静かな痕跡 ―特攻隊員が八十年後の日本で知った理由―
あらすじ
昭和二十年八月十四日。特攻隊員・青木勝一はB29迎撃中に撃墜される。
しかし彼が目を覚ましたのは、八十年後の日本だった。
政府に拘束され、研究対象として扱われる青木。
やがて彼は、自分のひ孫と出会い、認知症の娘・幸子の人生を知る。
その中で知った一つの事実。
――二歳の幸子は、戦後の赤痢で死にかけていた。
なぜ自分は未来に来たのか。
青木は一つの答えに辿り着く。
「父親として、娘に薬を渡すためだ」
これは歴史を変えないために、過去へ戻る男の物語。
第一章 特攻命令
私は昭和二十年の特攻隊員だった。
だが気がつくと、八十年後の日本に立っていた。
木造の兵舎に、朝日が差し込んでいた。
薄い板の隙間から射す光が、床に細い線を引いている。
粗末な布団が並び、人の形を残したまま、静かに波打っていた。
「今日は晴れそうだな」
誰かが言った。
天気の話ではなかった。
今日が、まだ存在していることを確かめるような言葉だった。
返事は曖昧な相槌だった。
私は起き上がり、黙って飛行服に袖を通した。
布の重みが、体に戻ってくる。
この重さを知っている、という感覚だけが残った。
「青木、お前は新婚だったな」
突然、名を呼ばれた。
同郷の佐藤だった。
笑ってはいたが、その笑いは表情だけのものだった。
「羨ましいよ。俺は、帰っても迎える奴がいない」
私は何も言えず、ただ首を振った。
羨ましい、という言葉の意味が、もう互いに違っていることだけは分かった。
「帰ったら、何がしたい?」
別の声が重なる。
冗談の形をしていたが、誰も笑わなかった。
「俺は酒だな」
「ゆっくり風呂に入りたいな」
「俺は腹一杯、米を食いたい」
皆、言葉は軽かった。
だが、その軽さが、ここでは重かった。
私は黙っていた。
「帰ったら」という言葉が、どうしても口に出なかった。
帰る、という言葉が、自分にはもう適用されない。
廊下で足音がした。
全員が条件反射のように背筋を伸ばす。
隊長だった。
私たちを見渡すその目に、叱咤も激励もなかった。
ただ、書類を読む前の、事務的な落ち着きだけがあった。
「本日、夜半。敵爆撃機編隊に対し、特攻攻撃を行う」
それだけだった。
英雄的な言葉はない。
皇国のため、という決まり文句もない。
隊長は敬礼した。
私たちも返した。
その動作の中で、私ははっきりと感じた。
人としての終わりではなく、兵としての最後の作業。
すでに感情は、切り離されている。
私は知っていた。
この出撃が、妻の人生にどんな影を落とすかを。
それでも、飛ぶ理由を、私は説明できなかった。
説明できないことを、国家は「任務」と呼ぶ。
個人の沈黙の上に、命令は成立する。
外で風が吹いた。
プロペラカバーが、かすかに鳴った。
今夜、出撃する。
その事実だけが、夜よりも濃く、兵舎を満たしていた。
第二章 夜半出撃
夕食は配られた。
箸をつけたが、味は分からなかった。
噛んでいる感覚だけが、口に残る。
飲み込むたびに、自分がまだ生きていることだけが分かった。
誰かの箸が、皿に当たって乾いた音を立てた。
その音に、数人の肩がわずかに揺れた。
笑う者はいない。
冗談も出ない。
食堂には、噛む音と、息を吸う音だけが残っていた。
食事の後、机に向かった。
遺書を書くためだった。
白い紙を前に、万年筆を握る。
指先が、わずかに震えているのが分かった。
書き、消し、また書いた。
文子の名。
生まれてくる子のこと。
隣の机では、誰かが紙を丸め、静かに破った。
どの行も、途中で止まった。
八月十四日、二十二時。
敵爆撃機編隊、本土接近の報が入る。
兵舎の空気が、一段、硬くなった。
誰かが立ち上がり、誰かが帽子を被り直す。
靴紐を結び直す者。
何度も時計を見る者。
手を洗いに行き、戻ってこない者もいた。
私たちは滑走路へ向かった。
露を含んだ地面が、靴底に柔らかく沈む。
足音が、不揃いに重なる。
隣を歩く佐藤は、何度も喉を鳴らしていた。
暗闇の中で、彼の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
隣の機体が、無言で動き出す。
整備兵の合図。
プロペラが回る。
その風圧に、誰かの帽子が飛ばされた。
拾おうとする手が、一瞬、止まる。
――もう、いい。
そう言うように、そのまま機体に乗り込んだ。
操縦席の顔に向かって、互いに視線を交わす。
唇が、何かを言いかけて閉じられる。
言葉を交わせば、何かが壊れる気がしていた。
それは、勇気か、覚悟か、区別のつかないものだった。
離陸。
機体が浮き、地面が遠ざかる。
滑走路の灯が、線になって後ろへ流れる。
帰還を前提にしない操縦。
燃料も、高度も、帰りを計算しない。
誰も、それを口にしない。
知っているからだ。
夜空に吸い込まれていく。
下を見れば、もう戻れない高さだった。
第三章 迎撃
高度三〇〇〇メートル。
敵爆撃機は当初、高度一万メートルから攻撃を仕掛けてきた。
しかし、度重なる攻撃で迎撃が減少すると、彼らは高度を下げ、執拗な攻撃に転じてきた。
月光を背に、影が見えた。
黒く、鈍重で、異様な数。
B二九の編隊。
空を支配する存在だった。
私は操縦桿を握り直した。
革の感触が、汗でわずかに滑る。
前方の闇に、影が重なっている。
間違いない、B二九だ。
照準器に顔を近づける。
上空から一気に攻撃する。
次の瞬間、反撃が始まった。
空の要塞が牙を剥く。
全方位からの機銃掃射。
無数の閃光弾が交差し、視界は網のような弾幕に覆われる。
機体が激しく揺れ、衝撃が背中を叩きつけた。
それでも操縦桿を引き、機体をひねる。
――撃墜覚悟。
一瞬、私はB二九の真下にいた。
巨大な腹部が夜空を塞ぎ、無数の銃口がこちらを向いているのが見えた。
だが、相手は鈍重なだけではなかった。
右翼に、強い衝撃。
白煙が、視界の端に広がる。
被弾。
燃料タンクだと悟った。
炎上は免れたが、機体は明らかにバランスを失っていた。
無線に叫ぶ声が、自分のものとは思えない。
その瞬間、文子の顔が浮かんだ。
まだ見ぬ子の名。
女なら、幸子。
男なら、幸男。
考えは、そこで途切れた。
機体が大きく傾き、高度を失い始める。
機体は悲鳴を上げて急降下する。
地上に激突する。
回避は不可能だった。
体当たりすら、叶わない。
そのとき、前方に光が現れた。
均質で、完全な光。
巨大な球体。
沈黙した存在。
零戦は、迷うことなく、そこへ向かっていた。
第四章 光の球体
機体が、わずかに跳ねた。
衝撃というほどではない。
だが、操縦桿を握る手に、確かな違和感が走った。
高度計を見る。
針は止まっている。
速度計も、同じ位置を保っていた。
それでも、進んでいる感覚があった。
夜空が歪む。
空と機体の境界が、溶けていく。
音が遠のく。
消えたわけではない。
響きだけが、別の場所へ移った。
身体が軽くなる。
落下している感覚が消え、自分の輪郭が、ほどけていく。
色だったはずのものが色でなくなり、形だったはずのものが、形を保てない。
恐怖なのか、感嘆なのか、判断する前に感情が引き裂かれる。
眼前の景色は、兆速で書き換えられていく。
星、空間、時間――
意味を持つ前に、次の像へと崩れ落ちる。
視覚が追いつかず、思考が置き去りにされる。
自分が進んでいるのか、世界が流れているのかも分からない。
ただ、存在だけが引き延ばされ、無数の層を通過している感覚が残る。
やがて、視界の中央に、輪郭だけの何かが現れた。
それは光でも闇でもない。
だが、そこから先があると、本能が告げている。
輪郭はゆっくりと輝きを帯び、世界の奔流の向こうに、出口の光が見え始めた。
光そのものではない。
だが、確かに「そこ」にある。
近づいているのか、離れているのか、分からない。
距離という感覚が、意味を失っていた。
私は操縦桿を握ったまま、抵抗するのをやめた。
第五章 不審機
白。
いや、白という言葉では足りない。
光そのものが、操縦席を満たしていた。
衝撃はない。
ただ、世界が切り替わった。
次の瞬間、私の視界は開けていた。
眼下に広がる、巨大な平面。
規則正しく並ぶ灯火。
見たこともない建物の群れ。
――基地か。
異様なほど整った飛行場だった。
敵味方の区別はつかない。
だが、ここが着陸可能な場所であることだけは、直感で理解できた。
私は、操縦桿を静かに引いた。
一方、管制塔では。
「……一次レーダーに反応あり」
声を上げたのは、経験十年の管制官だった。
表示された光点は、確かに存在している。
だが――。
「二次レーダー、沈黙」
「トランスポンダー応答なし」
「高度、三千フィート前後。速度……異常に低いです」
数値を口にした瞬間、管制室の空気が張りつめた。
民間機ではない。
だが、ドローンにしては大きすぎる。
「目視、どうだ」
「……確認でき……」
滑走路上空にあるのは、飛行機とも、雲ともつかない発光体だった。
輪郭が定まらない。
光が揺らぎ、滲み、形を拒む。
「呼びかけ、継続。未確認飛行物体として扱う。各省に報告」
管制塔の責任者は、声を低く保ったまま指示を出した。
この段階で「テロ」という言葉は、まだ使わない。
使った瞬間、対応レベルが跳ね上がる。
緊急回線が開かれた。
警視庁警備部。
航空自衛隊、スクランブル待機。
「旋回しています……発光体は、滑走路を確認しているようです」
操縦席の中で、私は計器を確認した。
異常はない。
エンジンも、応答している。
ただ、外の景色だけが異様だった。
見たことのない灯火。
見たことのない建物。
だが、敵意は感じない。
私は決断した。
脚を下ろす。
「……脚、出ました」
その一言で、管制室の判断は一つにまとまった。
「着陸意思あり。滑走路二本、即時クローズ」
空港は、もはや民間施設ではない。
重要防護施設として扱われる。
発光体が、降下する。
接地――。
その瞬間、光が、霧が晴れるように消えた。
「……発光体、確認」
誰かが、息を呑んだ。
低翼。プロペラ。鋭く伸びた主翼。
「……零式艦上戦闘機?」
あり得ない言葉が、管制室に落ちる。
着陸は、静かだった。
反跳も、蛇行もない。
「警視庁、不審機確保開始」
無線と同時に、警察車両が一斉に動く。
小銃を携行した警備部隊。
テロ対処部隊の初動要員。
須藤課長は、指揮車の脇に立っていた。
目の前の機体を見て、思わず呟く。
「……古すぎる」
展示物にしては、生々しい。
補修の跡。
剥げた塗装。
だが、確かに“飛んできた”。
「操縦者に告げる。エンジン停止。両手を上げて、ゆっくり降りろ」
応答はない。
操縦席の中で、私は外を見た。
銃を構えた者たち。
見たことのない制服。
――敵地か。
考えるより早く、身体が反応した。
私は小銃を抜き、こめかみに当てる。
捕虜になることだけは、許されない。
その瞬間、キャノピーが乱暴にこじ開けられた。
視界いっぱいに、複数の銃口が突きつけられる。
次の瞬間、数人が一斉に飛びかかり、
小銃を握る腕を叩き落とされた。
――ここまでか。
無益な抵抗は、軍人の戦いではない。
私は自らの足で、ゆっくりと機体を降りた。
背筋が、自然と伸びる。
敗れてなお崩れぬ姿勢。
それが、身体に染みついた癖だった。
右手が額へと上がる。
「木更津飛行隊。青木勝一。上等飛行兵曹であります」
数秒間、世界が凍りついた。
「……コスプレ、じゃないよな」
次の瞬間――
「確保!」
怒号が飛び、私は地面に組み伏せられた。
両腕をねじ上げられ、手錠がはめられる。
冷たい金属の感触だけが、やけに鮮明だった。
須藤課長は、その一部始終を見ていた。
あの敬礼。
あの角度。
あの速さ。
訓練で身につくものだ。
須藤は、自分が無意識に敬礼を返しかけていたことに気づき、右手を強く握りしめた。
答えは、まだ出ない。
だが、一つだけ確信していた。
これは、テロではない。
そして――ただの事件でもない。
第六章 取調室
取調室の机は、木ではなかった。
灰色の金属。
角は丸められ、床には継ぎ目のない素材が敷かれている。
窓はない。
照明は白く、影を作らない。
私は、椅子に座らされていた。
手錠は外されたが、両脇に立つ警察官の距離は、詰められたままだ。
「氏名は」
正面の男が言う。
スーツ姿。
階級章はない。
警察官だが、現場の者ではない。
「青木勝一であります」
「年齢は」
「二十二歳であります」
空気が、わずかに揺れた。
「生年月日は」
「大正十三年五月五日生まれであります」
「であります、はいらない」
男は、ペンを止めて言った。
そして、隣に置かれたタブレットを一度、確認する。
「所属部隊は」
「海軍航空隊。木更津飛行隊です」
「最後の任務日は」
私は、自然に口を開いた。
「昭和二十年八月十四日です」
言い終えた瞬間、男の背後に立つもう一人が、わずかに身を乗り出した。
「任務は?」
「本土防衛のための迎撃です」
「敵機は」
「B二九爆撃機です」
沈黙。
男は、深く息を吐いた。
男は、黙って席を立った。
ドアが開く。
入れ替わるように、須藤課長が入ってきた。
警察官たちが、無言で下がる。
須藤は、私の正面に座らなかった。
少し斜め。
真正面に向き合わない位置。
「……青木さん」
低い声だった。
「あなたの飛行機は、現在、格納庫で管理されています」
私は、うなずく。
「二十ミリ機関砲の弾倉は空でした。七・七ミリ機銃も」
私はうなずく。
「ですが、問題はそこではありません」
須藤は、私の目を見た。
「あなたが、ゼロ戦の操縦を完全に理解していることです」
私は、答えなかった。
理解するも何も、それが仕事だった。
須藤は、淡々と続ける。
「すべて、教科書通り。いや専門家によると――教官より正確らしい」
彼は、一度、言葉を切った。
「あなたは、誰に操縦を習ったのですか。どこで」
私は、初めて苛立ちを覚えた。
「質問の意味が、わかりません」
須藤の目が、細くなる。
「――では、聞き方を変えます」
彼は、ゆっくりと告げた。
「あなたは、なぜ、我々に向かって敬礼をしたのですか」
私は、少し考えた。
考えてから、答えた。
「そこに、制服を着た者がいたからです」
須藤は、視線を落とした。
「……そうか」
小さな声だった。
その時、取調室の外で、短くノックが鳴った。
ドアが開き、若い警察官が顔を出す。
「課長。防衛省から、至急です」
須藤の表情が、一瞬で変わった。
それは、警察官のものではなかった。
彼は立ち上がり、私を振り返る。
「青木さん」
「はい」
「あなたは――しばらく、ここから出られません」
それは、脅しではなかった。
事実だった。
須藤が出て行くと、ドアが閉まる。
私は、天井を見上げた。
私は、まだ、戦争が終わったとは思っていなかった。
第七章 空白の三日間
その夜の移送だった。
明らかに空港で拘束した男たちと違う。
重装備の男たち、車両の窓は小さく、外はほとんど見えない。
舗装路の振動だけが、途切れなく伝わってくる。
山に入ったことは、空気の冷えと匂いで分かった。
行軍中に覚えた感覚だ。
扉が開き、私は無言のまま降ろされた。
隔離室は、清潔すぎた。
白い壁。
角のない机。
簡素なベッド。
開かない窓。
警察の建物とも、憲兵隊の留置場とも違う。
威圧も、恫喝もない。
秩序だけが、無言で置かれている。
――妙だ。
だが、私は表情を変えなかった。
驚きを顔に出すのは、素人のすることだ。
ここは警視庁の取調室ではない。
人を屈服させるための場所でもない。
私は、胸の内で歯を食いしばった。
この状況なら――
本来なら、選ぶべきは一つだ。
捕らえられ、隔離され、命を握られた時点で、取る道は、決まっている。
だが、この部屋には、死に場所がなかった。
刃物もない。
紐になるものもない。
壁も、角がない。
用意されていない自決は、覚悟ではなく、醜態になる。
――まだだ。
私は、そう判断した。
戦うためではない。
生き延びるためでもない。
「事実を、見極める」ためだ。
それから三日間、私は放置された。
一日目。
何も起きないことが、最初は理解できなかった。
取調も、命令も、尋問もない。
食事は決まった時間に無言で差し込まれ、器が下げられる。
私は無意識に背筋を伸ばし、次の指示を待った。
――次があるはずだ。
軍において「待て」は、必ず次の行動と対になっている。
だが、いくら待っても、その「次」は来なかった。
私は、ここが敵地である可能性を計算した。
捕虜としての扱い。
尋問前の隔離。
処刑前の静けさ。
どれも、経験則には当てはまらない。
敵は、私に何も求めていない。
その事実が、じわじわと胸を圧迫した。
自決すべきか。
それは、思考ではなく反射として浮かんだ。
捕らえられ、武装を解かれ、身動きが取れない状況。
本来なら、迷う余地はない。
だが――この部屋には、死に至る道具がなかった。
用意されていない自決は、覚悟ではなく、失敗だ。
私は、それを知っていた。
そして、まだ「ここで死ぬ理由」が見つからなかった。
二日目。
静寂は、形を変えた。
命令を待つ緊張が薄れ、代わりに、別のものが入り込んできた。
文子の後ろ姿。
縁側で、黙って針を動かす手。
畳の匂い。
朝の味噌汁の湯気。
戦地では、思い出は厳しく管理される。
生き残るためには、不要だからだ。
だが、この部屋では、誰もそれを止めなかった。
私は、計算した。
八月十四日。
文子は、すでに身重だった可能性が高い。
生まれていれば、
女なら、幸子。
男なら、幸男。
名前だけが、先に用意されていた。
その名を心の中で呼んだ瞬間、私は眉をひそめた。
――余計なことだ。
私は、兵士だ。
過去の家庭に意識を向けるのは、規律違反だ。
そう判断し、思考を切り捨てた。
三日目。
朝が来ても、私はもう時間を数えていなかった。
監視の気配はある。
だが、それは敵意ではない。
観察だ。
物を見る目だ。
その認識が、私を落ち着かせた。
敵でないなら、今すぐ殺されることはない。
そう理解した瞬間、胸の奥に、あってはならない考えが芽生えた。
――生きているかもしれない。
文子も。
子も。
その事実を、私は知らない。
知らされていない。
それでも、完全に否定する材料もない。
もし、生きているのなら。
もし、苦しんでいるのなら。
その問いは、命令ではなかった。
だが、命令よりも強く、胸に残った。
私は、その思考を「希望」とは呼ばなかった。
希望は、兵を弱くする。
だが――確認したい、とは思った。
確認するまでは、死ぬ判断は保留にすべきだ。
それは逃げではない。
未確認の状況で結論を出さないという、軍人としての判断だった。
放置とは、人に考える時間を与えることだ。
そして、考える時間は、人を人に戻す。
三日目の夜、私ははっきりと理解した。
私はまだ、戦争の中にいる。
だが、同時に――
もう、兵士だけではいられなくなっている。
そのころ防衛省地下の一室では会議が開かれていた。
窓はない。
通信は遮断。
携帯端末は、入口で預けさせられている。
長机の周囲に座るのは、 防衛省官僚。
警視庁警備部幹部。
航空自衛隊の将官クラス。
そして、須藤課長。
議題は一つ。
この部屋にいる全員が、二度と口外しないと理解している件だった。
「首都圏空港に不時着した未確認航空機について」 会議は三日間行われた。
スクリーンに映し出されたのは、滑走路に止められた零式艦上戦闘機。 誰も、すぐには言葉を発しなかった。
「……あり得ない」 空自の将官が、低く呟く。
「現存するゼロ戦は、すべて把握されています。飛行可能な機体は存在しない」 防衛省の技官が補足する。
「材質分析、製造番号、リベット位置。すべて、当時の製造規格と一致しています」
「レプリカでは?」
警察側が問う。
「不可能です。同じ工程、同じ素材、同じ加工精度を再現するには、当時の工廠そのものが必要になる」
沈黙が落ちた。
「操縦者について尋問はどうでした」
須藤が口を開いた。
「本人は、終始一貫して、海軍航空隊員を名乗っています」
「演技の可能性は?」
「低い。敬礼、姿勢、発声。あれは“訓練の結果”です」
空自の将官が、腕を組んだ。
「仮にだ」
声は冷静だった。
「仮に、彼が“過去から来た人間”だとして、それをどう扱う?」
官僚が即答する。
「百歳の老兵ならともかく、二十二歳の飛行兵など公表は不可能です」
理由は、誰もが理解していた。
社会の混乱。
そして――国家の説明不能性。
「よって、本件は“特別事象対象者”として、防衛省管理下に置くのが妥当かと――」
須藤の背筋が、わずかに強張り、反応する。
「“特別事象対象者”ですか」
「航空機と一体の存在と見なす」
空自の将官が、淡々と続けた。
「言い換えれば、彼は“兵器の付属物”です」
一瞬、空気が凍りついた。
須藤は、机に置いた手を、静かに握った。
「異議があります」
全員の視線が、彼に集まる。
「彼は、尋問にも協力的です。自我があり、判断力があり、命令に従うかどうかを考える人間です」
官僚が、眉をひそめる。
「だからこそ、管理が必要なのです」
「管理と、拘束は違う」
須藤は、言葉を選んだ。
「彼は、戦争が終わったことを知らない。敵地に降りたと思っているだけだ。だから危険だ」
将官が言う。
「兵士は、命令があれば飛ぶ。時代を問わず」
須藤は、ゆっくり首を振った。
「いいえ。あの男は――命令がなければ、飛びません」
須藤は、あの敬礼を思い出していた。
条件反射。だが、その後の視線。戸惑い。 「彼を“兵器”として扱うか、“人”として扱うかで、この案件の性質は変わります」
官僚は、言い終えると数秒考えた。
「……結論は保留とします」 それが、今日の結論だった。
「継続して国防案件として扱う。
防衛省管理下で隔離を継続。
警視庁の取り調べ記録は削除する。
関係した署員への口外禁止を徹底すること」
官僚の一人が、事務的に読み上げた。
別の官僚が、厚木飛行場にゼロ戦が着陸したニュースを見ている。これはどう対処するのか」
と質問した。
先ほどの官僚が立ち上がると、資料を幹部に配った。
「一つ、対外的な処理案があります」と言った。
「厚木飛行場に降り立った機体は――」
官僚は、一拍置いた。
「レプリカです」
誰も、驚かなかった。
驚く段階は、すでに過ぎている。
「旧日本軍機を模した高精度レプリカが極秘二入獄した。操縦者は、日系二世のアメリカ人とします」
空自の将官が、低く付け加える。
「個人的な動機で飛行を試み、管制を誤った――という設定です」
と言った。
「機体と操縦者は?」
須藤が問う。
「すでに、米軍に引き渡したことにする」
官僚は、淡々と答えた。
「日米地位協定の枠内です。
日本側に、これ以上の説明義務は生じません」
警察側の幹部が、確認するように言った。
「現場の警察官も対応したが?」
「全員に通告してください。守秘義務違反は、国家安全保障に対する重大な背信行為と位置づけると。違反した場合の処分内容も、すでに通達案があります」
それは、命令だった。
選択肢ではない。
須藤は、無言で資料を見た。
そこには、
・現場対応警察官
・管制官
・映像処理担当
すべての名が並んでいた。
「……現場の者たちは」
須藤が、ようやく口を開いた。
「彼らは、あの機体と操縦者を、確かに見ています」
官僚は、即答した。
「だからこそです」
「見た者には、忘れてもらう必要がある」
空気が、重く沈んだ。
「須藤課長」
将官が、静かに言った。
「あなたの部署が、初動対応でしたね」
須藤は、顔を上げた。
否定はできない。
「現場統制の最終責任者は、あなたです」
「この処理案に異議はないはずだ?」
須藤は、言葉を探した。
だが、見つからなかった。
この案を拒否すれば、
青木は“存在しなかったこと”にはならない。
代わりに――
より強い力で、消される。
須藤は、ゆっくりと息を吐いた。
「……承知しました」
その声は、警察官のものだった。
だが、心のどこかで、
一人の人間を切り離した音がした。
官僚は、うなずいた。
「では、その線で処理を進めます」
会議室の時計が、無音で一秒進んだ。
会議は三日間に及んだ。
だが、青木上等飛行兵曹を“何者として扱うか”についての結論は出なかった。
過去の人間か。
未知の事象か。
それとも――単なる例外か。
最終判断は、保留とされた。
ただ一つ、合意されたことがある。
防衛省は、青木上飛曹を暫定的に管理下に置き、生態および心理に関する調査を実施する。そして再び未知の領域の試験を実施し、将来の航空技術のデータを得ること。
会議が終わり、廊下に出たとき、空自の将官が、須藤にだけ声をかけた。
「課長」
「はい」
「あなた、彼を部下のように見ているようだ」
須藤は、否定しなかった。
将官は、わずかに笑った。
「それが、後悔にならなければいいが」
須藤は立ち止まり、答えた。
「後悔するのは、見捨てた時です」
第八章
翌日、私は、別の部屋に連行された。
医療機器が、周囲を囲んでいる。
見慣れぬ形。
見慣れぬ光。
金属の腕が静かに動き、私の身体をなぞる。
板のようなものが胸元を通過すると、
壁一面の画面に、私自身の内部が映し出された。
骨。
血管。
臓器。
それは平面ではなかった。
奥行きを持ち、回転し、重なり合い、
私の身体が、層として解体されていく。
――人体とは、これほどまでに複雑なのか。
戦前、軍医の診察といえば、聴診器と触診だけだった。
胸の音を聞き、脈を取り、
「異常なし」と言われれば、それで終わりだった。
だが、ここでは違う。
私の内側は、一瞬で可視化され、誰の手も触れぬまま、評価されていく。
正直に言えば、感嘆していた。
人の身体が、ここまで正確に読み取れることに。
同時に、不安もあった。
腕に、冷たい感触が走る。
透明な管を通じて、体内に何かが送り込まれる。
説明は、簡潔だった。
「造影剤です」
何のために、どこまで入るのか、終わりはあるのか。
そうした疑問を口にする前に、次の検査が始まった。
部屋の隅に立つ、一人の女性研究員がいた。
名札には、「ゆかり」とあった。
彼女は、私を見ていなかった。
正確には、私という人間ではなく、画面に映る数値と像を見ていた。
だが、その視線は、冷酷ではなかった。
実験動物を見る目でも、敵を見る目でもない。
むしろ――
希少な標本に向けられる、静かで、高貴なまなざしだった。
彼女は、ときおり小さく頷き、まるで完成度の高い映像作品に感嘆するように、
モニターを見つめていた。
私は、その横顔を見て、理解した。
ここでは、驚いているのは私だけなのだ。
私の身体が、未知の技術によって分解され、再構成されていくこの光景は、
彼女にとっては、「想定内の現象」に過ぎない。
その認識が、胸の奥に、静かな距離を生んだ。
第九章 戦後
ある日、タブレットでニュース動画が再生された。
「終戦から八十年。本日、都内では追悼式が行われ……」
白いテント。整列する人々。
画面はゆっくりと切り替わり、車椅子の老人たちを映す。
背筋の曲がった者。補助に支えられて歩く者。
胸に勲章はない。あるのは、名札と、黒い喪章だけだった。
献花台の前で、深く頭を下げる。
手が震えている。
その指先が、花に触れる直前で一瞬止まる。
私は、そこで目を逸らせなくなった。
「八十年……」
その言葉が、数字ではなく、時間として胸に落ちてくる。
映像の中の彼らは、戦争が終わったあとを、生き続けている。
敗北も、飢えも、病も――すべてを越えて。
画面の隅で、若い遺族が遺影を抱えている。
写真の中の男は、私より少し若い顔をしていた。
別室で、赤城は映像モニターを見ていた。
「ニュース映像止めますか」
監視員の声は低い。
赤城は、すぐには答えなかった。
画面の老人が、帽子を脱ぐ。
白髪が現れる。
その所作に、赤城は一瞬、既視感を覚えた。
「……いい」
短い返答だった。
止める理由は、あった。
心理的動揺。
管理計画への影響。
だが、赤城は知っていた。
ここで映像を遮断すれば、青木は「情報としての戦争」しか知らないままになる。
赤城は、モニターから目を離さなかった。
数日後。
私は赤城に伴われ、格納庫へ案内された。
扉が開くと、冷たい空気と金属の匂いが流れ出す。
零戦は、そこにあった。
だが、完全な保存ではなかった。
外板が外され、配線が露出している。
生き返ろうとしている途中の姿だった。
私は、ゆっくりと機体に手を伸ばした。
金属は、思ったよりも温かかった。
見上げる。
この機体と共に飛び、死ぬはずだった。
背後で、空自の整備員が赤城に近づく。
「復旧を急ぐようにとのことです」
赤城は、うなずいた。
その視線は、零戦ではなく、私の背中に向けられていた。
第十章 面会
私の処分はなかなか決まらず、二か月の教育が終わり、精神鑑定を受けた後、再び別の教育を受けることになった。
ある日、厚生労働省の教育係の山中さんが一人の女性を連れてきた。
私はその女性を見て驚いた。髪型も化粧も異なっていたが、妻の文子に似ていたのだ。
山中さんが女性を紹介した。
「青木美子さんです。貴方のひ孫さんです。美子さんは現在、警視庁の捜査一課で刑事をしています」
私は一瞬、息を飲み込んだ。目を見開き、ゆっくりと彼女を見つめた。
若いが、目の奥は年齢以上に落ち着いていた。
まさか自分が、こうして現代でひ孫に会うことがあるなんて、と呟くように続けた。
美子はそんな私の反応を見て、微笑みながらも緊張を隠しきれなかった。
「青木勝一さん。本当にひいおじいさんなんですね。写真とほとんど変わらないので、ビックリしました」
彼女は感情を抑えようとしたが、驚きと戸惑いが表情に滲んでいた。
私は微笑を浮かべながら、目を細めた。
「私も、貴方が妻の文子に似ているので驚きました」
まるで妻が目の前に蘇ったかのように感じ、声が少し震えた。
私たちは目を合わせたまま、互いに言葉を失ったようになった。
私は文子のことは訪ねなかった。
百歳近くで生きているとは思えなかった。
その答えを聞くことにためらいがあった。
だから、見ることのなかった子どものことを訪ねた。
「私の子どもは幸子ですか?幸男ですか」
私は緊張した面持ちで念を押した。
「幸子です。祖母は、認知症になり数年前から介護ホームにいます」
美子は少し視線を落としながら、静かに答えた。
「認知症……? ご病気なのですか?」
私は初めて聞く病名に惑いながら、さらに問いかけた。
「……はい。昔のことは少し覚えていますが、新しいことはすぐに忘れてしまう病気です。身の回りのことも一人ではできなくなり、入院しました。ですから、ひいおじいさんのことは……話していません」
一瞬、沈黙が二人の間に広がった。
私は言葉を選びながら、慎重にさらに聞いた。
「……それは、どのくらい前から?」
「五年くらい前からです。最初は小さな物忘れだけだったんですけど……。それが次第に日常生活にも支障が出るようになり……」
彼女の言葉を聞いて、私は深くため息をついた。
「そうなのか……私は幸子に、何もしてあげることができなかった……」
私は後悔と自責の念に苛まれた。もし、あの時すべてを捨てて家族の元に戻っていたら、幸子のそばにいてやれたのかもしれない……。
美子は私の様子を見て、優しく首を振った。
「……ひいおじいさんは悪くありません。祖母は、『父は立派な人だった』って、よく言っていたんです。ただ……それを今伝えられないのが、すごく……悔しいです」
彼女の声が震えたのを感じ、私は胸が締め付けられる思いだった。
「ありがとう……それだけでも、聞けてよかった」
もう一つの疑問が浮かび、私は尋ねた。
「幸子のご主人はお元気なのですか?」
彼女は表情を曇らせ、低い声で答えた。
「……五年前に事故で亡くなりました」
その言葉に、私は思わず目を閉じ、痛みをこらえるように拳を握りしめた。
「そうでしたか……大変だったのですね……」
美子は一度大きく息を吐き、静かにうなずいた。
「祖母の病気が進行したのは、祖父が亡くなってからです……」
私はただ彼女の言葉を受け止め、黙っていた。
「……貴方は捜査一課でお忙しいのでしょう。そんな中、幸子の介護も……大変ですね」
「今は介護施設にお願いしています。私の母と二人で、なんとかやっています」
美子は少しだけ微笑みを浮かべて答えた。
「祖母は、よく『おじいちゃんは優秀な戦闘機乗りだった』と、母に話していました」
「そうですか……でも、幸子は、父がいないのは辛かったでしょう」
私は美子の肩を見つめながら、低く呟いた。
「……私は収監されているので、幸子に会うことができません。しかも、病気の様子を聞く限り……私の存在を伝えないほうが良いでしょう。自分より若い父親が生きていると知ったら、幸子は混乱するかもしれません」
美子は、理解したような表情を浮かべて、静かにうなずいた。
「……そうですね。祖母が平穏な気持ちで過ごせることが一番ですから……」
二人の間に、再び沈黙が流れた。
美子がバックから何かを取り出した。
「ひいおばあちゃんのノートとアルバムとお守りを受け取ってください」
お守りは八十年近く経過し、傷んで紋様もかすれていたが、見覚えがあった。
お守りは私が木更津飛行隊の近くのお寺で文子のために買って送ったものだった。千人針を秋田の飛行隊から木更津の飛行隊に移動する際、もらっていたので、銃後の妻にも「健康」であってほしいと願って買ったものだった。
銃後――前線ではない場所。
文子は、その場所で、ずっと戦っていた。
「文子はずっと大切に持っていてくれたのですね」
「ええ、おばあちゃんはいつも大切にして持っていたようですよ」
私は改めてお守りを見つめ、ささくれた布地の表面を撫でてみた。文子はきっと苦難のたびにお守りを握りしめて、自らを奮い立たせていたに違いない。そして、それを見て育った幸子もまた、父親のいない辛い現実を甘えることもできず耐えていたのだと思った。
美子は去った。
部屋には、文子の時間だけが残った。
第十一章 妻の日記
ノートの中央には昭和二十年八月十五日と書かれていた。
小さな文字と数字がぎっしりと書き込まれていた。
ノートの余白という余白まで、文字で埋まっていた。
そこには文子の戦後の生活が書かれていた。
B二九の空襲で家屋はほとんど全焼しました。戦争が終わって良かったと思う気持ちにはなれませんでした。確かに空襲が無くなり、家屋が焼けることもなくなりました。しかし、目の前に広がっているのは、全てが消滅し荒廃した世界でした。夏だったので即座に凍死することはありませんでしたが、夜寝る場所もありませんでした。治安が悪いので一人では心配です。
戦争に行かなかった老人や婦人たちで、焼け野原から板を探してきて小さな小屋を建てました。一間ほどの、小さな小屋です。
壊れなかった直径一メートルほどの土管をねぐらにしている子供たちもいます。
小屋では雨風は防げますが、窓がありません。横板を外して窓のようにしました。
寝るときはまた板をはめてから寝ます。電気もないので夜は真っ暗です。
闇の中で、星の輝きが手に届きそうなほど近くに感じます。こんな美しい星空を、これからも見ることができるのでしょうか。希望と絶望が入り混じり、心の中でせめぎ合っています。
床は土間のままです。三ヶ月もすると冬が訪れます。それまでにどれだけ板を見つけられるかが勝負です。
水道も破壊されていて、遠くまで出かけなければなりません。私たちは様々な容器を持って並びました。濁った水には土の匂いがし、口に含むとザラリとした舌触りがします。生きるために、これが必要な水なのだと思うと、悲しみがこみ上げてきます。
焼け残った農家に向かい、着物や交換できそうな物を持って行きましたが、中々交換してもらえません。農家の人たちも物価が上がるのを知っているからです。今日はなんとか「いも」と「着物」を交換できましたが、もう交換できる着物はありません。
荒野を回って交換できそうな物を探しました。亡くなった方の骨が出てきたときは、手をあわせました。農作業を手伝って野菜をもらうこともあります。今日は人夫の方と一緒に瓦礫を片付けています。
「もうすぐ子供が生まれる」と書いてあった。
文子は私に子供のことは言わなかった。心配させたくなかったのかもしれない。子供ができたことが分かったとき、私は死んだことになっていたのだ。
「貴方が出撃したのは終戦の前日だったのです。もし、あの日戦闘で帰還できたら、貴方は私のもとに戻って来られたかもしれません。貴方は遺書で、今空襲で数万人が亡くなっているので逃げ出すことはできないと言いました。戦友もほとんどが亡くなり、自分だけ生き残るわけにはいかないとも。戦死することが運命なのだとも言いましたね。でも、戦争が終わり、貴方の上官たちは逃げ出したのです。軍用品を横流しして、焦土と化した国土を闊歩しているのです。私は見てしまったのです。軍用車両に派手な化粧をした女性を乗せている男が、戦時中軍の航空隊の隊長だったことを。隊長は毎日特攻を命令し、帰還した隊員に恥ずかしくないのかと暴行していたそうです。生き残った隊員から聞いたので間違いありません。私はあの時、本当に戦争に負けたのだと感じました」
私は、妻の文子がどれほど過酷な生活を送っていたのかを初めて知った。彼女は日々の生活の中で感じた痛みや孤独を、静かに綴っていた。
記憶の中に、ある夜がよみがえる。私は文子と一緒に荒廃した町を歩いた。焼け野原の道を、二人で無言のまま歩いた。重く張り詰めた空気の中、私は「君に恥をかかせたりしないから」と言うと、「体をいたわって」と返してくれた。その言葉に戦争と別れの重さがのしかかった。私は、「誰も見ていないから、手をつなごう」と声をかけた。文子は恥ずかしそうに応じて、そっと手を握った。冷たい夜風が吹きつける中、彼女の手の温もりが心の中に深く染み込んだ。
その時、なぜか文子の輪郭が、わずかに揺らいで見えた。
目の錯覚だと思ったが、胸騒ぎは消えなかった。
あの時の温もりを、今でも忘れられない。
日記は、途中で何度も文字が乱れていた。
線が重なり、書き直され、紙が少し破れている。
〈二歳の娘が、高熱を出した〉
〈泣き声が弱くなった〉
〈医者に診せられない〉
〈このまま、朝を迎えられないかもしれない〉
私は、そこで頁を閉じた。
知っているはずだった。
戦後、赤痢が流行したこと。
薬がなく、多くの幼い命が失われたこと。
だが、それは知識だった。
この文字は、違う。
私は、日記を閉じ美子の面会を依頼した。
その温もりだけが、戦争よりも確かな記憶として残っている。
第十二章 理由のない到来
美子が席に着くのを待って、私は切り出した。
「日記を、読みました」
彼女は、うなずいた。
「……二歳の娘が、死にかけている」
声に出すと、言葉は奇妙に乾いていた。
「それでも、あなたは、ここにいます。つまり――幸子は、助かった」
美子は、何も言わない。
「ならば」
一度、息を整える。
「私は、なぜ、ここに来たのですか」
彼女の視線が、初めて揺れた。
「過去に戻って、薬を渡す必要はない。因果は、すでに閉じている」
「それなのに、現象は起き、私は呼び出された」
私は、自分でも驚くほど冷静だった。
「これは、任務ではありません。命令でもない」
一拍、置く。
「理解を越えた理由が、あるはずです。それを……あなたなら、知っていると思った」
美子は、長い間、沈黙した。
警察官としての時間が、過ぎる。
ひ孫としての時間が、追いつく。
「……母が言っていました」
彼女は、ゆっくり言った。
「“助かった理由”は、よくわからないそうです」
その言葉が、部屋に落ちた。
私は、目を閉じた。
理解を求める問いに、理解ではない答えが返ってきた。
だが、それで十分だった。
しばらくして、私はもう一度、口を開いた。
今度は、理屈ではなかった。
「……もし」
自分でも、声が低くなるのが分かった。
「もし、私が、もう一度あの時代に戻ることがあるのなら」
美子が、こちらを見る。
「一つだけ、頼みがあります」
私は、まっすぐ彼女を見た。
「赤痢の薬を、用意してほしい」
美子は、言葉を失った。
「二歳の娘が、高熱で、死にかけていた。医者にも診せられなかった」
「薬があれば……助けられたかもしれない命でした」
私は、視線を逸らさなかった。
「未来の知識で、戦争を変えたいわけではありません」
「歴史を、やり直したいのでもない」
「ただ――」
一瞬、喉が詰まった。
「父親として、一度でいい。娘に、薬を渡したい」
美子は、しばらく黙っていた。
そして、小さく、うなずいた。
「……分かりました」
それだけだった。
私は、深く息を吐いた。
私がここに来た理由は、
過去を変えるためではない。
――過去に、意味を届けるためだ。
第十三章 時空の仮説
内閣調査室が、東慶大学理学部の高橋物理学教授を呼んだ。
目的はただ一つ――私が、なぜ「ここにいるのか」を説明できる理屈を探すためだった。 高橋教授は私の居室を訪れると、簡単な自己紹介だけを済ませ、無言で白板の前に立った。
こちらを見ることもなく、ペンを取り、数式を書き始める。
ためらいはない。
書いているというより、再現しているようだった。
数式が途切れたところで、教授は初めて振り返った。
「青木上等飛行兵曹。あなたは戦死後、少尉に昇進したそうですね」
確認ではなかった。
事実の読み上げだった。
「B二九との交戦中、急降下の最中に“何か”を見たと報告されています」
“何か”の部分だけ、わずかに声が落ちた。
「その瞬間です」
教授は白板を指さした。
「高度、速度、姿勢、視界。思い出せる限り、できるだけ正確に教えてください」
私は、背筋を伸ばした。
再び、戦闘の中に戻る合図だった。
私は一九四五年八月十四日のことを語り始めた。
撃墜、被弾、制御不能の急降下。
音速を超え、機体が空中分解する――その時、目の前に現れた光る球体。
「球体に突入した瞬間、世界が引き延ばされたように感じました。振動も音も消え、まるで時間だけが取り残されたようでした」
高橋教授は頷き、白板に円を描いた。
次に円錐。その中に一点を打ち、横に一本の線を引く。
「あなたは、時空を“突き破った”ように感じたわけですね――」
「ええ。万華鏡の中にいるようでした」
教授は白板にいくつもの式と図を書き足しながら続けた。
「我々の宇宙は、三次元空間に時間軸を加えた四次元時空間です。しかし、近年では“ブレーン宇宙”という仮説もあります」
四角形を二つ描き、その間を線で結ぶ。
「薄い膜のような宇宙同士が、ワームホールで接続されている可能性です。あなたが感じたトンネルは、その通路だったのかもしれない」
「私は、その線を通って別の世界へ?」
「可能性としては否定できません。ただし――」
教授はペンを止めた。
「本来、ワームホールは人や航空機が通過できるほど安定していない。だからこそ、あなたの事例は異常です」
私は違和感を覚えた。
現代に来てから、時計の進み方が一瞬だけずれるように見え、燃料計の数値にも説明のつかない違和感が残っていた。
「……パラレルワールドの可能性も?」
教授は線を引き、三方向に分岐させて「A」「B」「C」と書いた。
「選択のたびに世界が分岐するという仮説です。ただし、互いの存在を認識することはありません」
「では私は――」
「“選ばれた”のかもしれませんね。――少なくとも、偶然ではない」
教授はそう言って、言葉を切った。
「時空を超えた際、時間が遅く流れる感覚は?」
「ありました」
「身体的異常は?」
「検査では何も」
高橋教授は名刺を差し出した。
「外部と連絡は取れないのですが……」
「それでも持っていてください。時間は、思わぬ形で繋がることがあります」
別れ際、私は尋ねた。
「先生のお父上も、戦前から教授だったとか」
「ええ。空襲もありましたが、家は残りました。父は十年前に亡くなりました」
その夜、私は一通の手紙を書いた。
宛名は、まだ生きているはずの“過去”の高橋教授の父だった。
――もし、あの日に戻れるのなら。
妻と、赤痢に苦しむ娘を救うために。
第十四章 発光体
隔離室のモニター画像が、たびたび乱れるようになった。
やがて、小さな点状の異常が観測されることもあった。
赤城たちは、すでに別の名でそれを呼んでいた。
――発光体。それは兵器でも、装置でもない。
観測されたのは、「点」だった。
空間上に現れる、意味を持たないはずの一点。
その点は、次第に大きくなる。
中心は、常に私だった。
半径、数メートル。
時間が、遅れ、重なり、戻る。
床の振動ログと、天井センサーの時刻表示が一致しない。
私が瞬きをした直後、その瞬きの「前」の映像が、モニターに再生される。
因果が、順序を失っていた。
「局所的時間歪曲」
「閉じた発光源」
「生体起因の可能性」
専門用語だけが、会議室に並ぶ。
だが、結論は単純だった。
――現象は、彼の周囲でしか起きない。
そして、それは以前にも記録されていた。
零戦。
あの操縦席。
過去の空と、現在の私が、同時に存在した瞬間。
その時の計測値と、
今、隔離室で観測されている歪みは、驚くほど一致していた。
「つまり……」
誰かが、言葉を選びながら口を開いた。
「もう一度、同じ条件を作ればいい」
空気が、わずかに冷えた。
「機体。操縦者。負荷。恐怖。判断。すべてが揃った場所は――一つしかありません」
誰も、反論しなかった。
私は、まだその結論を知らない。
だが、身体はすでに理解していた。
――呼ばれている。
あのときと、同じ空に。
第十五章 飛ばす理由
零戦を巡る空気は、確実に変わっていた。
防衛省技術研究本部。
航空自衛隊の一部将官。
外部の航空工学者。
彼らに共通しているのは、
あの機体を「未来」に使おうとしていることだった。
「飛行データが取れれば、未知の領域に踏み込み、現代兵器にも応用できる可能性がある」
議論は、理屈に満ちていた。
「操縦者は?」
誰かが聞く。
「彼しかいない」
当然の結論だった。
その後、赤城と面会した。
そこにあるのは、敵意ではない。
管理者の目だった。
赤城は、書類を一枚だけ持っていた。
「体調は」
形式的な問いだった。
「問題ありません」
私は、即答した。
問題があるかどうかを判断する権利が、自分にないと知っている。
沈黙。
「……実験の話は、聞いているな」
「はい。拒否は?」
一瞬、赤城の声が揺れた。
私は、理解した。
――拒否は、想定されていない。
機体が戻らず、失われても問題ない。
戸籍上、私はすでに死んでいる。
その前提で、すべてが組まれている。
「赤城さん」
私は、静かに言った。
「私は、戻れますか」
赤城は、答えなかった。
代わりに、こう言った。
「君は、必要だ」
それが、答えだった。
必要でなくなった瞬間。
分類が、廃棄に変わる。
面会が終わる。
私は、隔離室に戻された。
椅子に座ったまま、考える。
――このまま、飛ばされる。
――だが、私は、実験動物で終わらない。
その時、初めて、別の選択肢が浮かんだ。
逃げる。
娘を救うために。
手元には、美子から受け取った薬瓶がある。
歴史を変えるためではない。
英雄になるためでもない。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
それは、出撃前よりも静かな呼吸だった。
時間の歪みが、また一瞬、揺れる。
それは、逃走の予兆のようにも見えた。
第十六章 呼ばれる空
格納庫では零戦の復元作業が進められていた。
私は、与えられた日常の中で、静かに監視の目を読み解いていった。
扉の解錠コード。
巡回の間隔。
体操時間に生じる、二十分の空白。
数か月かけて、それらはすべて頭の中に収まっていた。
体操の最中、監視役の注意が一瞬外れる。
そのわずかな隙に、私は格納庫へ至る動線を確かめていた。
ある日、隔離室に赤城が入ってきた。
「試験飛行が決定した。当日は副大臣も視察する」
「試験飛行が成功した後は」
「きみには、歴史改変の可能性を排除するため、ここで生涯を過ごしてもらう」
「それは、兵として不可能です」
自分の声が、驚くほど静かなことに気づく。
「政権は変わる。方針も変わる。秘密が永遠に守られる保証はない。――私は、物ではありません」
赤城は、言葉を遮らなかった。
否定も、肯定もせず、ただ聞いていた。
警備は強化される。
同時に、注意は「外」に向く。
私は、悟った。
――逃げるなら、この機会しかない。
試験飛行の日程が正式に決まり、零戦の復旧は異様な速さで進められ、ついに完成した。
明日は、試験飛行だ。
私は、深夜を待った。
監禁室の解錠方法。
格納庫の扉。
すべて、すでに頭に入っている。
その時だった。
かつて何度も観測された、あの光が、再び現れた。
隔離室の空間に、歪みが走る。
光の奥に、別の景色が映る。
空。
雲。
既視感のある、あの高度。
私は、ためらわなかった。
手を伸ばす。
光は、抵抗なく私を包み込んだ。
引き戻されるように。
――呼ばれるように。
次の瞬間、私は、もう隔離室にはいなかった。
第十七章 遺書
激しい衝撃のあと、私は飛行場の上空にいた。
耳鳴りが止み、焦げた油の匂いが鼻を刺す。
――生きている。
視界いっぱいに、夏の雲が広がっていた。
青すぎる空。現代のそれとは違う、濁りのない、戦前の夏の空だ。
木更津。
滑走路の脇に並ぶ、爆撃で損壊した格納庫。
整備兵が走り、市街地の向こうは焼け野原だった。
――あの日に、戻った。
胸の奥で、冷たいものがほどけた。
同時に、鋭い痛みが走る。
「……文子、幸子」
私は操縦席の脇に差し込まれていた、小さな包みを取り出した。
現代で手に入れ、過去へ託すつもりだった赤痢の薬。
未来へ送るための、たった一つの実体。
――私は、直接は救えない。
だが、未来へ届くものは残せる。
エンジンの回転を抑え、機体を降ろす。
そして、あの一日が、再び始まった。
私は文子に遺書を書いた。
文子へ
私は昭和二十年八月十四日に出撃します。
君を残していくことが、どれほど胸が痛むことか、言葉では言い表せません。
君には、夫として何もしてあげられず、申し訳ない思いでいっぱいです。
新婚旅行も、共に過ごすささやかな日々も、叶わぬまま、私は特攻攻撃します。君を一人にしてしまい、寂しい思いをさせたこと、何も残せなかったことを、今でも悔やんでいます。
君は、私を気遣って、子供ができたことを黙っていたのですね。
どれほどの不安と心細さを感じていたことでしょう。
もし子供が生まれたなら、女の子なら「幸子」、男の子なら「幸男」と名付けてほしいと願っています。
戦争がいつまで続くかは分かりませんが、戦後は日本に大変な困難が訪れることでしょう。物資の不足や病気には、どうか気をつけてください。君には頼れる身内も少ないでしょうが、私は君が強く生き抜ける人だと信じています。どうか、無理をせず、心を強く持って生きていってください。
それでも、もし君が一人では乗り越えられない時が来たなら、どうか私のことを忘れ、別の道を見つけて幸せになってください。
君と生まれてくる子供が、笑顔で過ごせる日々を、私は心から祈っています。
本当は、戦いを避けて君の元に帰りたいという思いも、心のどこかにあります。
しかし、毎日のように空から降り注ぐ爆弾で多くの人が命を落としています。私の戦友も犠牲になりました。
だからこそ、私には果たさなければならない務めがあるのです。それが、君と子供への最後の役目だと思っています。
君と出会い、共に歩んだこと、それは私の誇りです。
雲の上から、いつまでも君と子供を見守り続けます。
さようなら
愛する文子へ
私は、高橋教授に宛てた手紙と、薬を託した。
第十八章 最後の出撃
手紙を書き終えた時、敵機来襲の法が入った。
「敵大型爆撃機、北東より接近。各機、迎撃準備!」
兵舎にいた私たちは、走った。
滑走路を駆け、零戦に乗り込む。
「よし、出撃だ」
胸の奥に、恐怖はない。
あるのは、決意だけだった。
「文子……」
スロットルを押し込み、編隊に追いつく。
雲の切れ間から、銀色の腹をしたB二九が姿を現す。
巨大だ。何度見ても、慣れない。
曳光弾が、空を引き裂く。
機体を傾け、急上昇から反転。
二十ミリ機関砲の引き金を引いた。
衝撃。
反動。
弾道が、敵機の翼に吸い込まれる。
一機が炎を上げ、雲に消えた。
だが、次の瞬間。
衝撃が走る。
右翼が被弾した。
計器が踊り、操縦桿が重くなる。
――同じだ。
あの時と、同じ。
零戦は急降下し、視界が歪む。
速度計が振り切れ、機体が悲鳴を上げる。
そして――
視界の奥で、空が円錐状に歪んだ。
計器の針が、意味を失って揺れた。
あの時と同じ、光の兆し。
「文子! 幸子!」
胸ポケットには、未来から持ち帰った小さな薬包が入っている。
重力に引きずられるように、機体は落ちる。
軋み。
音が消える。
世界が、一本のトンネルになる。
私は胸の写真に触れた。
文子と、まだ小さな幸子の写真だ。
――守ってくれ。
光が、すべてを飲み込んだ。
第十九章 戻る場所
病室は静かだった。
昼と夜の境目が、もう意味を持たない時間だった。
幸子は、ベッドに横たわっていた。
呼吸は浅く、胸の上下は、見ようとしなければ分からない。
眠っているのか、すでに遠くにいるのか――
その境界に、誰も踏み込めなかった。
美子は、祖母の幸子の足元に置かれた古い布袋に気づいた。
転院の際、持ってきたものだ。
中には、一冊のノートがあった。
擦り切れた表紙。
角の丸くなった背。
紙の端は、何度もめくられた痕跡を残している。
――幸子が、文子から受け取ったもの。
――自分が、あの部屋で見つけたもの。
――そして、自分が、あの人に渡したもの。
時間を越えて、巡ってきたノートだった。
美子は、何も言わず、ノートを取り出した。
幸子の枕元に、そっと置く。
返すためだった。
幸子の指が、わずかに動いた。
視線は合わない。
だが、その手は、迷うことなくノートの表紙に触れた。
紙の感触を確かめるように、指先が一度だけ動く。
その瞬間、呼吸が、ほんのわずかに深くなる。
唇が、かすかに形を作った。
「……おとう……さん」
声にはならなかった。
それでも、美子にははっきり分かった。
それが、最後だった。
数分後、機械の波形は、静かに一直線になった。
医師が頭を下げ、看護師が音を止める。
幸子の手は、ノートの上に置かれたままだった。
後日。
美子は、そのノートを、もう一度だけ開いた。
新しい頁は、増えていない。
だが、最後の余白に、鉛筆で書かれた一行があった。
〈あの日、空は、きれいでした〉
誰が書いたのかは、分からない。
文子かもしれない。
幸子かもしれない。
あるいは――
青木勝一という名は、どこにも残らない。
だが、確かに戻ってきたものがある。
渡され、見つけられ、託され、そして、返されたものが。
それが何だったのかを、美子は言葉にしなかった。
ノートは、幸子が生きてきた時間の形のまま、そこにあった。




