五年間尽くした婚約者に『無能』と捨てられたので、騎士団副団長に拾われて溺愛されています
疲れた。
その言葉が、もう何度目になるかわからない。
五年間、私はクレスター王国の王太子アーヴィン殿下の婚約者として、殿下の財務管理を一手に担ってきた。帳簿の整理、収支の計算、領地からの報告書の精査。華やかな社交界とは無縁の、地味で地道な仕事だ。
けれど今日、その全てに終止符が打たれる。
「お前との婚約は破棄する」
殿下の執務室で、その言葉を聞いた瞬間——私は、笑ってしまった。
ああ、ようやくこの日が来た。
「……レティシア? 何がおかしい」
殿下が眉をひそめる。隣には、私の義妹オリヴィアが寄り添うように立っている。彼女が「お姉様に夜会の作法を教わりたい」と言って我が家にやってきたのは、半年前のことだった。
今では殿下の傍らが彼女の定位置になっている。
「いえ、何も。それで、婚約破棄の理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「決まっているだろう。お前のような無能はいらない」
殿下は吐き捨てるように言った。
「この五年間、お前は何をしていた? 夜会にもろくに顔を出さず、私の傍にいることもない。婚約者としての自覚が足りないと、何度言えばわかる」
——ああ、そうですか。
私が夜会に出られなかったのは、殿下の財務処理に追われていたからだ。殿下が「面倒だから任せる」と丸投げした書類の山を、毎晩遅くまで処理していたからだ。
けれど、それを言っても無駄だろう。殿下は私の仕事を見たことがない。見ようともしなかった。
「承知いたしました。では、本日付で婚約を解消させていただきます」
「……は?」
殿下が目を見開いた。もっと縋りつくとでも思っていたのだろうか。
「引き継ぎの件ですが、財務関連の書類は全て執務室の棚に整理してあります。帳簿の見方については、こちらの手引書をご参照ください」
私は懐から薄い冊子を取り出し、殿下の机に置いた。
いつかこの日が来ることは、わかっていた。だから準備は済ませてある。
「ま、待て。いきなり出て行くつもりか?」
「ええ。殿下のお望み通りに」
「だが、その……財務のことは、誰が」
「オリヴィア様がいらっしゃるではありませんか」
私は義妹に視線を向けた。彼女は一瞬たじろいだが、すぐに胸を張った。
「も、もちろんです! お姉様にできることが、私にできないはずがありません」
——そうですか。では、頑張ってください。
私は深く一礼すると、振り返らずに部屋を出た。
扉が閉まる瞬間、殿下が何か言いかけたような気がしたけれど。
もう、関係のないことだ。
* * *
王城の廊下を歩いていると、不意に声をかけられた。
「レティシア嬢」
低く、落ち着いた声だった。
振り返ると、そこには騎士団副団長ヴェルナー・ハイデン卿が立っていた。辺境伯家の次男で、若くして副団長の地位についた実力者だ。黒髪に灰色の瞳、精悍な顔立ち。社交界では「氷の騎士」と呼ばれているらしい。
「ハイデン卿。何か御用でしょうか」
「少し、お時間をいただけないだろうか」
ハイデン卿は、いつになく真剣な表情だった。
私は首を傾げながらも、彼に従って中庭に出た。
「単刀直入に言う」
人気のない場所で足を止めると、彼はこちらを真っ直ぐに見つめてきた。
「私と、婚約してほしい」
「……は?」
今度は私が目を見開く番だった。
「突然で申し訳ない。だが、ずっと機会を窺っていた。君が王太子の婚約者である間は、声をかけることもできなかった」
「お待ちください。私は先ほど婚約破棄を——」
「知っている。だから今、こうして話している」
ハイデン卿の目には、揺るぎない光があった。
「君の価値がわからない男に、これ以上君を渡したくなかった」
私は言葉を失った。
「……私の、価値?」
「ああ。君がこの五年間、王太子家の財務をどれほど支えてきたか。私は知っている」
ハイデン卿は静かに続けた。
「騎士団の予算申請で、何度か王太子家の帳簿を確認する機会があった。あの完璧な管理。緻密な収支計算。不正の入り込む余地のない透明性。——あれは、君の仕事だろう」
胸が、じわりと熱くなった。
五年間、誰にも認められなかったことを。
この人は、見ていてくれた。
「それは……」
「君が欲しい。能力としてではなく、人として。——私の妻になってくれないか」
彼の言葉は、飾り気がなくて、だからこそ真っ直ぐに響いた。
私は、少しだけ考えて——頷いた。
「……はい。よろしくお願いします」
驚くほど自然に、その言葉が出た。
ハイデン卿の表情が、ふっと緩んだ。氷の騎士と呼ばれる人が見せる、柔らかな笑顔だった。
「ありがとう。——いや、レティシア、と呼んでもいいだろうか」
「ええ。では私も、ヴェルナー様と」
「様はいらない。ヴェルナーでいい」
彼の手が、そっと私の手を取った。
その温かさに、五年間の疲れが溶けていくような気がした。
* * *
——それから、一ヶ月が経った。
私はヴェルナーの屋敷に身を寄せ、穏やかな日々を過ごしていた。
彼は忙しい身でありながら、毎日必ず時間を作って私と話をしてくれた。食事を共にし、庭を散歩し、時には仕事の相談もしてくれた。
「レティシア、この報告書なんだが」
「はい、見せてください。……ああ、ここの数字、一桁ずれていますね」
「やはりか。君の目は確かだな」
彼が嬉しそうに笑う。
こんな風に、自分の仕事を認めてもらえることが。
こんなにも、心地よいものだとは知らなかった。
「ヴェルナー、あの」
「何だ?」
「私で、本当によかったのでしょうか。華やかな社交ができるわけでもなく、地味な仕事しか」
「地味?」
彼は私の言葉を遮った。
「君の仕事は、地味なんかじゃない。目立たないだけで、なくてはならないものだ。——それに」
彼の手が、私の頬に触れた。
「私が欲しいのは華やかさじゃない。君自身だ」
その言葉に、胸がいっぱいになった。
* * *
一方、王太子家では。
私がいなくなって二週間が経った頃から、問題が噴出し始めたらしい。
「殿下! 今月の収支が合いません!」
「領地からの報告書が、どこにあるかわからないのですが……」
「この請求書、二重払いになっていませんか?」
それらの報告は、ヴェルナーを通じて私の耳にも入ってきた。
「オリヴィア嬢が財務を引き継いだらしいが、まったく機能していないようだ」
「そうですか」
私は淡々と答えた。
当然だろう。あの量の仕事を、知識も経験もない人間がこなせるわけがない。
「王太子が君を呼び戻そうとしているという噂もある」
「お断りします」
「ああ、もちろん断ってもらう。——君は私のものだ」
ヴェルナーの腕が、私の肩を引き寄せた。
その独占欲の見える仕草に、少しだけ頬が熱くなった。
* * *
そして、さらに二週間後。
事態は、私の予想を超えて深刻になっていた。
「王太子家の財務から、不正が発覚したそうだ」
ヴェルナーが、難しい顔で報告してきた。
「不正……ですか」
「ああ。どうやら、君がいなくなってから帳簿の改竄が行われていたらしい。金額にして、相当な額になる」
私は目を伏せた。
——知っている。
いや、正確には、私がいた頃からその兆候はあった。
オリヴィアが殿下に取り入り始めた頃から、不審な出費が増えていた。私はそれを記録し、証拠を残していた。けれど、私には殿下に直言する立場がなかった。婚約者とは名ばかりで、実質的には下働きに過ぎなかったから。
「レティシア。もしかして、君は」
「私が管理していた期間の帳簿には、不正はありません。それは調べればわかります」
「ああ、わかっている。君を疑っているわけじゃない」
ヴェルナーが、私の手を握った。
「ただ、気になることがあってな。オリヴィア嬢の周辺から、妙な金の流れが見つかったらしい」
——やはり。
私の予想通りだった。
「王太子は、事態の深刻さにようやく気づいたようだ。君を呼び戻して、帳簿の精査を依頼したいと言っている」
「お断りです」
「ああ。私も断った。——だが、証言だけは必要になるかもしれない」
ヴェルナーの目が、真剣に私を見つめた。
「君の記録が、不正を暴く鍵になる。協力してもらえるか」
私は、静かに頷いた。
これは復讐ではない。
ただ、真実を明らかにするだけのことだ。
* * *
王宮での査問会。
私は証人として呼ばれ、五年間の記録を提出した。
「この期間の収支は全て記録してあります。不審な出費については、別途メモを残しておきました」
私が示した記録に、査問官たちがどよめいた。
「これは……オリヴィア嬢への私的な送金では」
「王太子家の公金から、男爵家への不正な流用……」
アーヴィン殿下の顔が、みるみる青ざめていく。
隣では、オリヴィアが震えていた。
「そんな、お姉様! 私を陥れるために偽の記録を——」
「偽造ではありません。筆跡鑑定でも、日付の整合性でも、ご確認いただければわかります」
私は感情を込めずに答えた。
「私はただ、事実を記録していただけです」
「レティシア……」
殿下が、掠れた声で私の名を呼んだ。
「私は……私は間違っていた。君の価値を、見誤っていた。どうか、戻ってきてくれないか。君なしでは——」
「お断りします」
私は殿下の言葉を遮った。
「私には、もう帰る場所があります」
そう言って振り返ると、入り口にヴェルナーが立っていた。
彼が私に向かって手を差し伸べる。
「帰ろう、レティシア」
「はい」
私は迷わず、その手を取った。
背後で殿下が何か叫んでいたけれど、もう聞こえなかった。
* * *
——あれから、半年が経った。
私とヴェルナーは正式に婚姻し、ハイデン家の一員となった。
朝、柔らかな光で目を覚ますと、隣にはヴェルナーがいる。
「おはよう、レティシア」
「おはよう、ヴェルナー」
その一言が、こんなにも幸せだとは知らなかった。
私は今、騎士団の財務顧問という新しい仕事を任されている。かつての「無能」と蔑まれた仕事が、今では「不可欠」と認められている。
王太子アーヴィンは、不正発覚の責任を問われ、王位継承権を剥奪されたと聞いた。オリヴィアは男爵位を返上し、実家は没落したらしい。
けれど、それはもう私には関係のないことだ。
「今日は早く仕事を終わらせる。夕食は一緒にとろう」
「はい。楽しみにしています」
ヴェルナーが私の額にそっと口づける。
五年間、報われなかった日々。
けれど、その先に待っていたのは——こんなにも穏やかな幸せだった。
「ヴェルナー」
「何だ?」
「……ありがとう。私を見つけてくれて」
私の言葉に、彼は優しく微笑んだ。
「こちらこそ。君に出会えてよかった」
窓から差し込む光の中、私たちは手を繋いだ。
これが、私の選んだ幸せだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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