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 その地毛かつら製作工房はバスと電車を乗り継いで四十分かかる町の外れ、雑居ビルの三階にあった。


 腰と肩甲骨の中間あたりまで伸びた髪の毛は結ばずに来たから、サラリーマン風の男と入れ違いに駆け込んだエレベーターのドアに、危うく挟まれそうになる。


 おまけに本日の天候は小雨。エレベーターの壁に貼られた大きな鏡に映る、目の下にクマを刻んだ女の髪はうねり、はね、全体が浮いている。


 私は手櫛で髪を整え、次いでマスクに手をやった。この夏、いつの間にか私の頬には小さな褐色のシミができていた。


 娘は先月で二歳を迎えたが、まだ髪を(いじ)る入眠儀式をやめていない。むしろ力が増した分、抜ける毛の量は増えたし、頭痛や肩こりは重くなる一方だ。


 ドアを開けてまず目に飛び込んできたのは、たくさんの生首だった。


 清潔な白いインテリアの中、壁際にも中央の低い棚にも右端の散髪台の前にも、何という名前か知らないが、首から上だけの綺麗な顔をしたマネキンのようなものが、かつらを着用して並んでいる。


 だから棚の向こうから「いらっしゃいませ」と声がしてダークブラウンの後頭部が振り向いた時、生首のひとつが動いたかと思った。


 にこやかに近づく女性店員の綺麗に化粧が施された顔を見て、私は再びマスクを鼻の上まで引き上げる。女性店員は白いシャツに黒いパンツ姿で、ベージュのエプロンを掛けており、私よりもひと回りほど歳上に見える。


 多数の生首に囲まれて女性は言った。


「予約された──様ですか?」


 はい、と私は答えた。娘を一時保育に預け、私は今日ここに来ていた。


「では、こちらにどうぞ」


 女性店員は隣の小さな部屋に私を案内した。奥に設置された小型のテーブルには、やはり美しい顔の生首が三体、かつらを被ってこちらに微笑みかけている。私は肩掛けバッグの紐を握りしめた。


 応接セットの柔らかいソファに腰掛け私たちは話をした。


「どういった理由で地毛かつらを作ろうと思われたのですか?」


 そう女性は切り出した。私は娘の入眠儀式について説明した。


「私の髪の代わりに地毛かつらを(いじ)らせることで、娘は添い寝なしに眠れるようになると思うんです」


「そういった理由で地毛かつらを作る方は結構いらっしゃるんですよ」と彼女は生首そっくりの口の形で微笑んだ。


「でも、かつら単体だとどうしても不安定になってしまうので、うまくいかない場合も多いんです。そこでですね……」


 そう言って女性店員は立ち上がり、小型テープのそばに備え付けられたクローゼットを開けた。


 腰をかがめて引きずるように取り出したのは、彼女と同じくらいの大きさの、のっぺらぼうの人形である。

 手足の指や関節は見当たらない。ドラマの殺人現場のシーンに出てくる、死体の位置を示すためにチョークで描かれた白線のようななりをしている。

 ただ、控えめに膨らんだ胸と腰やウエストのくびれから、そして頭部に生えた顎までの長さの毛髪から、成人女性を模したものと思われた。


 女性は人形の背中から腹へ手を回す格好でそれを運び、私の向かいのソファーに両手を膝に乗せた状態で座らせた。

 中には柔らかな素材が詰められているのだろう、人形の首はぐったりと後ろに折れている。

 出産前に勤めていた職場の繁忙期に上司が休憩室でよく取っていた姿勢と似ているな、と私はふと昔を思い出す。ソファーに沈み込むようにして、上司は死んだように瞳を閉じていた。


「なかなかリアルにできているでしょう?」


 人形の隣に腰掛けた女性店員は少しだけ肩で息をした後に言う。


「これだと髪を引っ張ってもズレないですし、腕枕もできます」


 女性は人形の腕を持ち上げて振ってみせた。


「うまく調節すればお子様を包み込む姿勢にもできますから、お母様がそばで寝ている時と同様、安心して寝付けるんです」


 許可を得て触らせてもらう。

 表面は帆布のような白っぽい生地で覆われているが、全体的に色褪せて毛羽立っているため、使い古されたものだということがわかる。

 人形の髪の毛は緩くウェーブがかかっており、女性と同じく黒に近いブラウン。やはり古いものと見え、傷みや枝毛の目立つ髪が蛍光灯の明かりを鈍く反射した。

 毛を束にして持ち上げてみる。頭部には、かつらがしっかりと縫い付けられてあるらしい。


「そのかつらは十二年前に、私の髪と人工毛を混ぜて作ってもらいました。一回のカットじゃ量が足りなかったんです。でもあなたは髪がたっぷりあるから、きっと足す必要はないと思いますよ」


 髪の多さだけが私の取り柄だった。ついぞ役に立ったことがない取り柄なので、取り柄と呼んでいいのかは知らないが。


「どれくらいの重さなんですか?」

 触ってみた感覚と、さっきの運ぶ様子、乗せられたソファのくぼみから、その人形からは土嚢のようなずっしりとした重量がうかがえた。


「私と同じ体重ですよ、だから秘密です」

 女性は笑った。私も笑った。


「これ、実際に私の子どもが使っていたものなんです。もう二人とも高校生になってしまったんですけどね」


「お二人とも髪を引っ張って寝ていたんですか?」


「ええ、一卵性双生児なので見た目も性格も、入眠儀式までそっくりで、両サイドからやられましたよ」


「は⁉︎」

 私は声を上げた。「双子、ですか……」


 同じ悩みを持つ(持っていた)人と話すのは初めてだった。


 二人の息子に髪を弄られるのに耐えかねた彼女はまず安価なかつらを購入し、就寝時の双子に与えてみたらしい。しかし手触りの不自然さからか、双子たちは二人してそれをゴミ箱に叩きつけた。彼らが始めてつかまり立ちをした瞬間だった。


 では地毛かつらはどうだろうかと注文したところ、彼らは地毛かつらを取り合って取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。二人分のかつらを作るお金の余裕はなかった。


 そこで独自に開発したのがこの人形だという。


 試作品第一号は敷布団に直接かつらを縫い付けたものだそうだ。しかし双子たちは互いを蹴り合って、かえって寝付かなくなった。


 第二号は抱き枕にかつらを付けたものだったが、軽量なのがあだとなり、あちこちに転がってしまい今度も失敗。


「何体も試作品を作ったんですけど、やっぱり人の形じゃないとダメなんですね。一緒に寝ていた時みたいに、私と同じ体型の人形に腕枕されながら毛を引っ張るスタイルじゃないと、熟睡してくれませんでした」


 失敗に失敗を重ねた結果、今目の前に座っている「地毛かつら付き寝かしつけ人形」が完成したとのことだ。

 もともと美容師の資格を持っていた彼女は、双子が小学校に上がったのを機に地毛かつらの勉強を始め、やがてこの店をオープンさせることとなる。


 女性店員は応接セットの引き出しから取り出したパンフレットをこちらに差し出した。


 めくっていくと一番最後のページに料金表が載っている。地毛かつら付き寝かしつけ人形は、何のオプションを付けなくても三十万円近くした。


「どうでしょう? 高額になりますが分割払いもご利用いただけますし、万一ご満足いただけない場合、二週間以内に返品してくだされば半額を返金することもできますよ。もちろん、かつらだけを買い取って差額の返金も可能です。一年間の品質保証期間中には無料で修理も承っておりまして、さらに今なら抗菌加工の無料オプションとクリーニング券三回分と安眠効果のあるラベンダーの香り玉がついております!」


 女性は急に顔付きを母親から商売人のそれへと変化させ、声高に身を乗り出した。


「買います」私は即答した。


 生首に見守られながら女性店員は私の身長、体重、股下、座高、腹囲と胸囲を計測し、頭の型取りをした。それから器用に私の髪の毛を多数のゴムで束ねて切り取った。


「これだけ髪が多いと確実に足りますよ。羨ましいわぁ」と、女性はおそらくお世辞を言った。


 地毛かつら付き寝かしつけ人形のメンテナンス方法や具体的な使用方法、注意事項を教わってから、私は地毛かつら製作工房を出た。髪が短くなった分だけ足取りも軽く、にこやかに笑う女性店員と美しい生首たちに見送られながら。


 小雨はすでに上がっていた。

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