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 地毛かつら付き寝かしつけ人形が自宅に届いたのは、きっかり一ヶ月半後のことだった。


 運んで来た運送業者は「そうとう重いですよ、これ。一体何なんですか?」と言いながら、床に段ボール箱をどしんと置いた。開けるとラベンダーの微かな香りが狭い玄関に充満した。


 箱の中にうずくまる地毛かつら付き寝かしつけ人形の垂れた頭部には、黒々とした髪がとぐろ巻いている。

 私と一緒に覗き込んだ娘はさっそく左手を伸ばして髪に触った。条件反射のように右の親指を口に持っていく。どうやら気に入ったようである。


 結論から言えば、地毛かつら付き寝かしつけ人形の効果はテキメンだった。


 その夜、人形の体をやや湾曲させ、寝転ぶ娘にぴったりと添わせると、娘はなんの疑いもなく人形の髪を引っ張り始めた。地毛かつら付き寝かしつけ人形は娘の手の動きに合わせてわずかに頭部をぐらつかせている。

 やがて娘の目はとろんと細くなる。そして穏やかな寝息を立て始めた。



 不要になった寝かしつけの時間を利用して私は半年の間に文庫本を十三冊(ミステリーを六冊、ホラーを四冊、SFを二冊、恋愛を一冊)読了し、アラン模様のニット帽と花のモチーフの付いたトートバッグとウーパールーパーの編みぐるみを編んだ。

 桜並木の柄(五百ピース)とモン・サン・ミシェルの夜景(千ピース)のジグソーパズルを完成させ、通信講座で民間の資格 (チャイルドマインドカウンセラー)を一つ取得した。


 もちろん半年の間に頭痛や肩こりからは解放されたし、頬のシミと目の下のクマは完全に消失した。短く切ることを許された髪はずっと、ショートカットを維持していた。







 懸賞付きクロスワードの応募専用ハガキを雑誌から切り離す途中で、ほんの少し破いてしまう。これくらいなら構わないだろうと住所を記入していたら、書き損じてしまったのをきっかけに、私は腰を上げた。


 夫は今朝、三泊の出張に発ったばかり。だから夕食を簡単なもので済ませ、いつもより早い時間に娘を寝室へと連れて行った。

 娘が地毛かつら付き寝かしつけ人形と共に布団に入ったのを見届けた後、私はリビングで懸賞付きクロスワード雑誌を開いたのである。


 クロスワードパズルを解く最中、私には絶えずある感覚がつきまとっていた。今までに感じたことのあるようなないような、違和感と呼ぶには大袈裟な、それでいて無視できないこの感じは、私の肌を粟立せ、膝を小刻みに揺すらせていた。


 いつもと違うことと言えば夫の出張だが、彼の不在がその原因とは思えなかった。出張は日常茶飯事なのだから。


 部屋の中を見回してみても、その正体はやっぱりわからない。

 なんとなく腕をさすり、時刻を確認すると、二十一時を回ったところだった。私は寝室へと向かった。


 向かう途中、唐突に悟った。家の中に、私と娘以外の何かがいる。粘度の高い気配が寝室のドアの隙間から漏れ出し、廊下に溢れ、私の足に絡みつく。

 蜂蜜のようにとろとろと、家中を犯しつつある気配、甘く香ると同時に毒を秘め、人ひとり殺しかねない気配。それを断ち切るように足を進めた。


 寝室で、闇に慣れた私の目に映ったのは、娘が人形と寝ているはずの布団に居座る縦長の影である。

 照明のスイッチに、私はゆっくりと手を伸ばす。


 体を起こした地毛かつら付き寝かしつけ人形の姿が白い光に照らし出される。普段ならば重力に負けてぐんにゃりと折れ曲がる首は、脊椎が通ったようにしっかりと立ち上がっている。

 お姉さん座りをした人形の膝には、娘の肩から上が乗っている。頭には人形の左手が添えられており、指のない丸い右の手が、娘の二の腕をポンポンと叩く。


 地毛かつら付き寝かしつけ人形がこちらを向いた。墨よりも黒いボサボサ髪を揺らし、のっぺらぼうの顔を心持ち傾けて。左手で娘の頭を、これ見よがしにそっと撫でながら。


 それは無い目で私を嘲笑い、無い口を歪めて私を侮蔑した。


 私は何も言わなかった。ただ娘の頭を人形の膝から布団へと下ろした。娘は万歳の姿勢で横たわる。熟睡している時の彼女の癖だ。


 人形は再び娘に触れようとするが、私はその手を払って足を引っ掴み、そのままずるずると引きずってリビングへと戻った。




 地毛かつら付き寝かしつけ人形との闘いは熾烈(しれつ)を極めた。


 リビングの扉を開けた瞬間、地毛かつら付き寝かしつけ人形は、握られていない方の足で私を蹴った。とっさに床に手をつく。

 人形は倒れた私の背にのしかかってくる。髪をつかもうとしてくるが、指のないのが幸いして、人形の手は私の後頭部をつるつると撫でるだけである。その隙に私は上向きになり、人形の腹あたりを蹴り上げた。地毛かつら付き寝かしつけ人形は仰向けに倒れた。反対に私はそれに被さった。


 髪をつかんで引っ張っても地毛かつら付き寝かしつけ人形の髪の毛は一本も抜けない。さすが、三十万円近くしただけのことはある。

 人形が重みのある腕で私の脇腹を叩くので思わず手が止まったところを、顎を思い切り、丸い拳で打たれた。肩がテーブルにぶつかった弾みで、懸賞付きクロスワード雑誌が落下するのが視界を掠める。


 私と同時に起き上がった人形ののっぺらぼうのド真ん中、生身の人間でいう人中(じんちゅう)に、金槌で釘を打つ要領で拳を入れてやると、それは再び後ろに倒れ窓に激突、部屋全体がガタンと揺れた。しかしまたすぐに向かってくる。

 私たちは組み合った。のっぺらぼうの涼しい顔が間近に迫る。お互い一歩も引かぬまま膠着状態が続いた。その間、五分くらいだったろうか、四十分もあったろうか。

 だが戦況は無生物である地毛かつら付き寝かしつけ人形の方に有利に働くようだった。私の疲労は限界まできていた。


 ついに、私は壁際まで追い詰められつつあった。壁に押し付けられる直前、かかとを支点に私はどうにか向きを変えた。そして人形の押す力を利用して、争いの場を徐々に台所へと移動させた。

 ゴミ箱がひっくり返り、棚から落ちた幼稚園体験入園のパンフレットや絵本、幼児用ドリルの散らばった床の上を、裸足の足と帆布の足とが音もなく滑ってゆく。私の荒い息遣いが、まだ浅い夜の空気にさらなる緊張を与える。


 我々はシンクの前まで来た。不意をついて体を引く、人形はつんのめる。うずくまった瞬間、隙を見て食器乾燥機から包丁を取り出した。それを逆手に持ち、思い切り人形の背に突き立てた。体重をかけてさらに奥へ奥へと押し込むと、刃の先がコツンと硬い物に突き当たる感覚があった。床まで貫通したのだろう。包丁を、力を込めて横に引く。帆布が裂け、中から多量のビーズのようなものが床に散らばった。


 そこで初めて地毛かつら付き寝かしつけ人形の動きは完全に停止した。

 口に広がる鉄の味、鈍い痛み。


 包丁を片手に肩で息をする背後で起こった「ヒーッ」という甲高い声に振り向くと、娘が立っていた。

 私は言った。


「もう大丈夫だよ、お母さんと布団に行こう」


 だが微笑みと共に差し伸べた私の手は、いつまでも宙に浮いたままだった。


「おかーしゃん!」と泣きながら娘がすがりついたのは、変わり果てた人形の方だったからだ。



 次の木曜、私は地毛かつら付き寝かしつけ人形を燃やせないゴミの袋に入れて、かたくかたく結んで捨てた。







 人形との訣別から三年が経ち、娘は幼稚園の年長組となった。

 娘が就寝前に私の髪を触るのは三日のうち二日に減っていた。三日のうち一日は、自身の髪を弄って眠るのである。


 娘が地毛かつら付き寝かしつけ人形のことを口に出すことはない。

 ただあの出来事の直後、よく行くショッピングモールの衣料品売り場で、裸のマネキンをじっと見つめていたことが二、三度あったくらいである。

 きっと、忘れてしまったのだと思う。


 私は地毛かつら付き寝かしつけ人形を作ったことも、それを自ら破壊したことも、ひとつも後悔していない。


 これまでも、そしてこれからも、その時々で最善と思うことを精一杯やるまでだ。

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