表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

五年間尽くした婚約者に『無能』と捨てられたので、騎士団副団長に拾われて溺愛されています

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/05

 疲れた。


 その言葉が、もう何度目になるかわからない。


 五年間、私はクレスター王国の王太子アーヴィン殿下の婚約者として、殿下の財務管理を一手に担ってきた。帳簿の整理、収支の計算、領地からの報告書の精査。華やかな社交界とは無縁の、地味で地道な仕事だ。


 けれど今日、その全てに終止符が打たれる。


「お前との婚約は破棄する」


 殿下の執務室で、その言葉を聞いた瞬間——私は、笑ってしまった。


 ああ、ようやくこの日が来た。


「……レティシア? 何がおかしい」


 殿下が眉をひそめる。隣には、私の義妹オリヴィアが寄り添うように立っている。彼女が「お姉様に夜会の作法を教わりたい」と言って我が家にやってきたのは、半年前のことだった。


 今では殿下の傍らが彼女の定位置になっている。


「いえ、何も。それで、婚約破棄の理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」


 私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。


「決まっているだろう。お前のような無能はいらない」


 殿下は吐き捨てるように言った。


「この五年間、お前は何をしていた? 夜会にもろくに顔を出さず、私の傍にいることもない。婚約者としての自覚が足りないと、何度言えばわかる」


 ——ああ、そうですか。


 私が夜会に出られなかったのは、殿下の財務処理に追われていたからだ。殿下が「面倒だから任せる」と丸投げした書類の山を、毎晩遅くまで処理していたからだ。


 けれど、それを言っても無駄だろう。殿下は私の仕事を見たことがない。見ようともしなかった。


「承知いたしました。では、本日付で婚約を解消させていただきます」


「……は?」


 殿下が目を見開いた。もっと縋りつくとでも思っていたのだろうか。


「引き継ぎの件ですが、財務関連の書類は全て執務室の棚に整理してあります。帳簿の見方については、こちらの手引書をご参照ください」


 私は懐から薄い冊子を取り出し、殿下の机に置いた。


 いつかこの日が来ることは、わかっていた。だから準備は済ませてある。


「ま、待て。いきなり出て行くつもりか?」


「ええ。殿下のお望み通りに」


「だが、その……財務のことは、誰が」


「オリヴィア様がいらっしゃるではありませんか」


 私は義妹に視線を向けた。彼女は一瞬たじろいだが、すぐに胸を張った。


「も、もちろんです! お姉様にできることが、私にできないはずがありません」


 ——そうですか。では、頑張ってください。


 私は深く一礼すると、振り返らずに部屋を出た。


 扉が閉まる瞬間、殿下が何か言いかけたような気がしたけれど。


 もう、関係のないことだ。


     * * *


 王城の廊下を歩いていると、不意に声をかけられた。


「レティシア嬢」


 低く、落ち着いた声だった。


 振り返ると、そこには騎士団副団長ヴェルナー・ハイデン卿が立っていた。辺境伯家の次男で、若くして副団長の地位についた実力者だ。黒髪に灰色の瞳、精悍な顔立ち。社交界では「氷の騎士」と呼ばれているらしい。


「ハイデン卿。何か御用でしょうか」


「少し、お時間をいただけないだろうか」


 ハイデン卿は、いつになく真剣な表情だった。


 私は首を傾げながらも、彼に従って中庭に出た。


「単刀直入に言う」


 人気のない場所で足を止めると、彼はこちらを真っ直ぐに見つめてきた。


「私と、婚約してほしい」


「……は?」


 今度は私が目を見開く番だった。


「突然で申し訳ない。だが、ずっと機会を窺っていた。君が王太子の婚約者である間は、声をかけることもできなかった」


「お待ちください。私は先ほど婚約破棄を——」


「知っている。だから今、こうして話している」


 ハイデン卿の目には、揺るぎない光があった。


「君の価値がわからない男に、これ以上君を渡したくなかった」


 私は言葉を失った。


「……私の、価値?」


「ああ。君がこの五年間、王太子家の財務をどれほど支えてきたか。私は知っている」


 ハイデン卿は静かに続けた。


「騎士団の予算申請で、何度か王太子家の帳簿を確認する機会があった。あの完璧な管理。緻密な収支計算。不正の入り込む余地のない透明性。——あれは、君の仕事だろう」


 胸が、じわりと熱くなった。


 五年間、誰にも認められなかったことを。


 この人は、見ていてくれた。


「それは……」


「君が欲しい。能力としてではなく、人として。——私の妻になってくれないか」


 彼の言葉は、飾り気がなくて、だからこそ真っ直ぐに響いた。


 私は、少しだけ考えて——頷いた。


「……はい。よろしくお願いします」


 驚くほど自然に、その言葉が出た。


 ハイデン卿の表情が、ふっと緩んだ。氷の騎士と呼ばれる人が見せる、柔らかな笑顔だった。


「ありがとう。——いや、レティシア、と呼んでもいいだろうか」


「ええ。では私も、ヴェルナー様と」


「様はいらない。ヴェルナーでいい」


 彼の手が、そっと私の手を取った。


 その温かさに、五年間の疲れが溶けていくような気がした。


     * * *


 ——それから、一ヶ月が経った。


 私はヴェルナーの屋敷に身を寄せ、穏やかな日々を過ごしていた。


 彼は忙しい身でありながら、毎日必ず時間を作って私と話をしてくれた。食事を共にし、庭を散歩し、時には仕事の相談もしてくれた。


「レティシア、この報告書なんだが」


「はい、見せてください。……ああ、ここの数字、一桁ずれていますね」


「やはりか。君の目は確かだな」


 彼が嬉しそうに笑う。


 こんな風に、自分の仕事を認めてもらえることが。


 こんなにも、心地よいものだとは知らなかった。


「ヴェルナー、あの」


「何だ?」


「私で、本当によかったのでしょうか。華やかな社交ができるわけでもなく、地味な仕事しか」


「地味?」


 彼は私の言葉を遮った。


「君の仕事は、地味なんかじゃない。目立たないだけで、なくてはならないものだ。——それに」


 彼の手が、私の頬に触れた。


「私が欲しいのは華やかさじゃない。君自身だ」


 その言葉に、胸がいっぱいになった。


     * * *


 一方、王太子家では。


 私がいなくなって二週間が経った頃から、問題が噴出し始めたらしい。


「殿下! 今月の収支が合いません!」


「領地からの報告書が、どこにあるかわからないのですが……」


「この請求書、二重払いになっていませんか?」


 それらの報告は、ヴェルナーを通じて私の耳にも入ってきた。


「オリヴィア嬢が財務を引き継いだらしいが、まったく機能していないようだ」


「そうですか」


 私は淡々と答えた。


 当然だろう。あの量の仕事を、知識も経験もない人間がこなせるわけがない。


「王太子が君を呼び戻そうとしているという噂もある」


「お断りします」


「ああ、もちろん断ってもらう。——君は私のものだ」


 ヴェルナーの腕が、私の肩を引き寄せた。


 その独占欲の見える仕草に、少しだけ頬が熱くなった。


     * * *


 そして、さらに二週間後。


 事態は、私の予想を超えて深刻になっていた。


「王太子家の財務から、不正が発覚したそうだ」


 ヴェルナーが、難しい顔で報告してきた。


「不正……ですか」


「ああ。どうやら、君がいなくなってから帳簿の改竄が行われていたらしい。金額にして、相当な額になる」


 私は目を伏せた。


 ——知っている。


 いや、正確には、私がいた頃からその兆候はあった。


 オリヴィアが殿下に取り入り始めた頃から、不審な出費が増えていた。私はそれを記録し、証拠を残していた。けれど、私には殿下に直言する立場がなかった。婚約者とは名ばかりで、実質的には下働きに過ぎなかったから。


「レティシア。もしかして、君は」


「私が管理していた期間の帳簿には、不正はありません。それは調べればわかります」


「ああ、わかっている。君を疑っているわけじゃない」


 ヴェルナーが、私の手を握った。


「ただ、気になることがあってな。オリヴィア嬢の周辺から、妙な金の流れが見つかったらしい」


 ——やはり。


 私の予想通りだった。


「王太子は、事態の深刻さにようやく気づいたようだ。君を呼び戻して、帳簿の精査を依頼したいと言っている」


「お断りです」


「ああ。私も断った。——だが、証言だけは必要になるかもしれない」


 ヴェルナーの目が、真剣に私を見つめた。


「君の記録が、不正を暴く鍵になる。協力してもらえるか」


 私は、静かに頷いた。


 これは復讐ではない。


 ただ、真実を明らかにするだけのことだ。


     * * *


 王宮での査問会。


 私は証人として呼ばれ、五年間の記録を提出した。


「この期間の収支は全て記録してあります。不審な出費については、別途メモを残しておきました」


 私が示した記録に、査問官たちがどよめいた。


「これは……オリヴィア嬢への私的な送金では」


「王太子家の公金から、男爵家への不正な流用……」


 アーヴィン殿下の顔が、みるみる青ざめていく。


 隣では、オリヴィアが震えていた。


「そんな、お姉様! 私を陥れるために偽の記録を——」


「偽造ではありません。筆跡鑑定でも、日付の整合性でも、ご確認いただければわかります」


 私は感情を込めずに答えた。


「私はただ、事実を記録していただけです」


「レティシア……」


 殿下が、掠れた声で私の名を呼んだ。


「私は……私は間違っていた。君の価値を、見誤っていた。どうか、戻ってきてくれないか。君なしでは——」


「お断りします」


 私は殿下の言葉を遮った。


「私には、もう帰る場所があります」


 そう言って振り返ると、入り口にヴェルナーが立っていた。


 彼が私に向かって手を差し伸べる。


「帰ろう、レティシア」


「はい」


 私は迷わず、その手を取った。


 背後で殿下が何か叫んでいたけれど、もう聞こえなかった。


     * * *


 ——あれから、半年が経った。


 私とヴェルナーは正式に婚姻し、ハイデン家の一員となった。


 朝、柔らかな光で目を覚ますと、隣にはヴェルナーがいる。


「おはよう、レティシア」


「おはよう、ヴェルナー」


 その一言が、こんなにも幸せだとは知らなかった。


 私は今、騎士団の財務顧問という新しい仕事を任されている。かつての「無能」と蔑まれた仕事が、今では「不可欠」と認められている。


 王太子アーヴィンは、不正発覚の責任を問われ、王位継承権を剥奪されたと聞いた。オリヴィアは男爵位を返上し、実家は没落したらしい。


 けれど、それはもう私には関係のないことだ。


「今日は早く仕事を終わらせる。夕食は一緒にとろう」


「はい。楽しみにしています」


 ヴェルナーが私の額にそっと口づける。


 五年間、報われなかった日々。


 けれど、その先に待っていたのは——こんなにも穏やかな幸せだった。


「ヴェルナー」


「何だ?」


「……ありがとう。私を見つけてくれて」


 私の言葉に、彼は優しく微笑んだ。


「こちらこそ。君に出会えてよかった」


 窓から差し込む光の中、私たちは手を繋いだ。


 これが、私の選んだ幸せだ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


感想・評価・ブックマークいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ