第4話 触れない優しさ
続けて読んでいただきありがとうございます。
夜のオフィスは、昼とはまるで別の場所みたいだった。
人が減って、
音が少しだけやわらぐ、
光は強まる、
カタ、カタ、カタ。
キーボードの音だけが響いている。
樹梨は1人、席に残っていた。
机の上には資料の山。
今日の分だけじゃない。
いつの間にか増えていたものも含まれている。
(終わらせないと)
それだけを考えて、手を動かす。
時計を見る。
21時を過ぎていた。
少しだけ肩を回す。
重い。
でも、やめない。
やめる理由もない。
そのとき。
「まだやってたの?」
声がした。
樹梨は少し驚いて振り向く。
悠斗だった。
「……はい」
短く答える。
悠斗はゆっくり近づいてくる。
机の上を見る。
資料の量に、少しだけ眉が動く。
「これ、全部今日の?」
「……はい」
「1人で?」
小さくうなずく。
少しの沈黙。
樹梨は視線を落とす。
「私が遅いだけなので…」
その言葉に、悠斗は何も返さない。
ただ、しばらく資料を見ていた。
そして――
隣の椅子が動く音。
「半分やる」
樹梨は顔を上げる。
「え?」
「いいから」
悠斗はもうパソコンを開いている。
「でも…」
「終わらせたいんだろ」
淡々とした声。
押し付けるわけでもなく、
優しさを強調するわけでもない。
ただ、そこにいる。
樹梨は少しだけ迷ってから、小さくうなずく。
「……ありがとうございます」
それ以上は言わない。
言えない。
2人で作業を始める。
カタ、カタ、カタ。
同じリズムの音が、夜の中に重なる。
さっきまでの静けさとは違う。
でも、嫌じゃない。
むしろ少しだけ――落ち着く。
しばらくして。
悠斗がぽつりと話す。
「樹梨さ」
手は止めないまま。
「はい?」
「なんで何も言わないの?」
樹梨の指が止まる。
「……え?」
「仕事」
短い言葉。
でも、意味は分かる。
「押し付けられてるの、分かるだろ」
責める声じゃない。
ただ、静かに事実を言っているだけ。
樹梨は目を伏せる。
「別に…」
少しだけ考えてから、言葉を探す。
「大丈夫なので」
「大丈夫じゃないだろ」
すぐに返ってくる。
樹梨は少しだけ困ったように笑う。
「迷惑かけたくないので」
その言葉に、悠斗は小さく息を吐く。
そして、少しだけ間を置いて言う。
「そういうところ」
「え?」
樹梨が顔を上げる。
悠斗は画面を見たまま、続ける。
「昔から変わってないな」
一瞬、時間が止まる。
「……昔?」
樹梨の声が少しだけ揺れる。
悠斗は少しだけ笑う。
でも、それ以上は言わない。
「いや、気にすんな」
それで終わらせる。
それ以上踏み込まない。
それが、悠斗の距離だった。
樹梨はしばらくその言葉を考える。
(昔って…?)
思い出せない。
でも――
なぜか、引っかかる。
作業は思ったより早く終わった。
「終わったな」
悠斗が伸びをする。
「……はい」
「ありがとうございます」
樹梨も小さく息を吐く。
肩の力が抜ける。
「帰るか」
自然な一言。
2人で立ち上がる。
オフィスの電気を消して、外に出る。
夜の空気が少し冷たい。
並んで歩く。
会話はない。
でも、不思議と気まずくない。
エレベーターの中。
静かな空間。
樹梨はふと、横を見る。
悠斗がいる。
同じ空間にいる。
それだけで、少しだけ現実感が薄くなる。
(なんで…)
(こんなに普通に隣にいるんだろう)
答えは出ない。
エレベーターが止まる。
ドアが開く。
外に出る。
さらに冷え込む、
「じゃあ」
悠斗が言う。
「お疲れ」
「……お疲れ様です」
短いやり取り。
でも――
少しだけ、何かが変わっていた。
その少し後。
オフィスの窓の向こう。
まだ電気のついているフロアから下を見る影があった。
美咲だった。
無言で立っている。
視線は下にに向いたまま。
ゆっくりと目を細める。
「……そっか」
小さく呟く。
その表情から、笑みは消えていた。
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