第9話 雨の駅で
いつも読んでいただきありがとうございます。
夕方。
空は重く曇っていた。
ぽつり、と一滴。
それが落ちた瞬間、すぐに雨は強くなる。
ザーッという音が、街を包む。
樹梨は駅の屋根の下に立っていた。
傘はない。
予報は見ていなかった。
(……どうしよう)
濡れるしかないか、と思ったとき。
「使う?」
声がした。
すぐ隣。
反射的に顔を上げる。
悠斗だった。
傘を差し出している。
その瞬間。
時間が止まる。
雨の音が遠くなる。
見たことのある光景。
同じ距離。
同じ角度。
同じ声。
「……あ」
息が漏れる。
頭の奥に、強く何かが引っかかる。
雨。
駅。
傘。
「……あの時の…」
小さく呟く。
悠斗は少しだけ笑う。
「やっと思い出した?」
その言葉で、すべてが繋がる。
――数年前。
同じような雨の日。
傘を持っていなかったのは、あの時は悠斗だった。
隣に立っていた少女。
静かに傘を差し出した。
「使います?」
あの時の声。
あの時の自分。
「……私…」
樹梨の手が、少し震える。
思い出した。
全部。
でも、それ以上に――
「なんで…」
言葉が出る。
「なんで覚えてるんですか」
あんな一瞬。
何でもない出来事。
忘れていてもおかしくない。
悠斗は少しだけ空を見る。
雨が傘を叩く音。
そして、ゆっくり言う。
「忘れたことないから」
静かな声。
でも、まっすぐ。
樹梨は何も言えない。
言葉が見つからない。
悠斗は続ける。
「あの時、一目惚れした」
はっきりと。
逃げずに言う。
空気が止まる。
雨の音だけが響く。
「……え」
信じられない。
そんな表情。
でも、嘘じゃないと分かる。
悠斗の目は、ずっと変わらないから。
「だからさ」
少しだけ近づく。
距離が縮まる。
「最初から決まってた」
その言葉。
今までの全部が繋がる。
樹梨の胸が強く鳴る。
(なんで…)
(そんなの…)
何もしていない。
何も頑張っていない。
話し掛けてもない。
なのに――
「……なんで私なんですか」
やっと出た言葉。
震えている。
悠斗は少しだけ笑う。
困ったように。
でも、優しく。
「分からない」
正直に言う。
「気づいたらそうだった」
それが答え。
理屈じゃない。
樹梨は目を伏せる。
雨の音が戻ってくる。
現実が追いついてくる。
(私なんかでいいの?)
言いかけて、止まる。
それを言ったら、全部壊れる気がした。
代わりに出たのは――
「……私、何もしてないです」
本音だった。
悠斗はすぐに答える。
「それでいい」
迷いなく。
「何もしなくていい」
「そのままでいい」
静かに言う。
押し付けない。
でも、逃がさない。
樹梨の目が揺れる。
「でも…」
言葉が続かない。
怖い。
受け取るのが怖い。
そのとき。
悠斗が少しだけ笑う。
「むしろ、何もしなかったから好きなんだと思う」
その一言。
すべてを肯定する言葉。
樹梨の中で、何かがほどける。
張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
気づけば、少しだけ笑っていた。
ほんの少し。
でも、確かに。
悠斗はそれを見て、安心したように息を吐く。
「……やっと見れた」
小さく呟く。
「え?」
「いや、なんでもない」
ごまかす。
でも、その目は優しい。
電車がホームに入ってくる。
風が吹く。
雨の匂いが広がる。
「行くか」
悠斗が言う。
樹梨はうなずく。
2人で乗り込む。
同じ傘の下で。
雨はまだ、止まない。
でももう、あの時とは違う。
次でラストになります、よろしくお願い致します。




