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魔王くんがやってきた

作品を開いてくださってありがとうございます。

具体的ではありませんが、育児放棄に言及したシーンが出てきます。

苦手な方は避けてくださいますようお願いします。

 夏休みだと言うのに補講のために学校に行かされた香菜が家に帰ると、見知らぬ小さな男の子がいた。

「覚えてる?耀子のとこの真緒くんよ」

 耀子は母の年の離れた妹だ。

 若い伯母で数年前――香菜がまだ小学生の頃――に結婚したのを覚えている。

 美人でウェディングドレス姿はとても綺麗でお姫様のようだったと、結婚式が終わってもしばらく興奮していたのを覚えている。

 結婚してすぐに妊娠したはずで、出産してから何度か子供を見せに来てくれた記憶はあるが、ここ2〜3年は香菜の高校受験などもあったため、すっかり疎遠になっていた気がする。

「真緒くんって、あの赤ちゃん――?」

 生まれてすぐの頃とハイハイをする頃くらいに見た記憶があるが、目の前に座っている子供はどう見ても赤ちゃんとは言い難い。

「いやあねぇ。生まれて何年経ってると思うのよ。もう5歳よ」

 母はどこか顔を曇らせながら、務めて明るく話しているように見えた。

 どこか違和感を覚えながらも、香菜は改めて真緒を見た。

 5歳の子供がどのような大きさなのか、高校生の香菜には見当もつかないが、目の前の子供はとても小さくて痩せているように思えた。

 それにどこか薄汚れている気もする。

 着ているものは上等なのだろうが、ちゃんと手入れがされていないようで、くたびれた印象だ。

 表情にも、どことなく子供らしい明るさは窺えないし、何か訳ありなのかもしれないと、香菜は察した。

「お姉ちゃんのこと覚えてないよね?香菜お姉ちゃんだよ」

 母に倣って明るく笑いかけると、真緒は香菜の目をじっと見つめた。

「覚えてる。わた――ぼくがあかちゃんの時に抱いてくれた。ずいぶん大きくなったな」


「ネグレクト?」

 真緒がうとうとし始めたので、ひとまず香菜の部屋に寝かせると、香菜は母からリビングで事情を聞くことにした。

 真緒が生まれてから、燿子はノイローゼ気味になっていた。「自分の子供じゃない気がする」と言っては母に相談しに来ていたそうだ。

 それは真緒が成長するにつれてひどくなっていたらしい。ここ2年は母も香菜の受験などで忙しく、頻繁に様子を見てやれる状況ではなかったため気が付かなかったが、久しぶりに耀子の様子を見に家に行くと、家の中はすっかり荒れ果てて、ゴミの中に小さな真緒が座っていたのだと言った。

「赤ちゃんの頃から本当に泣かない子でね。お腹が空いてもオムツが濡れても全然泣かないの。燿子はそれが気味が悪いって言ってね」

 普通の子供と違う成長を見せる息子が気味悪いのだと、燿子は真緒を避けるようになった。

 真緒の世話は主に真緒の父がしていたそうだが、その父も最近は帰りが遅く、真緒は1人で過ごすことが多くなっていたそうだ。

 夫婦の関係うまく行っていないようで、このままではいけないとしばらくの間母が引き取ることを提案したのだと聞いて、香菜は反対しなかった。

 17歳の自分でさえ、時々母に甘えたくなるのに、5歳の真緒はどれだけだろうかと思うと胸が苦しくなった。

「でもママ、引き取るのはいいけど仕事はどうするの?そんなに長く休めるの?」

「は?何言ってんの。そんなに休めるわけないでしょ。夏休みの間はあんたが面倒見てやんなさい。その後のことはまた考えるから」

「ちょ――投げっぱなしか!」

 そうだ。母はいつもこうだった。

 安請け合いする割に、後のことは全部父や香菜の仕事なのだ。

 だが、今回ばかりは文句を言う気になれなかった。


「真緒くん、ほらパズルだよ。一緒に遊ぼ」

 香菜は自分が子供の頃に遊んでいた組み木パズルを、押入れの奥から引っ張り出してきて真緒に差し出した。

「なんだ」

 画用紙をひたすらクレヨンで塗り埋めていた真緒は面倒そうに顔を上げた。不機嫌そうな顔も可愛いが、笑うときっと可愛いに違いない。

「これはねー丸い形に見えるけど、こうやってバラバラにしちゃって……また組み立て…あれ?バラせない……どうするんだっけ?」

 長年使ってないからだろうか、解き方が思い出せず丸い形の組み木パズルはなかなかバラすことができない。

 木片に悪戦苦闘する香菜の姿を、真緒は哀れみに満ちた目で見つめていた。

「待ってね。もうちょい……うんしょ……ほら!」

 やっとこさで丸かった木の置物は、鍵型の木片へと姿を変えていた。

「これをね、また丸い形にするんだよ。私も小さい頃夢中になったなー」

 パーツをフリフリと真緒の顔の前で振って見せたが、真緒は感情が動いた様子もなく、仕方なさそうに香菜手からパーツを奪い取ると、あっという間に元の丸い形に組み立ててしまった。

「これで満足か?」

「いや――ちょ――」

 真緒は面倒そうな態度のままだったが、香菜が驚いて言葉に詰まると、一瞬だけ狼狽えたような、悲しそうな表情を浮かべた。

「ちょっと真緒くん!すごすぎん?もしかして天才?」

 思った反応と全く真逆の反応だった。

 香菜はものの数秒で真緒が組み立てた組み木パズルを手に掲げて、感動したように目を潤ませている。

「私がこれを解けるようになったのって小学校に入ってからだよ?」

「そうか」

 興味などないと言いたげに投げやりな相槌をして、真緒はまたテーブルに向かった。

 クレヨンを手に持って、画用紙を塗りつぶす作業に戻ろうとしたその時だった。

「ちょ!ちょっと待ってて!ね?」

 興奮気味にそう言うと、香菜はドタバタと大きな足音をたてて家の中を走り回っているようだ。

 騒がしい奴だと、真緒は画用紙と手に持ったクレヨンを見つめた。

 香菜は戻ってくるのだろうか。待つべきなのか、それともこの作業を再開するべきなのだろうかとか考えあぐねていると、興奮気味に香菜が戻ってきた。

「お待たせ!真緒くんほら!」

 香菜の手には四角や丸だけではなく、幾何学模様のような複雑な形の組み木パズルがいくつも載せられていた。


「いやー。真緒くんやっぱ天才だわ」

 おやつにパンケーキを焼きながら、香菜は嬉しそうに独りごちた。

 真緒ときたら持ってきたパズルを全て1分とかからずに解いてみせ、更に難なく元の形に組み立てて見せたのだ。

 もっとも、組み立てる時はやはり子供らしくおぼつかない手つきだったが。

「子供の体というのは力の加減が難しいのだ。こういう細かい作業をするのに適していない」

 香菜が愛しそうに見つめると、不満げにぶつぶつと言いながら手を動かす真緒はとても可愛かった。

 確かに真緒は香菜が知っている子供の姿よりもどこか大人びた雰囲気を感じる。

 それは仕草だったり、口調だったりするが、子供とは大人の真似事をするものだ。きっと真緒も両親に構われていないぶん、テレビなんかで見た大人の真似をしているのだろうと香菜は納得していた。

 家に来て3日が経ったが、真緒は香菜には懐いているらしく、香菜とはよく話してくれる。

 初めこそ自分のことを「ぼく」と呼んでいたが、香菜の前では「私」と言うし、子供らしい素振りを頑張ってしようとすることもなかった。

 香菜はそれが嬉しかった。

「多少変わってても、自分らしさが一番だよねぇ」

 真緒が子供らしい素振りを忘れて、しまったという顔を見せた時に、香菜はケロッとそう言ったのだ。思えば、それからだろう。真緒が子供らしいフリをしなくなったのは。

「できた――けど……」

 ネットで見たフワフワパンケーキのレシピを見ながら作ったそれは、なぜか薄く平たく固い小麦粉の成れの果てだった。

「真緒くんごめんねぇ。こんなはずじゃなかったんだけど」

 申し訳なさそうに、出来上がった小麦粉の成れの果てを見せると、真緒は黙ってそれを手づかみして頬張った。

「どうやったらこんな物体ができるんだ。錬金術でも使ったのか」

「食べなくていいよ!お腹壊すよ!」

「これでいい。お前が私に作ってくれたのだろう?」

 一口目がいつまでも咀嚼できないのか、真緒は諦めたように牛乳を口に含んで流し込もうとしたが、牛乳だけが消費されていくようだ。

「お腹壊すよ?」

「材料の分量は合ってるのだろ?味はそこまで悪くない。ちゃんと食い物だ」

 一生懸命咀嚼しながら言う姿に、香菜は目を潤ませた。

「真緒くんって5歳なのにお兄さんみたいだね」

 香菜がそう言うと、真緒は最後の一口を苦しそうに飲み込んで、香菜の顔を見た。

 どこか怖がっているようなその顔は、香菜の心を締め付けた。

「お前も――私が気持ち悪いか?」

「へ?なんで?」

 けろりと香菜が言うと、真緒は分かりやすく顔を曇らせた。

「私が話すようになると、この者の母は話す前よりも更に怖がるようになった。頑張って幼児らしく話そうと思ったが」

「真緒くん……」

 香菜は真緒の小さな体を包むように抱きしめた。

「こんなちっちゃい頭と体でそんなこと考えてたのか!大丈夫だよ!お姉ちゃんが一緒にいてあげるから」

「いや、そう言う意味では…」

 香菜の腕の中で諦めきった表情で真緒は口の中でもごもご言ったが、当然香菜には聞こえていない。


「あーうん。ごめんねぇ」

 真緒が昼寝から目覚めると、リビングから香菜の声が聞こえてきた。

「前も言ったじゃん。親戚の子がうちに来てんの。親仕事だから私が面倒――は?なに言ってんの?意味わかんないんだけど」

 真緒に話しかけるような優しい口調ではなく、もっとくだけた話し方だが、段々イラついてるようにも聞こえて、真緒はリビングに入るのをためらった。

「え?別れるって……ちょ……マジか。切りやがった……」

「男か?」

 電話が終わったのを確認すると、真緒はリビングの中に進み入った。

「真緒くん。聞こえてたの?」

「私のせいか――」

「は?違うし」

 真緒の言葉に食い気味に香菜が否定した。

「そもそも相手の事情を一切受け入れようとしないような奴、こっちからお断りよ」

 香菜は胸を張って見せたが、真緒の表情は晴れなかった。

「明日は悠哉の誕生日だったんだけど、お母さんも明日は外せない仕事があるから休めないって言うし、仕方ないじゃない?」

「私はよく知らぬが、誕生日と言うのは特別なのだろ?」

 真緒は生まれた時から誕生日を祝ってもらったことがない。母親が生まれてすぐに滅多と泣かない我が子を気味悪がったせいで育児放棄されていたからだ。

「あのね、17歳の男が5歳の男の子の事情を聞いても自分の誕生日を譲れない上に、そんなことで別れるとか言っちゃうなんてバカすぎると思わない?」

 香菜は強気に言ったが、その手にはスマホが握られたままだった。

 真緒は香菜に声をかけようとしたが、香菜はすぐに立ち上がって「おやつ食べよう」と台所へと向かっていったので、真緒はその場にちょこんと座って香菜が置いていったスマホをぼんやりと眺めていた。


「香菜、お父さん明日夏休み取ったから、真緒くんの面倒はお父さんに任せて遊びに行ってきなさい」

 残業を終えて父が帰ってきたのは22時を過ぎた頃だった。

 真緒はとうに眠っている。

 香菜はなぜか、真緒が何かしたのかと思ったが、そんなはずはない事はすぐに理解した。

 いくら大人びてても真緒は5歳なのだ。

 あの後、母が買ってきてくれていたプリンを満足そうに食べて、香菜が読み聞かせた絵本を退屈そうに聞いていた。

「せっかくの夏休みなんだし、な」

「うん。ありがとう、パパ」

 香菜は父の心遣いが偶然であると思い、素直に受け入れることにした。


 翌日、香菜は朝から普段より念入りにメイクをして、一番お気に入りのチュニックとハーフパンツに、真緒と遊ぶ時には履けない少し踵のあるサンダルを履いて嬉しそうに出ていった。

 真緒は香菜の父が公園でボール遊びをしようと誘ってきたのでついていくことにした。

 しかし、香菜の父はきっと育児などしたことが無かったのだろう。

 真昼の炎天下の公園は遊んでいる子供など1人もおらず、帽子を被っていた真緒はともかく、父はすぐに熱気にやられてベンチに倒れ込んでしまった。

「真緒くん……ごめんねぇ」

 考えなしに行動するのは似たもの夫婦なのだろうかと、真緒はぼんやりと考えていたが、このまま父親をここに置いておくのもよくないと考えた。

 そういえば公園の入り口に自動販売機があったなと思い出した。

「おじさん。そこの自動販売機でお水買ってきてあげるから小銭ちょうだい」

 香菜の父は、言われるがままにポケットから小銭を出すと真緒に持たせた。

 自販機は目の届く場所にある。大丈夫だろうと安易に考えていたが、真緒の背中を見守ることさえ辛くて目を閉じてしまった。


 自動販売機はありがたい事に真緒の身長でもお金を入れることはできたが、商品のボタンが届かなかった。

 なぜ水を上の段に配置するのだ。

 真緒はイライラしながら周りをキョロキョロと見回したが、夏休みとはいえ平日の真昼間――しかも炎天下――に出歩くバカはいないようだった。

 歯痒さにイライラしながら真緒が一生懸命に手を伸ばしていると、「真緒くん?」と聞き慣れた声が耳に届いた。

「なにやってんの、ひとりで」

 声の主は香菜だった。

 真緒はホッとして香菜を見上げると、そのまま首を公園のベンチに向けて香菜の視線を父に誘導した。

「いや、ありえないでしょ……」

 父の情け無い姿に呆れながら、香菜は自動販売機からスポーツドリンクと麦茶を買った。


「ところで、なんでこんなに早いんだ?」

 父にスポーツドリンクを飲ませて無事帰宅し、リビングでクーラーの恩恵に与っていると、真緒が尋ねてきた。

 香菜が出かけたのは11時だったが、今はまだ12時半だ。

 起きてくるのが遅かった父のせいで、まだ昼飯にすらありついていないが、真緒は空腹には慣れていたので文句はなかった。

 だが、彼氏に謝って仲直りしてくると嬉しそうに出かけたのに、香菜の帰りが早くすぎる事に真緒は不思議だった。

「ゆーやとやらには会えなかったのか?」

「あー……まぁ、ね」

 表情を強張らせて言葉を濁す香菜に、真緒はソファの上に立つと、小さな手で香菜の頭を撫でた。

「言いにくいことがあったのだな。なら言わなくていい」

「真緒くぅん……」

 真緒の手が不意に柔らかくて暖かかったため、香菜は強張っていた表情を崩すと、その小さな体をぎゅっと抱き寄せた。

「家にね、行ったんだよ。謝ろうと思って。そしたらさ……」

 話しながら泣き始めて香菜の言葉を要約すると、悠哉の最寄駅に到着してホームに降りると、話したこともないが顔だけは知ってる同級生の女子と腕を組んで歩く悠哉と鉢合わせした。

「あの女、前から悠哉のこと狙ってるって噂はあったんだよ。でもさ?だからって昨日の今日で乗り換える?そんで、スルーだよ?ちょっとは慌てるなり気まずそうにするなりしろよ!んであいつ!あの女!勝ち誇ったみたいに笑って!マンガか!お前はドラマの主人公か!」

 ぎゅうぎゅうと真緒の体を抱きながら、香菜は怒りに任せて喚き散らした。

「あいつから付き合ってって言ってきたくせに!誕生日プレゼントはお前がいいとか絶対それ目当てだったんじゃん!誰でもいいんじゃんか!私の3ヶ月返せよ!」

 言いながらポロポロと涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにする香菜に、真緒は困ったが体をしっかりホールドされているので動くこともできない。

 真緒は諦めて、その小さな腕を香菜の体に回した。

「そんな男は見切りをつけて正解だ。お前の時間と体をもっと無駄にするところだった」

「真緒くん……」

「香菜にはもっと相応しい相手がいる」

「いるかな……」

「香菜はよい女だ。もし大人になって誰もいなかったら私がもらってやる」

「真緒くんが大人になる頃には私おばちゃんだよ……」

 12歳の差がある事など5歳児にはわからないのだろう。

 だが香菜は真緒が一生懸命慣れないながらも、香菜を元気づけようとしてくれるのが素直に嬉しかった。

「そもそも男というのは、若い頃は特に見境がないものだ。香菜のせいではない。その男が下半身の制御すらできぬ阿呆だったと言うことだ。それに、取り返しがつかぬようになる前にわかってよかったではないか」

 真緒の言うことは尤もだった。しかし、その前に気になった。

「真緒くんて人生何周目なの?」


「薄々気付いてると思うが、私は、この世界の人間ではない。故あってこの姿だが、本来は別世界で魔王と呼ばれていた」

 香菜の言葉に、真緒は真剣な顔で答えた。

「人間と魔族の長きに渡る戦いの末、勇者と天使の策に嵌ってこの世界にやってきた」

「真緒……くんだよね?」

「魔王、だ」

 真剣な顔を崩さない真緒に、香菜は動揺した。

 ――やばい。

 香菜の顔色を見て、真緒は少し不安そうな顔を浮かべた。

「真緒くん。そっか。そうだったんだね」

 しかし、真緒の不安をよそに香菜の顔は晴れやかだった。

「大丈夫だよ。お姉ちゃん、そう言うの全然大丈夫だから!」

 涙と鼻水をティッシュで拭いながら、香菜はにこやかに笑って見せたので、真緒はガックリと肩を落とした。

 伝わってないなこれ。

「お姉ちゃんは真緒くんが魔王でも怖くないからね!うちのクラスにも眼帯とか包帯とかしてきちゃう子いるんだよ。こないだもなんか、超空武究天聖波とか言ってたんだよ。じゃあ明日は魔界ごっこして遊ぶ?」

 香菜は確信した。

 この子はきっと中二病に違いない。5歳にして中二病なんて早すぎるけど、テレビばっかり見せられてたって言ってたから、アニメとかで覚えてしまったのだろう。

 そして、自分の中にイマジナリー魔王なんてのを作り出しちゃったんだ。

 香菜は真緒が小さい体で、現実から逃げようとしている事に心を痛めた。


 真緒は香菜が週2回の補講に行ってる間は、在宅ワークに切り替えた母と過ごしていたが、それでもつきっきりでそばにいられるわけではない。

 そういう時は、大体テレビを観て過ごすことが多かった。

 特に、香菜が生まれるよりもっと前に作られた、アライグマが少年と心を通わせるアニメが好きなようだった。

 いつもは興味なさげに、画面を目で追っているだけなのに、そのアニメだけは食い入るように観ていたのだ。

「真緒くん。ほら!」

 いつもは昼頃に帰ってくる香菜の帰りが遅かった日。

 香菜は帰ってくるなり真緒の目の前に得意げにアニメに出てくるアライグマのぬいぐるみを突き出した。

「真緒くん好きでしょ?この子!今日から魔王さまのお供だよ」

 香菜が鼻息荒く言うと、真緒はいつもの冷めた態度でぬいぐるみを受け取った。

「子供じゃあるまいし……」

 渋々といった態度だったが、その日以来真緒の横には何故かいつもアライグマが寄り添っていた。


 真緒は暇になると、画用紙をクレヨンで塗り潰していた。

「絵は描かないの?」

 1箱目のクレヨンを全て使い切ったので、2箱目を買ってやると、真緒は特に嬉しそうでもなかったが素直に受け取った。

「絵は、描いたことがない」

 申し訳なさそうに真緒が言うと、香菜は一緒に絵を描く事を提案した。

 そして、猫の写真をスマホで見せて、これを見て模る事を教えた。

「うん。初めてにしちゃ上出来だよ」

 出来上がった絵は線がぐちゃぐちゃと引かれただけのものだったが、香菜は嬉しそうに褒めた。

「前も言ったが、この体は力の加減が難しいのだ。力を入れれば全力だし、そのくせ体力もないからすぐに眠くなる。力を抜けば綿を摘む程度しかできぬから、呆れるほど細かい動作に適さぬ」

「魔王の時はお絵描きなんかしなかったの?」

「魔王は絵など描かぬ」

 そっかーと香菜が笑うと、真緒は分かりやすく不機嫌そうに溜息をついた。

「いっぱいお絵描きしてたら上手になるよ」

 耳の端を赤くしながら顔を背けた真緒に、香菜は嬉しそうに笑った。


 香菜は真緒と過ごす時間がとても楽しかった。

 日中は香菜が、夜は母が真緒に愛情を注ぎ、そこに時々父も加わって、真緒はみんなから与えられる愛情に困惑しているようにも見えたが、同時に少しずつ馴染んでいるようにも見えた。

 香菜と接する時のような大人びた口調こそ出ないが、母が帰宅すると、必ずその近くで絵を描いたり絵本を読んだりするし、父が家にいる時は父の横で昼寝をするようになった。

 香菜の両親も、真緒が可愛くて仕方ない様子で、とても平和で幸せだった。

 しかし、夏休みもあと一日という日曜に、その平和は曇りを見せた。

 いつも通り1日を過ごし、夕食を終えた頃に真緒の両親がやってきたのだ。

 玄関に立った真緒の両親は、迎え入れた香菜の両親のさらに後ろにいた香菜の足元に隠れるように立っていた真緒には見向きもしなかった。

 香菜の両親は香菜と真緒に、香菜の部屋に行くように言うと、強張った表情でリビングに真緒の両親を連れて行った。

 部屋に入って膝を抱えて座り込む真緒を見て、香菜はぬいぐるみをリビングに忘れてきた事を思い出した。

 今取りに行くのはよくないのは、香菜でなくてもわかる。

 香菜は仕方なしに、ぬいぐるみの代わりに真緒の隣に座って、右手で真緒の小さな体を抱えるように寄り添って、閉められたドアを見つめた。

 このドアがどれだけ真緒を守ってくれるかはわからない。それでも、少なくとも彼らの会話からは守ってくれるに違いない事を祈って。

 そうは言っても広くない家だ。リビングの会話は漏れ聞こえてくることもある。

 初めは何を言ってるかわからない程度だったが、やがて興奮した耀子の声が響いた。

「だから!あんな子私の子じゃないって言ってるじゃない!」

 全ての扉を突き抜けるヒステリックな声は、間違いなく耀子のものだった。

「耀子!」

 真緒の父と香菜の母の声が同時に聞こえる。

「言い過ぎだ!仮にも僕らの子供じゃないか!」

「あなたも気が付いてたでしょ?あの子……赤ちゃんの頃から泣かないのよ。それだけじゃないわ。ずっと私を見てたの……」

「赤ん坊が母親を目で追うのは当たり前だろ!」

「違うわよ!あれは……あれは私を観察してたのよ!あなただって言ってたじゃない!真緒が怖いって!」

 ヒステリックな耀子の声は嫌でも耳に入る。

 香菜は真緒を抱きしめて、なるべくその声が耳に入らないようにしてあげるしかなかった。

「確かに時々薄気味悪いと感じることはあるさ。でも、僕らは親だ。あの子を産んだ責任があるだろ?君だってあの子が生まれるのをあんなに楽しみにしてたじゃないか」

「確かにあの子は私のお腹から出てきた……でもあの子は私の子じゃない!あんなの、人間じゃない!連れて帰るなんて嫌よ!」

 それからは大人の怒鳴り合う声が聞こえるだけだった。

「香菜。大丈夫だ。ちょっとトイレに行ってくる」

 トイレは部屋を出てすぐだからリビングは通らない。大丈夫だろうと香菜が手を離すと、真緒は立ち上がってしっかりした足取りで部屋を出て行った。

 やはりトイレまで着いて行ったほうがいいのではと、香菜が立ち上がると同時に、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。

 大人たちはまだ怒鳴りあっている。

 真緒が出て行ったに違いない。

 香菜は急いで立ち上がると真緒を追いかけた。


 5歳児の足では遠くに行けるはずもなく、真緒は家のすぐ近くの公園のベンチに座っていた。

 8月も終わりの18時は日も沈みかけて薄暗くなりつつあった。

 ベンチに近寄ると、真緒は小さな膝を抱えて顔を埋めていた。

 香菜は真緒の隣に座ると、真緒の体を抱きしめた。

「泣いてないぞ」

 腕の中で真緒が言うと、香菜は真緒の頭を優しく撫でた。

「泣いていいんだよ。真緒くんは大人のフリなんかしなくていいんだから」

「そうではない。ただ――申し訳ないのだ」

 真緒の声はしっかりしていたが、暗く感じた。


「私がこの子供の体に封じられなければ、母は我が子を思う存分抱き締め愛することができたのだと思うと申し訳ないのだ」

「真緒くんのせいじゃないよ」

 この子はこんな時でも――いや、こんな時だからこそ、現実から逃避する設定を組み立ているんだと香菜は胸が苦しくなった。

「いや、香菜。私のせいなのだよ。私が勇者と天使の策略に嵌らねば――いや、人間などと侮って無碍に扱ったからこのような事になったのだな」

 真緒の声は、いつもの舌足らずな5歳児のそれだったが、なぜか大人が話しているように錯覚した。

 いや、まさか。

 香菜は真緒を抱く腕を緩めて、腕の中にいる真緒をそっと見たが、そこにいるのは案の定5歳児の真緒だった。

「産み落とすだけの魔族には家族という概念がない。だが、人間は家族というものがあるのだと知っていた。知ってはいたが、理解はしてなかった。だから子を殺された親が、親を目の前で殺された子が、どういう感情を持つのか知らなかったのだ。だから、平気で殺した」

 これは誰が話しているのだろう。5歳児の語彙ではない。でも声は間違いなく真緒のものなのだ。

 香菜はどこかぼんやりと聞いていた。

「勇者は私が殺した者の子供だと言っていた。あの者は苦しかったのだな」

 重い言葉だ。

「魔族は人間を好んで殺すわけではない。ただ、人間より魔力が強く、異形のものが多いため人間に忌避されていた。だから殺されたし殺した。それ自体は悪いとは思っていない。我らも魔族というだけで攻撃されていたのだから。だが、もっとやりようはあったのではないかと思う」

 香菜は真緒の体を抱いてた腕を離して、真緒を見た。

 その顔はとても大人びていて、どこか後悔の色が浮かんでいた。

「真緒くん……?」

「その私の行いが結果的に、母からこの子供を奪い、この子供から母を奪ったのだな」

 真緒は相変わらず小さな背中を丸くして、ベンチの上で膝を抱えている。

 その背中はとても小さくて今にも消えそうだった。

 香菜は真緒の体を再び抱き締めた。

「真緒くんは悪くないんだよ。子供って親を選べないけど、親は子供を産むかどうかを選べるんだから。耀子さんは産むことを選んだのに、真緒くんが自分が思った通りの子供じゃなかったからってわがままなんだよ」

「違う。香菜。それは違う。母はわかっているのだ。我が子の中にいるものが自分の子供でないことを」

「真緒くんは真緒くんだよ。何を言ってるの」

「私は真緒ではない。何度も言っているだろ」

「真緒くんだよ。真緒くんが例え魔王でも、私にとっては大事でかわいい真緒くんなんだよ」

「私が醜い魔族で、数多の人間を屠った魔王でもか」

「それでも!もし真緒くんの前世が本当に魔王でも、今の真緒くんである事には変わりないでしょ?大人になったらお嫁さんにしてくれるんでしょ?私は真緒くんが大好きだよ」

 大好きと香菜が言った瞬間だった。

 真緒の体から目が眩むほどの光が発せられて、香菜は真緒が消えてしまうような気がして慌ててその小さい体を更に強く抱き締めた。


 その光はとても長い時間のようであり、一瞬のようでもあった。

「おねえちゃんくるしいよ」

 腕の中で舌足らずな甘えた声がした。

 慌てて力を抜くと、真緒が不思議そうな顔で香菜を見上げている。

「真緒……くん?」

「なぁに?」

 無邪気に香菜を見上げる真緒の顔には、香菜が知ってる大人びた真緒の表情はなかった。

「どうしたの?おねえちゃん」

 どうしたというのだ。さっきまでは確かに5歳と思えない程大人びた話し方だったのに、今はまるで5歳児のようではないか。いや、正真正銘の5歳児なのだが。

「真緒!真緒!」

 香菜が戸惑っていると、真緒の父親が真緒の姿を見つけて駆け寄ってきた。

「あ!パパ!」

 その姿を見るなり、真緒はパッと顔を輝かせて香菜の腕をするりと抜けて父親に駆け寄った。

「なんで急に家を飛び出したんだ?このいたずらっこめ」

 真緒を抱き上げる父親もまた、普通の父親のようだった。

 どういうことだ。あれだけ真緒を怖がっていたというのに。

 香菜が混乱していると、父親は真緒を抱き上げたまま香菜に笑顔を向けた。

「香菜ちゃんありがとうね。この聞かん坊の面倒を見てくれて」

「え……いえ」

「耀子も退院したし、また家族で暮らせるぞ」

「ほんと?ママもう痛い痛いないの?」

 耀子が退院?

 どういうことだ。耀子は真緒を恐れてネグレクトとなってしまったから、見かねた香菜の母が保護を申し出たんじゃないか。


 家に戻ると、真緒は一目散にリビングにいる耀子に抱き着き、当たり前のようにその膝の上に座った。

「もう。真緒ったらもうすぐお兄ちゃんになるっていうのにいつまでも甘えん坊ね」

「ぼくおにいちゃんになるの?」

 真緒は弾かれるように耀子の顔を見上げた。

「そうよ。お腹に真緒の弟か妹がいるの。おにいちゃんになったらちゃんと守ってあげるのよ」

「そうだぞ。いつまでも甘えん坊の聞かん坊じゃだめだぞ」

 その姿はまるで愛情に溢れた家族そのものだった。

 香菜は戸惑いを隠せずに、静かに母を台所に引っ張った。

「ねぇ。どうなってんの」

「なにが」

 混乱を隠さない娘に、母は怪訝な表情を見せた。

「何がって……耀子さんよ」

「耀子?見てのとおりじゃない。妊娠中毒症で入院してたけど、やっと退院できたのよ?今朝言ったでしょ?可哀想に入院前はあんなに浮腫んでたのに、すっかり痩せちゃって…」

 今朝言われたのは、耀子が家に来るから真緒が傷つかないよう側にいてやれという事だ。

 だが、母の顔は揶揄ったり嘘をついている顔ではない。

「真緒くんだけど、うちで引き取ったのって耀子さんのネグレクトが原因じゃ……ないよね?」

 香菜は慎重に尋ねた。

「はぁ?何言ってんの、あんたは。耀子がどれだけ真緒くんを可愛がってたか知ってるでしょ。入院になって一番悲しんでたのはあの子なんだから滅多な事いわないの。あの子にそんなこと言ったら卒業するまでお小遣いあげないわよ」

 母は怒り半分に呆れながら、香菜のおでこを軽く叩くと、香菜をその場に残してリビングへと戻っていった。


 その夜、真緒は嬉しそうに両親に手を引かれながらも、名残惜しそうに何度も振り返って手を振って自宅へと戻っていった。

 香菜は彼らが帰るまで何も言わなかった。

 時折、真緒が香菜にどうやって遊んでもらったかを嬉しそうに話して聞かせる度に、適当に相槌を打つ程度で。

 あの子は誰だったんだろう。

 部屋で一人になった香菜は真緒のために買ったぬいぐるみを抱いて溜息をついていた。

 自分が過ごしたのは確かに真緒だった。

 しかし、5歳児と思えないほど大人びて、自分を魔王だという中二病の子供だった。

 実の母に拒絶され、父に恐れられて寂しそうにしていたあの子供は一体どこに行ったのだろう。

「もしかして――本当に魔王……」

 いや、そんなわけがない。

 きっと真緒は両親と離れた寂しさで、自分が魔王だという遊びに没頭していたのだ。

 だとしたら、あの両親の変わりようは一体……。

 考えてもわからない。

「いいじゃない。真緒くんが幸せなら」

 ぬいぐるみをぎゅっと抱き締めると、香菜は声に出して言った。

「そうだな」

 低く響く美しい声が部屋の中から聞こえて、香菜は飛び起きた。

「誰?」

 部屋に誰かがいるはずがない。なのに声は確実に部屋の中からしたのだ。

 外から聞こえたとしても嫌なものだが。

 飛び起きた目の前にいたのは、長い黒髪に白い肌をした切れ長の目の美しい男だった。

 現実離れした美しさだったが、現実離れしているのは美しさだけではなかった。

 長い髪から突き出た羊のような角は髪と同じく黒く、衣装はまるで鎧のようだ。更に背中からは黒い翼が生えている。

 香菜は一瞬大声で叫ぶのも忘れてその男を見つめた。

「ま……お……くん?」

 全く似ていないのに、なぜか香菜の口から出たのは真緒の名だった。

「真緒ではない。魔王だと何度も言っただろ」

 その口調は香菜の知っている真緒のそれだった。

「お前のおかげで呪いが解けたようだ。感謝する」

「呪い――」

 真緒が言っていた事は本当だったのだ。

「じゃあ真緒くんは」

「元の真緒だ。あの者や両親の人生も元に戻ったようだ――天使のやつ、相変わらずいけすかんやり方だが」

 忌々しげな口調だが、表情は優しかった。

 真緒と両親の記憶は作られたものではなく、魔王が封じられていない世界線と統合したからだと教えられたが、それならなぜ香菜は魔王を覚えているのだと不思議に思った。

「私が覚えていて欲しいと願ったからだ」

 魔王が少し寂しそうに微笑んだことに、香菜は気が付いた。

「うん。覚えてるよ。だって私も真緒くんと一緒にいて楽しかったもん。忘れたくないよ」

 香菜はいつも真緒に話していたように、元気づけるような笑顔で魔王に言った。

「私は元の世界に戻る。癪だが魔族と人間との諍いを解決できないか考えてみたいのでな」

「そう――なんだ」

 魔王の言葉に香菜は寂しさを感じた。

 自分が一緒に過ごしたのは魔王ではなく、真緒なのに、なぜか目の前の魔王にも愛着を感じていた。

 魔王がいなくなれば、魔王だった真緒を知っているのは自分一人になってしまう。それは、あの真緒がいなくなるような気がして寂しかった。

 いや、真緒は元の魔王に戻ったのだから、いなくなったわけではない。

 魔王は元の姿に戻ったし、真緒も元の愛情あふれた両親との生活を取り戻したのだ。いいじゃないか。

 ああ。

 香菜はやっと理解した。

 一人になってしまうのは自分なのだ。

 誰とも共有できない記憶を持って、自分はこれから生きていかないといけない。

 それはまるで、この世に一人取り残されたかのような、言いようのない寂しさだった。

「一緒に来るか?」

 魔王の言葉に香菜は驚いた。

「天使の力がもうすぐ消えてしまう。そうすると私はこれ以上この世界に留まる事は出来ない。そして、元の世界に戻ってしまえばもう二度とお前に会うことは適わない。私はそれが寂しい」

「でも、そしたらお母さんとお父さんは?」

 今度は自分の両親が娘を失うのだ。

「私が連れて行けるのは、私と記憶を共有しているお前だけだ。元のお前はここに残る」

「ど……どゆこと?」

「お前以外の人間と同じだ。私がいなかった世界線のお前は私の事を知らない。だが、お前は知っている。だから私が連れて行くのはお前だけで、私を知らないお前はここに残るのだ」

「じゃあ、お父さんとお母さんは……」

「変わらない。私を知らないお前がそばにいるだけだ」

 それはとても魅力的な提案に思えたが、香菜はすぐに思いとどまった。

「真緒くんと一緒に行ったら、もう二度とお父さんとお母さんには会えないの?」

 香菜の言葉に魔王は顔を曇らせた。そして、数秒の沈黙の後に頷いた。

 魔王の手を取れば二度と両親に会えない。だが、今魔王の手を取らなければ魔王も自分も記憶だけ取り残されてお互いの世界で一人になってしまう。

「すまない。酷な願いだったな」

 魔王はそう言うと香菜の前に一歩足を進めた。

 そして、その手を香菜に伸ばすと額に優しく触れた。

「お前の記憶を消してやろう。そうすれば今のお前は私を知らないお前と統合する。苦しむことはない」

「じゃあ、真緒く……魔王は?」

 香菜は魔王の手を包むように握って自分の額から離させた。

「私は、お前を忘れたくはない。お前が私の呪いを解いてくれたから」

 魔王の瞳は赤いのだと香菜は改めて思った。

 真緒とは全く違うのに、その目に真緒を感じていた。

 姿は違うが、この子はあの寂しがって膝を抱えていたあの子のままだ。

 自分がいなくなれば、この子は今度こそ本当に一人になってしまう。

「一緒に行こう」

 考えるより先に言葉が口から出ていた。

 両親には自分が残るが、魔王には私だけなんだと、香菜は思った。

 だったらいいじゃない。ちょっと早い親離れだよ。

「しかし――」

 魔王は香菜に握られた手を振りほどけずにいた。

「お前から両親を奪うのだぞ」

「魔王がいるよ」

「だが、私を嫌いになるかもしれない」

「ならない……とは言わないけど、なったらなったでその時考えようよ」

「しかし」

「一緒に来いって言ったのは魔王だよ?今更ビビッてんのダサくない?」

「な――」

 香菜の言い分に魔王はたじろいだ。

「寂しいんでしょ?一緒にいて欲しいんでしょ?だったらそう言えばいいじゃない」

 香菜はベッドから立ち上がると、魔王の前に進み出た。

 香菜がにじり寄るたびに同じだけ後ずさったせいで、魔王は背中に壁をくっつけた形になってしまった。

「どうなの?」

 逃げ場がなくなった魔王は、自分の目をじっと見つめる香菜から目が離せなかった。

「時間がない」

 魔王はそう言うと香菜の体をしっかりと抱き締めた。

「嫌だと言っても遅い。連れて行く」

 その言葉と同時に、香菜の体は温かい光に包まれたような気がした。


 香菜は気が付くとベッドの上でぬいぐるみを抱いて座っていた。

「あ、真緒くんてばこの子忘れて帰っちゃった」

 耀子の入院のためにうちに預けられることになった真緒は、見慣れない家で過ごすのが不安だったようでよく泣いていた。

 いくら香菜や両親が宥めても泣き止まないから、香菜がお小遣いをはたいて真緒の好きなキャラクターのぬいぐるみを買ってきてやったら泣き止んだのだ。

 それ以来、真緒はずっとそのぬいぐるみと一緒にいたし、ぬいぐるみをくれた香菜からも離れなかった。

 今度の休みにでも届けてあげよう。

 香菜はぬいぐるみをとどけたら真緒がどんな風に喜ぶだろうと考えると嬉しくなった。

「そんな幼子の喜ぶようなもの――」

 そう言いながら、渋々ぬいぐるみを抱き締めた真緒が一瞬だけよぎって、香菜は胸を抑えた。

 なぜだろう。とても大切な事を忘れてしまった気がする。

 しかし、次の瞬間にはその感覚すらも忘れていた。

 明日から新学期が始まるのだ。遅刻しないように早く寝よう。

 香菜はぬいぐるみをベッドの脇に置くと、電気を消して自分もベッドにもぐりこんだ。

最後までお読みいただきありがとうございます。

魔王サイドのお話を書いて完結にしたいと思っています。

続きもお読みいただけると幸いです。

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