第3話 見えない線
3話もよろしくお願い致します。
朝のオフィスは、まだ空気が固い。
誰もが仕事モードに入る前の、静かな時間。
樹梨はいつも通り、早めに席についていた。
パソコンを立ち上げ、メールを確認する。
それだけ。
余計なことはしない。
目立つこともしない。
それが1番、楽だった。
「おはよー」
少し遅れて、人が増えていく。
沙耶の明るい声。
梨奈の軽い挨拶。
美咲の落ち着いたトーン。
いつもの空気が、少しずつ出来上がっていく。
「昨日さ、楽しかったよね」
沙耶が笑いながら言う。
「ねー、悠斗も来ればよかったのに」
梨奈が少し拗ねた声を出す。
「誘ったんだけどね」
美咲が自然に会話に入る。
「相変わらずだよ、あいつ」
3人の会話の中に、悠斗の名前が出る。
その中心には、当然のように彼がいる。
樹梨は画面を見たまま、キーボードを打つ。
カタ、カタ、カタ。
会話は聞こえている。
でも、関係ない。
(いつものこと)
私には関係無いと思う。
午前中。
小さな会議。
「じゃあ、この件だけど」
上司の声。
資料が配られる。
「この部分、誰かできる?」
一瞬の沈黙。
視線が少しだけ動く。
そして――
「樹梨、できる?」
軽い調子で言われる。
断る理由はない。
「…はい」
短く答える。
「助かるー」
誰かが言う。
でも、それ以上は何もない。
役割だけが決まる。
会議が終わった後。
「樹梨ってさ」
小さな声。
背後から聞こえる。
「なんでも引き受けるよね」
「断らないっていうか」
「楽だよね、ああいう子」
笑い声はない。
ただ、軽い調子。
でも、しっかり届く。
樹梨は振り向かない。
何も聞いていないふりをする。
(別にいい)
(その方が楽だから)
自分に言い聞かせる。
昼休み。
今日は席が空いていなかった。
自然と、少し離れた場所になる。
一1人で食べる。
それが普通。いつもの事。
でも今日は、少し違った。
遠くの席。
楽しそうな笑い声。
悠斗がいる。
その周りに、いつもの3人。
沙耶が話す。
梨奈が笑う。
美咲がそれを見ている。
完成された空気。
樹梨は視線を落とす。
(あの中には、入れない)
入りたくない。
そう思っているのに。
少しだけ、胸がざわつく。
午後。
資料をまとめる。
1人でやるには、少し多い量。
でも問題はない。
黙ってやれば終わる。
そのはずだった。
「これもお願いできる?」
追加の資料。
「…はい」
受け取る。
断らない。
断れない。
「助かるー」
また同じ言葉。
でも今度は、少しだけ重く感じた。
夕方。
少し疲れた手を止める。
ふと顔を上げると――
目が合う。
悠斗だった。
「…」
一瞬だけ、時間が止まる。
悠斗は少しだけ眉をひそめる。
机の上を見る。
積まれた資料。
(多いな…)
そう思う。
でも、すぐには何も言わない。
そのとき。
「悠斗ー!」
呼ばれる。
梨奈だった。
「これ見てほしいんですけど」
悠斗は少しだけ迷う。
視線が一瞬、樹梨に戻る。
でも――
「今行く」
そう答える。
そのまま、離れていく。
樹梨はまた画面に目を戻す。
(ほら)
(やっぱりそうだよね)
期待なんてしてない。
していないはずなのに。
どこかで少しだけ、違う何かを考えていた自分に気づく。
小さく息を吐く。
また、キーボードを打つ。
カタ、カタ、カタ。
その少し後。
美咲が静かにその様子を見ていた。
何も言わない。
ただ、視線だけを向ける。
樹梨へ。
そして、悠斗へ。
ゆっくりと目を細める。
「……そっか」
小さく呟く。
その声は誰にも届かない。
でも確かに、何かが始まっていた。
3話読んでいただきありがとうございます。
これからもよろしくお願い致します。




