続「黒猫」と「独り言」
帰宅ラッシュの電車。ふと気配を感じて見上げると、網棚の上にある鞄の上に黒い影がしなやかに寝そべっていた。
そう。あの時と全く同じ光景だった。
鞄の上で寝そべり、じっとこちらを見つめている黒猫。
変わらぬその瞳に、やはりどこかで見た気がするという感覚がよぎる。
やれやれだ。
俺は軽く溜息をついた。自分でも情けなく思うほどに。
「何だ、随分な反応だな」
そんな様子の俺を見て、黒猫は不満そうに鼻を鳴らした。以前と同じで、黒猫の声が周囲に聞こえることはないようだった。鼻を鳴らして網棚の上で喋る黒猫に、誰も注意を向けてはいない。
となると以前と同じで俺が声を発しても、それが周囲に聞こえることはないのか。そこまで考えて、俺はあからさまな溜息をもう一度だけついてみせた。
「歓迎しろとまでは言わないが、人前でそう何度も溜息をつくものではないな。失礼だぞ」
人ではなくて猫だろうと俺は思ったが、話がややこしくなりそうだったので、その言葉を飲み込む。
「この前と同じだな。随分と面白くなさそうな、疲れた顔をしている」
人の顔を見て面白くなさそうだの、疲れた顔だのと言う方が失礼ではないだろうか。そんなことを思いつつ、黒猫の言葉に俺は軽く肩を竦めた。
「そうか? そうでもない」
そう言えば、以前もこんな返答をした気がする。続けて俺は口を開いた。
「知っているか?」
「いや……知らないな」
黒猫の返答に俺は鼻白む。そんな俺の様子に、黒猫は少しだけ表情を和らげたようだった。
「別に責めたつもりはないのだがな。だが、会話の導入のためとはいえ、よくない言い方だと思うぞ?」
俺は四十二歳にもなって、帰宅時の電車内で話し方について猫に注意を受けているようだった。そのシュールな状況に、俺は再び肩を軽く竦めてみせる。それを見て黒猫は不満げに鼻を鳴らした。
「それでどうした。その顔の理由は?」
その言葉に、俺はどんな顔をしていたのだろうかと一瞬だけ考える。
「大したことじゃないさ。今後のことを考えていただけだ」
黒猫は俺の言葉に少しだけ考えるような素振りを見せた。
「今後のこととは? 家庭のことなのか?」
俺は首を左右に振った。
「違うな。仕事のことだ。こう見えても俺は営業職でな。営業職として、社内での今後を考えていた。歳を取った営業なんて、上の方の管理職にでもならない限りは、段々と居場所がなくなっていくものだからな」
「お前が営業だということは知っているさ。だが、歳を取ったと言っても、お前はまだ四十二歳だろう?」
その言葉に、何で黒猫が俺の職種や年齢を知っているんだと俺は思う。
「もう四十二歳だ。五年もすれば、五十が見えてくる」
「よく分からんな。ならば、部長だか何だか知らんが、上の方の管理職とやらに出世すればいい。そうすれば、居場所がなくなるといった心配をする必要はないのだろう?」
「簡単に言うな。三十八で中途入社した俺が、そう簡単に管理職になれるわけがない。特に中途半端に大きい組織じゃな」
「よく分からんな。そんなものなのか?」
黒猫の言葉に俺は大きく頷く。黒猫はさらに言葉を続ける。
「それは、ただの言い訳ではないのか? 営業なのだろう? 誰にも文句を言わせないような結果を出せば、自ずと役職が上がる階段を登って行けるものではないのか?」
「簡単に言うな。結果なんてものは、会社から任されて担当するクライアント自体で左右されるのさ」
少しだけ声が尖ってしまったかもしれない。俺は感情の高ぶりを抑えながら、言葉を続けた。
「全ては、会社が俺に任せるクライアント次第なんだよ。広告業界は受注産業だからな。相手に仕事がなけりゃ、俺にできることなんて何もない。極論だけどな。それに、そんなことも関係なく結果を出せるスーパー営業マンなら、俺は自分で会社をすでに作ってるさ」
最後は自嘲気味の口調となっていた。卑下するつもりはない。でもこの話になると、なぜかこうなってしまう。
「なるほどな。だが、全部が言いわけに聞こえてしまうぞ。そして、いずれ居場所がなくなる言いわけをもう考えているのか」
黒猫は呆れたような声を出した。
「……あのな、言いわけじゃない。俺は事実を言ってるだけだ。大体、猫ごときに仕事の何が分かる? こっちは子供だってまだまだ小さいし、大変なんだ」
俺は語気を荒げて言葉を続けた。
「子どもの宿題を見て、明日のプレゼン資料を直す。そんな毎日だぞ!」
しかしそう言いつつも、黒猫が正しいことを言ってるのを頭の隅では認めざるを得なかった。だから、これは単純な八つ当たりだったのかもしれない。
けれど、溢れ出した言葉は止まらないようだった。
「人に依存して自由に生きているだけ。そんな猫ごときに、言われたくはないもんだな!」
「そうか? お前が言うそんな猫ごときに、この話を始めたのはお前自身なのだがな」
それにと言って、黒猫はさらに言葉を続けた。
「前も言ったが、猫だって大変だ。可愛いがられて人に飼われているからといって、必ずしも生活が安泰なわけじゃない。家の中でツンデレを繰り返していれば、全ての猫が幸せなわけでもない」
「結構なことだろう。ツンデレを繰り返していれば、日々の生活が安定するんだ」
俺が皮肉混じりで言葉を返すと、黒猫は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「本当にそう思うのか? そんな生活には、ろくな自由があるはずもない。自由がそこにあるとすれば、ツンデレを繰り返す自由だけだ。」
そこで黒猫は大きく鼻を鳴らした。そして、言葉を続ける。
「ツンデレを繰り返す自由しかない。それを本当に自由と呼べるのか?」
黒猫は少しだけ自嘲気味に笑い、ぽつりと呟く。
「檻の中にいることを檻の中から望んでいる。それが、猫たちが言う自由なのかもしれんがな」
「こっちにだって、自由なんてあるもんか。やらなくてはいけないことをしている。ただそれだけの毎日なんだから」
俺がそう言うと、黒猫が左右を見渡して口を開く。
「ほら、もう最寄りの駅じゃないのか?」
そう言われて、俺は窓の外に視線を向けた。確かに黒猫が言うように、最寄りの駅に近づきつつあった。俺は怒りを収められないままで、黒猫の言葉に無言で頷く。
頭の隅ではそれぞれに立場があって、それぞれの立場では当然それぞれの問題があることぐらいは分かっていた。どの立場においても、問題が皆無だなんて世の中があるはずもないのだ。
ただ先程は、あまりにも的確に黒猫から言われてしまったからなのだろう。分かっているからこそ怒りが生まれてしまい、その怒りを抑えられずに表面化させてしまった。
事実を当たり前のように突きつけられると、人は時に怒り出すものなのだ。そうしてはいけないと思いながらも。
しかし、そう思ってはいても、俺の口から黒猫に対する謝罪の言葉は出なかった。
やれやれだな。
心の中でそう呟いた。
分かってる。
これはただの八つ当たりだ。
でも人は時に、それを誰かにぶつけずにはいられないこともある。
黒猫はしばらく無言で俺を見つめていた。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
その視線はやけに静かだった。胸の奥にある誰にも見せたくない小さな箱が、冷たい風にさらされているような気がした。
「……そうか。ならば俺は眠るとする」
やがて電車は軽い揺れを伴って駅に停車する。俺は網棚にある鞄に手を伸ばした。帰宅時で混み合う電車内。俺は軽く頭を下げながら、開いた扉に向かった。
担当しているクライアントの企業キャラクターである黒猫。クライアントからの依頼で作ったその黒猫を模したばら撒き用のノベルティ。
鞄の取手には、その黒猫のキーホルダーがぶら下がっている。
ぶら下がったキーホルダーの黒猫は、なぜかこちらに背を向けていた。
その背中が怒っているように見えたのは、きっと俺の思い過ごしだったのだろう。