灰被りの旅芸人 ―勇者が倒した”後”の世界にて―
## 序 灰色の呼吸
焦げた匂いがする。
荒れ地を踏むたび、砂が靴底に噛みつく。ざり、ざり。荷車の引き綱が掌に食い込んで、三年前からできた胼胝がまたじわりとひきつる。腹が減っているのは朝からだ。それは別に驚かない。
空は今日も灰色だった。
正確には「灰色と薄黄色の間にある、名前のない色」だ。子どものころはこういう空しか知らなかったから、これが普通だと思っていた。師のガルドが教えてくれるまでは。
「昔な、空というのは青かった。水の底みたいな青じゃなくて、もっと軽い青。触れたら冷たいような」
「どんな青ですか」
「わしも覚えとらん。三十年以上前の話だから」
その会話を思い出すたびに、今でも少し腹が立つ。覚えていないなら教えるな、と思う。でも同時に、教えてくれてよかったとも思う。
知らなければ、この空が変だとも思わなかった。
リラは荷車の引き綱を握り直して、前を向いた。次の街まで半日。それくらいは歩ける。腹が減っていても。
足が止まったのは、無意識だった。
ざり、と砂を踏む音が変わった。正確には、音が増えた。
道の脇の枯れ草の茂みの中に、何かいる。
野良の魔獣か、とリラは思った。近ごろ増えた。地脈の流れが乱れて、魔力の置き場所がなくなった獣が変質する。師が言っていた。「番人がいなくなったから、魔力が溜まる場所が消えた。水が流れなくなった川の底みたいなものじゃ」
でも、これは——。
「……くるな」
掠れた声だった。でも、はっきりした言葉だった。
リラは荷車をそのままにして、しゃがんだ。枯れ草をかき分けると、いた。
小さな子どもだ。
白い耳が二枚、ぺたりと頭に伏せている。尻尾は泥で黒くなって、先が血で固まっていた。年のころは五つか六つ。着ているものがぼろぼろで、腕の内側に打ち身の跡がある。逃げた跡だ。転んで、起きて、また転んだ痕だ。
金色の瞳が、リラを見た。
怯えている。でも逃げようとしない。逃げる力が残っていないのだろう。
「行かないよ」
「……」
「水、持ってる。飲む?」
子どもは答えなかった。でも、金色の目が水袋を追った。
それで十分だった。
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## 一 ベルタ・ラの夜
ベルタ・ラは、死にかけの街だ。
かつて四つの交易路が交わる結節点として栄えた。「ベルタ・ラ」という名前自体が古い大陸語で「四方の要」を意味するらしい。今は壁が剥げて看板が文字ごと落ちて、広場の石畳に草が生えている。人口は最盛期の五分の一以下だと、さっき道で会った老人が教えてくれた。
それでも人がいる。火が灯る。宿屋から笑い声が漏れる。
人というのは、なかなか死なない生き物だ。
「旅芸人! 旅芸人だよな! 本物か!?」
街の入口で声をかけてきた少年は、破れた上着に泥だらけの靴を履いていた。十二か三。目が笑っている。荷車を見る目が、値踏みではなく純粋な好奇心だった。
「本物のつもり」
「今夜、広場で歌ってくれよ。うちのおやじに話つけてやる。バルカの宿って聞いたらわかる。銅貨三枚出す」
「おやじさんが出すの、それともあなたが?」
少年が一瞬、渋い顔をした。それから、
「俺が」
「五枚」
「た、高い!」
「相場です」
ひと呼吸。
「わかった。アシュってんだ。よろしく」
即断だった。子どもらしくない決め方をする、と思った。財布の中身を確認もしなかった。あとで困るかもしれないのに。
荷台をちらりと確かめる。シナ、と名乗った獣人の子は、布の下でじっとしている。白い耳の先だけが、少し出ていた。アシュの目がそこに止まりかけて、リラは荷車の向きを少し変えた。
バルカの宿は、ベルタ・ラで一番大きい建物だった。昔の話だが。今は壁に亀裂が走り、二階の窓が板で塞いである。入ると薪と煮込み料理の匂いがした。カウンターに大柄な男が立って、拭き布で革のジョッキを磨いていた。
顔の右半分に、火傷の痕がある。古いものだ。でも、磨き込まれた木製カウンターを見れば、この男がどういう人間かは大体わかる。
「旅芸人か。久しぶりだな」
「ここに来たことはないですが」
「この街に来た旅芸人が、という意味だ。部屋は狭くていい。荷車は裏に置け。今夜の飯と部屋で取引だ」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
バルカ、というのがこの宿主の名前だった。話し方はぶっきらぼうで、目が穏やかだ。矛盾しているようで、そういう人間がいる。
荷車を裏に回しながら、布をそっとめくった。
「着いたよ」
シナは顔を出さなかった。ぴく、と耳だけが動いた。白い毛並みに黒い縞が入った、特徴的な耳だ。
生きている。それだけ分かれば、今は十分だ。
広場に向かう前に、カウンターで水を一杯もらった。その時、隅のテーブルで酒を飲んでいた老人と目が合った。七十がらみ、白い顎鬚、目の焦点がない。
「旅芸人か」と老人が言った。「歌うなら聞こうかね。この街もずいぶん賑やかさをなくしたから」
「喜んで」
「ただ、一つ教えておこう」老人はジョッキを傾けながら、声を落とした。「テッサが今夜いる。あの女に目をつけられると面倒だ。情報屋みたいなもんだからね。知りたいことがあれば何でも聞いてくる」
「悪い人ですか」
「悪い人間じゃない。ただ、情報に値段をつける人間だ」
ヴェン、と老人は名乗った。元は馬商人だったという。今は毎日ここで飲んでいる。
夕暮れ。広場に人が集まり始めた。
石畳の中央、枯れ木の切り株に座って笛を出す。ぴい、と一音鳴らすと、通りを歩いていた老婆が足を止めた。子どもが二人、石畳を走ってきた。荷物を持った旅人が振り向く。
テッサという女商人が最初に近くに来た。四十代。髪をきつく縛り、目がよく動く。革の手袋をしたまま腕を組んで、リラをすっと見た。値踏みではない。整理している。
「ガルド老師のお弟子さん?」
「なぜ分かるんですか」
「目元が同じ。諦めた目と諦めていない目が、同時に入ってる。あのじいさんも同じ目をしてた」
返す言葉が見つからなかった。
テッサの視線が、荷車の陰に移った。シナが半分だけ顔を出して、広場を見ていた。白い耳が立っている。黒縞が見えた。
テッサの目が、かちりと細くなった。
「……あの縞、知ってる。魔王族の血筋にしか出ない。図説書で見た。呪いの子だわ」
声が低かったが、石畳に落ちた声は広場に響いた。
ぴたりと空気が止まる。
ひゅう、と風が吹いた。砂が舞う。
誰かが息を呑む音がした。荷物を持った旅人が一歩引いた。石畳に座っていた子どもが、後ろを振り返った。
シナの指が、リラの服の裾をぎゅっと掴んだ。薄くて冷たい指が、布を引っ張っている。
「呪いの子がなんですか」
リラは平坦な声で言った。テッサを見る。視線を逸らさない。
「この子は今ここにいます。腹が減ってる。それだけです」
「でも——」
「でも、何ですか」
テッサは口が開いて、閉じた。
広場の空気が固まったまま、三秒ほど経った。
「早く歌えよ!」
アシュが大声を出した。
それで場が崩れた。ざわざわ、と人が動き始める。子どもが石畳に再び座り込む。老人が宿の壁に寄りかかった。
炎を三つ出した。親指の爪ほどの火種。生活魔法の基礎中の基礎だ。ガルドに最初に習った。「炎は消すことより、浮かべることの方が難しい」と言われた。ぱちぱち、と音がして、火の粉が散った。
笛を吹いた。
種まきのうた。誰でも知っている、百年以上続く歌。
炎が踊る。ぱちり、ぱちり。
空気が変わった。
シナは荷車の影から出てこなかった。でも耳がまっすぐ立っていた。黒縞の入った白い耳が、音に向かって立っている。それだけでよかった。
宿に戻ると、バルカが廊下に立っていた。
腕を組んで、火傷のない方の顔を壁に向けている。リラを待っていたのは明らかだった。
「話がある」
「いい話?」
「悪い話だ」
シナを部屋に入れてドアを閉める。廊下でバルカと向き合った。
「追っ手が来る。明日の朝には着く。ドランの組だ」
腹の底がひやりとした。
「ドランというのは」
「傭兵。腕はいい。依頼主の名前は教えないが、先週からこの街一帯で白い耳に黒縞の獣人の子を探してる。六つ前後の女の子。そっくりだ」
「なぜ教えてくれるんですか」
バルカは少し間を置いた。顔の右半分を、無意識に右手でなぞった。
「息子がいた」
そこで止まった。それから、
「獣人族の女と結婚した。勇者が魔王を倒した後の混乱で、二人とも焼かれた。獣人狩りに遭って」
廊下が静まり返った。
「夜明け前に出ろ。南は行くな。カイン卿の領地だ。今のあの人は——」バルカは言葉を選んでいる。「英雄でいるために、何でもする人間になった。それだけだ」
部屋に戻ると、シナが窓の下に座って外を見ていた。灰色の夜空に、星がいくつか光っている。振り返って、金色の目でリラを見た。
「聞こえてた?」
「聞こえた」
「怖い?」
シナは少し間を置いた。
「怖いのと、ちがうものが、混ざってる」
「ちがうものって」
「怒り、かも」
リラは床に座って、シナの隣に並んだ。壁にもたれると、ぼろぼろの漆喰が少し崩れた。
「怒っていい」
「……怒っていいの?」
「いい」
炉の火がぱちりと鳴った。それきり、二人は黙った。でも嫌な沈黙じゃなかった。
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## 二 夜逃げと師の手紙
夜明けの二刻前。
ベルタ・ラの石畳を、荷車の車輪がごとごとと鳴った。眠い。腹も減っている。でも足を止める気にはなれなかった。
「待ってたんだけど」
街の外れで、アシュが壁に寄りかかっていた。小さな荷袋を一つ抱えている。眠っていなかったのか、目がぱっちりしている。
「どこに行くつもりですか」
「ついていく」
「ダメ」
「なんで」
「危ないから」
「どこだって危ないじゃないか」
返す言葉がなかった。
「宿は」
「おやじに置き手紙した。そのうち帰るって。おやじは怒る。でもそれはそれで」
アシュはそのまま歩き始めた。荷車の横に並んで、ちゃっかり歩いている。靴底がぺたぺたと石畳を鳴らした。
シナが布の下からちらりとアシュを見た。目が合った。
「よろしく」とアシュが言った。
シナは何も言わなかったけど、耳がぴくりと動いた。
道を半日。
古い礼拝堂の廃墟で火を起こした。屋根はないが石壁が残っていて、風をある程度防いでくれる。旅人が使う場所らしく、隅に枯れ草が積まれていた。
ぱちぱち。薪が弾ける。
「師匠の手紙に、何が書いてあったの」
シナが聞いた。
炎を見つめながら。金色の目が、火の色と混じる。
「読む?」
「読んで」
リラは荷台から魔導書の間に挟んであった一枚の紙を出した。三年前に師が死んで、荷物を整理したときに出てきた。表に「わしが死んでから読め」と書いてあった。律儀に守った。
「難しい言葉があったら言って」
「言う」
アシュが「俺も聞いていいか」と言った。
「どうぞ」
リラは紙を広げた。師の字は崩れていて読みにくいが、もう何十回も読んだから諳んじることができる。
「『リラへ。お前に残すものは魔導書二冊と、この手紙と、唄一曲だ。剣も金も地位も名誉もわしは持っていないし、持つ気もなかった。だから謝らない』」
ぱちり、と薪が鳴った。
「『ただ、真実は残す。これはわしの解釈であり、証明できない。でもわしは嘘をついたことがない。それだけは信じてくれ』」
「続けて」とシナが言った。
「『魔王アスラムナは、番人だった。この世界の地脈——大地に流れる魔力の道——を管理する、生きた機構だ。地脈が詰まれば大地は腐る。地脈が暴走すれば世界は燃える。番人はその調整弁として、千年以上この世界の均衡を保ってきた』」
「地脈」とアシュが呟いた。
「師匠の言葉では、川みたいなもの。大地の中を魔力が流れている。番人はその流れを読んで、調整する。だから怪物を使役して人間に害をなすように見えたのは——過剰な魔力を消費させるためだった。暴走させないために、意図的に逃がしていた」
「それが……」
「勇者に倒された。番人がいなくなった。だから今、地脈が詰まっている」
しん、と静まった。
ひゅう、と風が石壁の隙間を鳴らして通り過ぎた。
「師匠は気づいてたの? 魔王が番人だって」とアシュが聞いた。声が少し硬い。
「途中で。でも言えなかった。カイン様に」
「なんで」
「カイン様は聞く人じゃなかった、って師匠は書いてた。英雄でいたかった。怪物を倒して世界を救う英雄の物語から、降りることができなかった」
アシュが「じゃあ勇者が悪者ってことになる?」と言った。
「師匠はそう思ってなかった。誰も悪意を持っていなかった、って。カイン様も、一緒にいた仲間たちも、みんな信じていた。でも」
「でも?」
「正しいと信じることと、正しいことは、違う場合がある」
しばらく誰も何も言わなかった。
「わたしのお母さんが」
シナの声は平坦だった。
「そう言ってた」
全員の目がシナに向いた。
「魔力は流れるものだって。流れが詰まると、世界が痛むって。お母さんはいつも、どこかが痛そうだった。でもわたしに教えてた。地脈の読み方を。少しだけ。いざという時のために、って」
「シナのお母さんは」
「魔王。アスラムナ」
焚火が弾けた。ぱちり。
アシュが「え」と言った。それだけだった。
「正しい話なの?」
「わたしのお母さんが魔王アスラムナで、わたしは半分だけ人間で、お母さんは死んで、わたしは追われてる。それがわたし」
平坦な声だった。でも、炎を見る目が揺れていた。揺れているのか、ただ炎が映っているのか、判断がつかなかった。
「呪いって言われるのは」とリラは聞いた。
「慣れた」
「慣れてほしくない」
シナがリラを見た。
「慣れないと生きていけない」
返す言葉がなかった。
ぱちぱち。炎が弾ける。煙が細く上がって、灰色の空に溶けていった。
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## 三 傭兵と泥と炎
翌朝。廃墟から半日の街道で、追っ手に追いつかれた。
馬蹄の音はかなり前から聞こえていた。ごとごとごとごと。砂埃が先に来て、それから五人の傭兵が現れた。馬が二頭。先頭の男は革鎧に剣を二本差していた。顎に古い傷、目が細くて動き方に無駄がない。後ろで待機している四人は、それぞれが微妙に違う方向を向いている。包囲の訓練をされている。
「旅芸人。止まれ」
止まった。
「子どもを出せ。白い耳の獣人の女子だ」
「どの子どもですか」
「とぼけるな。呪いの子だ。大人しく渡せば手荒なことはしない」
「その子に何をするつもりですか」
「依頼主に聞け。俺の仕事は引き渡すことだ」
ドラン、とバルカが言っていた傭兵だ。目の動き方が、仕事慣れしている。感情で動く人間じゃない。
「依頼主の名前を教えてください」
「教えない」
「どうして」
「依頼に含まれていないから」
職業的な答えだった。こういう人間は、逆に交渉が難しい。感情で動かないから、感情に訴えても意味がない。
リラは炎を出した。三つ。親指の爪ほど。
温度を上げる。上げる。上げる。
じりじりと砂が熱を持ち始めた。空気が歪んだ。
「生活魔法よ」とリラは言った。「戦闘魔法じゃない。でも砂を焼く温度にはできる」
傭兵の一人が半歩引いた。馬が首を振った。いなーん、と短く嘶く。
ドランは動かなかった。炎を見ている。それからリラの目を見た。
——そのとき、リラは奇妙なことを考えた。
もし今ここで戦闘魔法を使えば、この五人を止めることができるかもしれない。炎の圧縮、衝撃波への転換。三年前にガルドが死ぬ間際、うわごとのように呟いた術式を、リラは一度だけ試したことがある。茂みに向かって。誰も見ていないところで。
そのとき感じた感覚が、忘れられない。
恐ろしいほどの快感だった。
木が弾けて、枝が散って、何かが燃えた。そのあとリラは草の上に座り込んで、しばらく動けなかった。恐ろしかったからではない。もう一度やりたい、と思ったから。
だから二度と使わない、と決めた。
「退かないのか」とドランが言った。
「退いたら終わりだから」
「手が震えてるぞ」
「怖いんで」
ドランが舌打ちした。もう一度炎を見た。
「今回は退く。だが覚えとけ」
「ええ」
「次は——」
「次も今日と同じです」
ドランが少し間を置いた。表情が動かなかったが、目の奥で何かが動いた気がした。何かを考えた。それだけだ。
馬を返す。傭兵がぞろぞろと続く。ごとごとごとごと。砂埃が舞い、聞こえなくなった。
「すごい!」とアシュが叫んだ。
リラは炎を消した。両手が震えていた。後ろに回した。ドランには見えていたが、アシュとシナには見せたくなかった。
シナが荷台から顔を出した。
「怖かった?」
「すごく」
「…じゃ、わたしも怖くていい」
リラは笑った。久しぶりに笑った気がした。胸のあたりが、じわりとした。
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## 四 聖女の重さ
三日後。街道沿いの古い砦跡で、女に会った。
金の髪。白い法衣。細い杖を持ち、腰に聖印を提げている。四十代半ばに見えるが、絶対にもっと上だ。目の周りに細い線があるが、肌が若い。回復魔法で老化を遅らせる技術は聖教会の上層部だけが持つという話が、旅芸人の間に伝わっている。
「まあ」
女は微笑んだ。声が絹に似ている。
「旅芸人さん。その子と」
「こんにちは」
「こんにちは。あなた、ガルドのお弟子さんね。目元が似てる」
「知ってるんですか」
「昔の仲間だもの。ずいぶん前に別れたけれど。彼は途中で——」
「師匠は途中で止まったんじゃないです」
自分でも少し驚くくらい、はっきりした声が出た。
「最後まで考え続けた人でした」
女の表情が、わずかに揺れた。
「……そうね。そういう人だったわ。私よりずっと」
メリィ、と名乗った。
アシュが「聖女さまだ」とぼそりと言った。
シナは荷車の横でじっとメリィを見ていた。金色の目が動かない。何かを測るような目だ。子どもの目なのに、ずっと古い何かが入っている。
「お母さんを、殺した?」
声は平坦だった。静かで、震えていない。
メリィが固まった。砦跡の空気が、ひやりと冷えた。
「私は聖女だから、加護を与えるだけ。剣を振るったのはカインだから」
「加護がなければ届かなかった」
「……そうかもしれない」
「なぜ止めなかったの」
「止めようとした。信じてほしいわ」
「止められなかったのはなぜ」
メリィは視線を落とした。杖の先を砂に押しつけた。長い沈黙。
「あなたのお母さんはね、自分が殺されることを知っていた。それでも条件をつけた。子どもだけは生かしてくれ、と。カインはその条件を呑んだ。でも呑んだ後で——子どもも消そうとした。呪いが移ると言って」
「メリィさんは?」
「反対した。でもあの頃のカインは——」また言葉が止まった。「あの人は聞ける状態じゃなかった」
リラの胸がきりきりと痛んだ。
シナは動かなかった。
「今、何をしてるんですか」
「探していたの。あなたを守ろうとして。ちゃんと守ろうとして。あなたのお母さんに、約束したことがあるから」
シナは何も言わなかった。
ただ、メリィから一歩だけ後ろに下がった。
一歩。それ以上は後退しない。でも、それ以上も近づかない。
メリィはその一歩を見て、目を細めた。悲しみなのか、安堵なのか、リラには判断がつかなかった。両方かもしれない。
「一つ聞いてもいいですか」とリラは言った。
「何?」
「師匠のことを、今でも思いますか」
メリィは少し驚いた顔をした。それからゆっくり目を閉じて、また開けた。
「毎日。毎日よ」
嘘じゃない。声の質が変わっていた。
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## 五 英雄の後悔
カインが来たのは、翌日の昼前だった。
予告なし。馬に乗った護衛を六人連れ、街道に現れた。旗は小さい。ひけらかす気はないようだが、護衛の鎧がよく磨かれている。金がかかっている。
四十代。削れた岩のような顔。かつては美丈夫だったという話が嘘に見える。目に光がない。笑いを廃した目。英雄という称号を全身に縫い付けて生きているような人間だ。
元勇者。今は辺境の領主。カイン。
「ガルドの弟子か」
「そうです」
「読んだか。手紙を」
「読みました」
カインは馬から降りなかった。高い位置から見下ろしている。リラは首を上げた。
「あれはガルドの解釈だ。事実ではない」
「師匠は嘘をつかない人でした」
「解釈に嘘は要らない。見え方が違うだけだ」
「どう見えてたんですか、あなたには」
カインの目が少し動いた。
「世界に何百万の民が生きている。その命の総量と、番人一個体の命。天秤にかければ、答えは出る。それが統治者の仕事だ」
「その天秤が出した答えが、今の世界です」
「今も世界はある。人間は生きている。それで十分だ」
「十分じゃない人がいます。枯れた農地で飢えている人が、荒れた街に取り残された人が、茂みに隠れて追われていた子どもが」
「すべてを救う方法は存在しない。一部が死んでも全体が生きることを選ぶ。それが統治だ」
「この子は部分ですか」
リラは言った。後ろで、シナが息を呑む音がした。
「統計的に」
「この子に名前があります。シナといいます」
カインの視線がシナに動いた。
シナは荷車の横に立っていた。逃げていない。リラの後ろにも隠れていない。金色の目でカインを見ている。
カインが何かを言いかけた。口が開いて——止まった。
シナの目を見たまま、止まった。
何が起きたのかわからなかった。カインの表情が変わったわけじゃない。でも、一瞬だけ何かが崩れた気がした。水の表面が一瞬揺れて、また固まったような。
「……師匠がなぜ足を洗ったか、分かりますか」
リラは聞いた。
「勝手に退いた。臆病者だ」
「師匠の左手が爛れていたことを知っていますか」
カインが動いた。小さく、でも確かに動いた。
「戦いが終わった後に、自分でやったんです。一人で。手紙にそう書いてあった。なぜそうしたかは書いていなかった。でも師匠が嘘をつかない人だったことは知っています」
「……」
「カイン様は気づいていた、と師匠は書いていました。戦いの途中で、自分たちが何をしようとしているかに。でも止まれなかった。引き返せる場所がなかった、って」
「ガルドは——」
「師匠は、自分が止められなかったことを、最後まで後悔していました。あなたを止められなかったことを」
カインの顔が、ほんの一瞬だけ崩れた。
後悔か、怒りか、それ以外の何かか。水の底みたいな暗さ。師の目にそっくりだった。同じ場所を見ていた。二人とも、同じ暗い水の底を。
護衛が剣を抜いた。じゃきん、という音が砂に落ちた。
「カイン」
メリィが前に出た。砦の影から来ていた。
「やめて」
「余計なことをするな、メリィ」
「あなた、約束したでしょう」
「状況が変わった」
「変わっていない」
穏やかな声だった。でも揺れなかった。杖を砂につきながら、カインを見上げた。
「英雄でいたいなら、この子を生かすのが英雄のすること。消すのはただの臆病者がすること」
しん、と静まった。
カインの目が——もう一度シナを見た。
シナは動かなかった。金色の目でカインを見ている。逃げていない。怯えていない。ただ、見ている。
カインが口を開いた。
「……お前の母親は、苦しんでいたか」
誰も予想しなかった言葉だった。
シナは少し間を置いた。
「ずっと。でもわたしには笑って見せてた」
カインの目が、細くなった。また、崩れかけた。また、固まった。
「退け」
馬を返す。護衛が続く。砂がざあと舞った。馬蹄の音が遠ざかっていく。ごとごとごとごと。
「あの人、泣きそうだった」とシナが言った。
「……うん」
「なんで」
「分からない。でも、何かを持ってるんだと思う。あの人も。降ろせない何かを」
メリィが長い息をついた。目を閉じて、また開けた。
「あの人はね。知っていたのよ、最後には。ガルドが正しかったことを。でも認めれば、自分がしたことが何だったか向き合わないといけない」
「それができないから」
「英雄の物語を書き続けてる。誰も見ていない紙に。何度も書き直して、正当化して、また書いて」
「……かわいそう」とシナが言った。
「怒らないの?」とアシュが聞いた。
「怒ってる。でも、かわいそうでもある」
アシュが「むずかしい」と言って、膝を抱えた。
誰も笑わなかったが、空気が少し軽くなった。
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## 六 廃墟の礎
北に三日。
師の手紙に「白い煙が見えたら、そこへ向かえ」とだけ書いてあった。白い煙を見つけたのは、二日目の夕暮れだった。丘の向こう、枯れ木が並ぶ先に、細い煙が三本上がっていた。
廃墟の石造りの村。でも人がいた。
獣人が多い。縞模様の耳を持つ者、蹄のある者、角が折れた者。人間も少しいる。子どもの笑い声がする。石を積む音。ごとごとごとごとと、重い音が続いている。
門と呼べるかどうか分からない、崩れた石壁の前に立つと、老女が出てきた。
白い毛並みに灰色の縞。背中が丸まっている。でも目が鋭い。声が低くて、よく通る。杖をついているが、足の運びに迷いがない。顔には皺が深く刻まれているが、筋肉の形が分かる。腕。肩。
「誰だ」
「ガルドの弟子です。ジュラさんですか」
「そうだ。あの馬鹿、やっと頼んだか」
「頼んではいないと思うんですが」
「頼んでない。でも手紙はよこした。この子のことを」
ジュラはシナを見た。
長い沈黙。
ぎい、と木が軋む音がした。風もないのに。
「……耳の縞が、そっくりだな。アスラムナに」
シナの目が、ぴかりと光った。泣いていない。でも潤んでいる。
「お母さんを、知ってた?」
「知ってる。若い頃から知ってる」
「いつから」
「あいつが番人になる前から。まだ若くて、面倒な性格のくせに世話焼きで、自分の痛みを他人に悟らせない馬鹿な頃から」
シナが一歩前に進んだ。
「お母さんは、苦しんでた?」
「ずっとな。番人の仕事は、常に地脈の痛みを引き受けることだから。でもお前に見せなかっただろう」
「笑ってた」
「笑うやつだ。意地っ張りで。礼も言われないし理解もされないのに続けた。馬鹿みたいにな」
「それが偉かった、って言ってくれる?」
「お前が聞きたいんならそう言う。偉かった。本当に偉かったよ」
シナはしばらく動かなかった。廃墟の中で、炊煙がまっすぐ上がっていた。
それからゆっくり前に進んで、ジュラの手を握った。小さな手が、皺だらけの大きな手を包もうとしている。包みきれていない。でも、握っている。
ジュラは、その手を両手で包んだ。
ぎゅ、と。強く。
リラは見ていた。炎を出す気にはなれなかった。この薄暗い廃墟に、この温かさの方が似合っていた。
アシュが鼻をすすった。「目に砂が入った」と言った。
誰も指摘しなかった。
廃墟街の中を歩くと、人々の動きが見えた。
若い獣人の男が、石を積んでいた。ごとごと、と重い音がする。顔に古い傷がある。でも手が止まらない。リラが目を合わせると、少し頷いた。名前を聞く間もなく、また石を積み始めた。
女が二人、壁の修繕をしている。ぺたぺた、と泥を塗る音。指が器用に動く。子どもたちが走り回っている。笑い声。
全員が何かを持っている。傷か、欠けた部位か、それとも目の奥の暗さか。でも動いている。手が動いている。
それだけで、すごいことだ、と思った。
「ここ、いつからあるんですか」とリラはジュラに聞いた。
「三年前」
「魔王が死んでから」
「そうだ。行く場所がなくなった連中が集まってきた」
「ジュラさんが呼んだの?」
「来た奴を追い返さなかっただけだ」
「同じじゃないですか、それ」
ジュラは何も言わなかった。でも口の端が少し動いた気がした。
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## 七 種を蒔くということ
廃墟街に落ち着いて、三週間が過ぎた。
リラは毎晩、広場で歌った。炎を三つ浮かべて、笛を吹いた。種まきのうた。それ以外の曲を、リラはあまり知らない。師匠が教えてくれた最初の歌だから。
最初の三日は、獣人たちが遠巻きに見ていた。
四日目から、子どもが近くに来た。ルゥ、という名前の女の子で、シナと同じくらいの年だった。耳が虎の模様で、尻尾がふさふさしている。最初の日は三メートルほど離れたところで立って聞いていた。翌日は二メートル。その次は一メートル。
七日目に、ルゥがシナの隣に座った。何も言わずに。シナも何も言わなかった。二人で並んで炎を見ていた。
ぱちぱち。ぱちり。
七日目の夜、片耳のじいさんが笑った。
ジュラは一度だけ、広場の端に立って聞いていた。リラが気づいたとき、もう姿がなかった。代わりに翌朝の食事に干し肉が増えていた。
「俺も何か芸やりたい」とアシュが言い出したのは十日目だった。
「何ができるの?」
「ナイフ投げとか」
「やったことある?」
「ない」
「やってみて」
ナイフを三本渡した。的にしたのは木の幹。
一本目。ひゅん。的の左四十センチに刺さった。二本目。ひゅんひゅん。右の茂みの方に消えて、ぱきん、という音がした。何かが折れた。三本目。ひゅんっ。的の端に刺さった。
「一本刺さりましたよ」
「二本は惜しい」とジュラが遠くから言った。腕を組んで目が細い。いつの間にか見ていた。
「惜しいって言うなら教えてくださいよ!」
「教えない。自分でやれ」
「なんで!」
「弟子を取る気がないから」
アシュが「ちえー」と言って頭を掻いた。
シナが小さく笑った。
笑った。
口の端が上がって、目が少し細くなった。一瞬だった。でも確かにあった。
リラはそれを見て、少し驚いた。初めてだ。シナの顔がそういう形になるのを見たのは。
ぱちりと炎が弾けた。
テッサから手紙が来たのは、三週間目の夕方だった。
殴り書きのような文字。ベルタ・ラから、半月かけて届いた。
「旅芸人の火が街を温めた。人が戻ってきている。東の村で久しぶりに種を蒔いた農家がいると聞く。種まきのうたが聞こえたと言っていた。商人仲間によれば、三つの村でその歌が歌われている。なぜかは分からないが、伝わっている」
「なんで種まきの歌が広まるの?」とアシュが首を傾けた。
「分からない。でも師匠は言ってた。古い歌には地脈の記憶が入っている、って。生活魔法で歌うと、その記憶が少し呼び起こされるかもしれないって」
「大地が思い出すってこと?」
「そういうことかもしれない。師匠はちゃんと説明してくれなかったから、よく分からないけど」
アシュがそれ以上聞かなかった。
シナが外から入ってきた。手に土がついている。
「リラ」
「なに」
「ジュラが、地脈の読み方を教えてくれてる。今日、少しだけ感じた。地面の奥で何かが動いてた」
「本当に?」
「弱い。すごく弱い。でも動いてた。詰まってるところと、少し流れてるところがある」
「どこが流れてた?」
シナは少し考えてから、外を指差した。广場の方角だった。
毎晩歌っている場所だ。
リラは少し黙った。
「ジュラは何て言ってた?」
「そういうもんだ、って言った」
「……そういうもんか」
シナは自分の寝床に潜り込んだ。
リラは消えかけた炎を少し大きくして、師の魔導書を開いた。
「リラ」
「なに」
「唄、聞かせて」
「今夜は疲れてる」
「明日でいい」
「明日ね」
シナはそれきり黙った。
ぱちぱち。炎が弾ける。魔導書のページを、師の字がびっしりと埋めている。大地の魔力の流れ。番人の役割。次の継承者が現れたとき、何が起きるか。どうすればいいか。
全部、自分のためじゃない。次の誰かのために書いた。
リラはページをめくった。
窓の外。星が見えた。
灰色の空の端に、ほんのわずかな青が混じっていた。気のせいかもしれない。でも昨日よりも少し、青い気がした。
気のせいじゃないといいな、と思った。
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## 終章 灰の中の火種
ジュラはシナに、毎朝一刻だけ教えていた。
廃墟の庭で、二人が向き合っている。小さな手と皺の手。
「焦るな」
「焦ってない」
「焦ってる」
「……焦ってるかもしれない」
ジュラは短い杖で地面を叩いた。こん、という乾いた音。
「番人の力は急いで育てるもんじゃない。大地が千年かけて積んだものを、一朝一夕でどうにかしようと思うな」
「千年かかるの」
「お前じゃなくていい」
「え?」
「お前が始めればいい。次の誰かが続ける。そのまた次が続ける。そういうもんだ。番人というのは一人の仕事じゃない。連鎖の一つだ」
シナはしばらく黙った。庭の枯れ草が、ひゅうと風に揺れた。
「……お母さんも、そう思ってたのかな」
「そうじゃなきゃ、あんなに長くやれない」
「なんか、ちょっと楽になった」
「楽になるな。そこから始まるんだ」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、ならいい」
ジュラが珍しく、口の端を曲げた。笑い、と言えるかどうか分からない。でも、それに近いものだった。
世界はまだ枯れている。
カインは今も城で、英雄の物語を書き直している。テッサの手紙によれば、誰も見ていない紙に、夜中に一人で書いているらしい。何度も書き直しているらしい。本人が捨てようとするたびに、侍女が拾い集めているという話も聞いた。
メリィはどこかの街で、回復魔法を使い続けている。旅人が増えた街で、老人が増えた村で。頼まれれば断らない。
ドランは依頼主を変えた。今は別の何かを探している。依頼主の名前は分からない。でも、バルカから又聞きした話では——依頼主は東の方にいるらしい。東。地図の端の方。リラが行ったことのない方角。
バルカの宿には、旅人が戻り始めた。アシュの置き手紙を読んで、「当分帰ってくるな」と返事が来た。心配している。そういう文章だ。
テッサは今も東西の情報を集めている。「集めてる。きっと意味がある」と書いてきた。
廃墟街の若い獣人の男——後でイスキという名前だと知った——が、今日も石を積んでいる。ごとごと、ごとごと。まだ終わらない。でも壁が少しずつ高くなっている。
リラは今夜も広場で歌う。
炎を三つ、宙に上げる。くるくると回す。ぱちりぱちりと光が散る。
種まきのうた。師から教わった、最初の歌。
誰かが聞いている。それでいい。
これだけが、今のリラにできることだから。
番人は世界を一人で守っていた。リラは炎を三つ浮かべるだけだ。でも炎がなければ、人は温まれない。種まきのうたがなければ、誰かが種を蒔こうとは思わない。
それで十分かどうか、分からない。師の計算では、地脈の回復には何十年もかかる。シナが番人の力を継承できたとしても、さらに何十年。リラはその先まで生きているか分からない。
でも今夜は歌う。
ざり、と砂が鳴った。
振り返ると、シナが広場の端に立っていた。荷車の影じゃない。広場の中に。ジュラに手を引かれて、半歩だけ前に出ている。隣にルゥがいた。虎模様の耳を立てて、炎を見ている。
シナの金色の目がリラを見た。
「唄って」と、口が動いた。
「ここで聞くの?」
「ここで聞く」
初めてだ。広場で聞くのは。
風が来た。ひゅうと鳴って、灰色の空を流れていく。
炎が揺れた。
リラは唄い始めた。種まきのうた。師から教わった、最初の歌。
ぱちり。ぱちぱち。
光が広場を流れていく。
足の裏で、何かを感じた気がした。かすかに。砂の下から、微かに温かいものが上がってくるような。気のせいかもしれない。でも感じた。
灰色の空の端に、ほんのわずかな青が混じっていた。
昨日より、少しだけ青い。
炎が三つ、揺れた。
ぱちぱち。ぱちり。
光が、散った。
*地脈の流れが戻るまで、あと何年かかるか分からない。でも、始まっていた。*




