですよね」


小野さんは、文庫本へ目を落とした。


私は、あの本を読んだ時間を思い出していた。

日向と本を返す日を確かめたこと。航のところへ届く声を、もう一度読んだこと。


その時間を台無しにされたくない気持ちは、私にもあった。

それでも、五十万円を受け取れば戻るとは思えなかった。


三崎さんは返事の紙を引き寄せた。


「払わないよ。それから、説明するのもやめない」


小野さんが顔を上げた。

三崎さんは、小野さんを見ていた。


「今日ここで、全部なかったことにするつもりもない。手紙も、メールも、残しておく」


三崎さんの手が震えていた。

私は、紙がレジの縁から落ちないように、少し奥へ寄せた。


*


小野さんが帰った後、店には私たちと三崎さんが残った。


三崎さんは、昔の手紙を手に取った。


「山元さんと、友人だったんですね」


私が聞くと、三崎さんは頷いた。


「弟さんのことも、知っていた」

「うん」

「それでも、結末を変えたんですか」


三崎さんは、紙を封筒へ戻した。


「その方が、強いと思った。読む人に残るって」


日向は、借りた初版本を閉じた。


「山元が欲しかったものは、なくしたんだな」


三崎さんは返事をしなかった。


私は、山元さんが本の最後に指を挟んでいたことを話した。

これから読む人のために、まず結末を戻してほしかったこと。戻してくれれば、三崎さんにも意味が分かると思っていたこと。


三崎さんは、昔の手紙の封を閉じられずにいた。


「僕は、もう許してもらったつもりだった」


私はレジに並ぶ二冊を見た。


「最初に、そこまで話してくれていたら」

「盗作のことを言うだけで、もう……」


三崎さんが顔を上げた。


「違う。僕が、話したくなかったんだ」


私は、返事をしなかった。

三崎さんは下書きを表へ返し、封筒から昔の手紙を出して、その横に置いた。


「最後の章を戻すよう求められた」と、空いたところに書き足した。

続きを書きかけて、昔の手紙を開き直した。


「山元に電話する。出版社と、賞の方にも説明する。どう話すか、僕だけで決めない」


私は頷いた。


レジの端に、貸した文庫本が残っていた。

三崎さんはそれを棚へ戻さず、自分の前に置いた。


*


数日後、私は借りた初版本を返した。

三崎さんは、山元さんと電話で話したと言った。


「来週、二人で出版社へ行くことになった」


レジには、書き直した紙が置かれていた。

三崎さんは、その端をそろえて封筒へ入れた。


店の棚には、まだ『帰り道』があった。


外で、日向が待っていた。


「読んだ?」

「初版も。最後、嫌だった」

「ふーん」

「最初にそっちを読んでたら、好きになってたかもしれんけど」


私は自分の文庫本を出した。

扉の、小さな改訂版という文字を見た。


「同じ本だと思ってたんだよな」


日向は、本を受け取って最後の方を開いた。

しばらく見て、閉じた。


「こっちは、帰ってくるら」


私は頷いた。

あの結末を好きだったことまで、取り消さなくていいと思った。


日向が本を私へ戻した。


「ガルボ」

「分かってるよ」


私は文庫本を鞄へ入れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。