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都市と積乱雲

作者: 不眠普及

 真っ黒でどんよりとした積乱雲が大都市を席巻した。


 雲は健康管理の成っていない猫のようにブクブクと太っている。中には脂肪の代わりに、プールを一瞬で満たして有り余るほどの雨と、時速百キロにも達して動き続ける氷の粒が詰まっていた。

 雨や氷は各々の好きな方へと乱反射して、僅かな静電気を次々と産み出していく。やがて幾千、幾万と産まれたそれらは、オーケストラのように合わさり、都市の上空をびりびりと震わせた。

 

 けれどその雲の異様さはそこでは無い。これほどの内部の大騒乱が幻であるかのように、都市には静けさが降り注いでいた。雨も霰も雷も、そして光でさえも、まるで忘れ去られたように都市に降る事はなかった。

 

 ×


 都市の上空を雲が制圧して二時間ほどが経過した。未だに雲はなんの変化も無く、強情な態度を崩さずにいた。

 この未曾有の災害に対し、会社の判断は『自宅待機』だった。それも仕方のないことで、インターネットも繋がりにくく、電話も途切れ途切れで、まともに業務が出来る状態ではないのだ。


 わたしは窓を開けて空を見た。月も星も見えない夜は経験したことがあるけれど、太陽の見えない昼は記憶に無かった。もしかしたら、皆既日食がこう見えるのかもしれないけれど、それも二時間は続かない。あるいは、わたしだけが夢の中にいるような気がした。


 次にわたしは静かな都市を見渡した。ビル群のあちこちでまばらに電気が点いていて、そこには他人の営みがあった。けれどやはりそれも異様で、営みはビルの中に留まっているのだ。裏を返せば、ビルの前の道路や、ベランダに一切の人影が無い。ましてや道路には車ですらも全く走っていないのだ。

 

 政府の防災メールによると、GPSが正常に働かないらしく、車の運転は控えるようにとのことだった。マイカーを持っていないわたしは、最初はその警告を気にもかけなかった。まさか外を見るだけで、事の深刻さを感じることになるとは思わなかった。そしてそれは、雲そのものへの恐怖心も煽っていた。


 ようやくわたしは政府の警告の一つを思い出した。たしか、念の為雨戸だかシャッターだかを閉めるようにとのことだったはずだ。

 わたしはシャッターを閉め、次に窓を閉めた。ビル群の部屋の光がまばらだったのは、わたしと同じように多くの人が政府を信じたからだろう。


 机の上に置いてあるデジタル時計を見ると、時刻はまだ三時半だった。

 あの雲が何を降らすかわからない以上、いろいろなことを覚悟する必要がある。その覚悟をするための準備時間は十分にあった。例えば、窓に霰が当たって割れてしまわないようシャッターを閉めるように。

 雨は屋内にいれば大丈夫だろう。霰対策もたった今閉めたシャッターが役割を果たすだろう。あと何が降るだろうか? もしかしたら雷でも降るかもしれない。


 政府の防災メールを見直すと、雷が降れば停電する可能性があるらしいことがわかった。そしてそのために、懐中電灯か蝋燭を用意しろとのことだ。


 この家にそんなものがあっただろうか? わたしは適当に部屋を見渡したが、それらしいものは見つからなかった。

 仕方がないので、わたしは色々なものを詰め込んだおもちゃ箱のような押入れを覗いた。

 奥へと掘り進めると、代わりになりそうなものを見つけた。


 アロマキャンドルのセットだ。

 

 それを下に勉強や読書は難しいかもしれないけれど、カップ麺を食べることくらいは出来るだろう。

 わたしはそれを押入れから取り出すと、箱を開けて中身を確認した。すると中にはそれぞれ色の違うアロマキャンドルが四つあり、そこから緑色のものを取り出した。

 

 もしかしたら、湿気で使えなくなっているかもしれない。

 念の為、アロマキャンドルに火をつけてみると、それは見事に立ち揺らいだ。まだ点けたばかりで、香りを十分に感じ取ることはできなかったけれど、明かりとしては問題なく使えそうだ。

 

 少しホッとして、胸を撫で下ろした。随分としまっていたので、使えるか心配だったのだ。わたしがそれを貰ったのは四年も前のことであった。


 すなわち、親友の結婚式での引き出物なのだ。


 ×


 当の親友とは二十年来の仲で、初めて出会ったのは小学校でのこと。中学も一緒で、高校も一緒、学部は違ったけれど大学も一緒だった。

 女の友情と聞いて想像するようなどろどろは一切無かった。彼女が恋をした時には応援したし、わたしが恋をしたときには応援された。互いに才能は天によって分け隔てなく与えられ、そのお陰で嫉妬をすることも無かった。けれど何よりも奇跡と言うべきことは、わたし達の恋愛対象が一度として被ることが無かったことだろう。


 それは彼女が結婚を決断するほどの男であったとしても同じだ。


 その男と初めて会ったのは、まだ彼らが彼女と彼氏になりたての頃。大学三年生の時だ。



「かなちゃんには紹介しとこうと思って」

 かちゃかちゃと食事の音がまばらに聞こえる学生食堂で、わたしはさゆりにそう話しかけられた。

 元々、二人でお昼を食べる約束だったのだけれど、そこには三人目の人影があった。

 人影はメガネをかけていて、少しばかり小太りだった。

 わたしが視線を向けたからか、人影は一つ咳払いをしながら挨拶を始めた。

「さゆりさんとお付き合いさせていただいています。まさやです。初めまして」


 この時のわたしはかなり困惑していた。それは大学生同士の挨拶でここまで畏まることにもそうだし、何よりもこれまでのさゆりの趣味とはかけ離れていたことが大きかった。

 たしかさゆりはイケメン俳優みたいなのが好みだったはずだ。彼をイケメンと評するには多少寄り目をする必要があった。


「……初めまして」

「なんでそんな警戒してるの」

 さゆりはそう言いながらわたしの前に座った。まさやはその隣に。四人掛けテーブルを三人で使う形だ。


 もうすぐ二限目が終わろうとしていた。昼時になれば、まばらの空席も全て埋まってしまうだろう。先生によっては早くに授業を終えることもあり、さゆりとまさやの受講していた授業がそうだった。

 わたしは二限が無かったので、ひと足先にテーブルの確保に向かったというわけだ。まさかもう一人いるとは思わなかったけれど。


 学食を食べながらのわたし達の会話は環状線のようにのろのろと進んだ。その中で判明した事は、二人が印象以上にお似合いだという事だ。

 まさやは適度な冗談を言い、さゆりはそれに楽しそうに逐一笑顔を返している。何年もさゆりを見てきたけれど、彼女が彼氏の前でここまで素直な笑いをしているところを見たのは久しぶりだった。


「なんか、お似合いだね」

「そう? ありがとう!」

 さゆりは素直なままだ。わたしと二人きりで話しているときのように自然体を保っている。

 その様子に、なんだか今までのわたしの恋愛が、とても陳腐なもののように思えてきた。



 中学生の頃、わたし達にはそれぞれ恋人がいた。さゆりはクラスで一番足が速い男の子と付き合っていて、わたしはクラスで一番頭がいい男の子と付き合っていた。

 さゆりはものの三ヶ月で別れてしまって、わたしは「見た目で選ぶからだよ」と言った。その後少し仲が悪くなって、その一ヶ月後にわたしが別れると「中身で選ぶからだよ」と言い返された。

 結局その後すぐに仲直りしたけれど、お互いの恋愛価値観が変わることはなかった。

 高校生の頃には、わたしはクラスで一番頭のいい男の子を相手に失恋し、さゆりは他校のサッカー部でレギュラーメンバーの男の子を相手に失恋した。個人経営のカラオケ屋でお互いを慰め合い、次は頑張ろうと誓い合った。

 やっぱりわたし達の恋愛価値観は変わらなかった。

  

 

 だから二人を見たときに、わたしだけが取り残されているような気がした。まさやを一言で表すなら“性格がいい人”だ。頭がいい人でも、運動ができる人でも無かった。

 その場では聞けなかったので、後でLINEで馴れ初めを聞くと「告白されたから、なんとなく」と返ってきた。

 彼女を変えたのはまさやなんだと、そのときになってようやく理解した。



 それから数年後、わたしは広告代理店に就職して三年が経過していた。

 その時、さゆりとまさやは結婚することになった。結婚式の時にはまだお腹は膨らんでいなかったけれど、どうやら妊娠六ヶ月らしかった。

 と言ってもデキ婚というわけではなく、籍は早くに入れていたらしい。わたしがそれを知ったのは、結婚式をするから友人代表スピーチをして欲しいと頼まれた時だ。



「さゆりさん、まさやさん、ご結婚おめでとうございます−−」

 わたしのスピーチは、インターネットの検索で一番上にあるようなありきたりなものだった。それでもさゆりは泣いていた。わたしもずびずびと泣いた。

 けれどどこかわたしの中には、真っ黒でどんよりとした雲が生まれていた。


 結婚式の帰り道、タクシーの後ろに乗るわたしの隣には、白い紙袋が置いてあった。紙袋の中には二人からもらった引き出物が入っている。アロマキャンドルのセットだ。

 正直、少し困る贈り物だ。わたしはアロマキャンドルに興味が無かったからだ。

 さゆり曰く「お仕事忙しいって聞いたから、これで癒されて欲しい」とのことだった。キャンドルは四つ、緑、赤、青、白。中でも彼女のオススメは緑で「わたしはそれが一番好き」と言っていた。


「ゆりちゃんも、この香りで仕事頑張ってたの?」

「そう……だね。これからは、家で頑張ることになるけど」

「えっ、それって……」

「うん。仕事辞めて専業主婦になる。彼が、じゃなくて旦那が、子供が産まれるから家に入ってくれって」

 わたしは「それでいいの?」と言おうとして、それをやめた。さゆりが就職した不動産屋の営業で苦労しているのを知っていたからだ。

「そうなんだ。頑張ってね」

「かなちゃんこそね」


 ×


 ようやく、アロマキャンドルの匂いが香ってきた。あまり都市では香ることのない、自然の匂いだった。

 それは仕事が頑張れる匂いというよりも、休みの日にリラックスするための匂いだった。それだけで、彼女がどれだけ仕事を嫌っていたのかがわかるようだった。


 わたしは目を閉じて、今彼女が何をしているのかを想像した。

 さゆりの前には眼鏡で小太りな旦那が座っている。左隣には旦那に似てまるまるとした三才の男の子がいる。男の子は不器用に箸を使って白米を食べている。時々ポロポロと落としては、さゆりはそれをティッシュで包んで捨てている。「落とさないでねー」とまさやが言うと、男の子は元気よく、うん! と返事した。

 さゆりはずっと笑顔のままだ。


 そんな妄想を遮るように、ガタガタとけたたましい音が部屋に響いた。

 音は窓から、というよりも窓の外のシャッターからだ。

 シャッターを見つめると、確かに揺れている。それはガラステーブルの上で電話が鳴ったときに似ていた。

 

 もちろんシャッターを揺らしているのは電話ではない。シャッターを揺らすには力不足だし、何より今は電話が通じないのだ。では、どうして? 答えはすぐに閃いた。


 雲が動き出そうとしているのだ。


 圧倒的な自然のダイナミクスの、その前兆なのだ。なんだか自分が随分とちっぽけなように感じた。


 キャンドルの火が揺らぐ。それは今にも消えそうで、とても愛しいものに思えた。けれど、火を揺らしたのは雲ではない。わたしのため息が、火を吹き消そうとしたのだ。


 どうだろうか、彼女の家のシャッターも揺れているのだろうか。わたしと同じように、自然の雄大さを歴然と見せつけられてその身を萎縮するしかないのだろうか。


 答えは知れない。彼女と連絡を取ることも、また雲が遮っていた。



 時刻はまだ午後四時だ。本来ならば、わたしは就業時間だ。

 打ち合わせや資料作成をし、相応の給料を貰う。それを後何年か繰り返せばやがてキャリアアップし、より多くの給料が貰えるようになる。

 お金はわたしに無数の選択肢を与える。おしゃれもできるし、仕事仲間と飲みにも行ける。旅行や、引っ越しや、それこそマイカーも。


 けれど今、わたしは部屋に一人きりでアロマキャンドルを見つめている。わたしはその先を想像できなかった。


 その時だ、より強くシャッターが叩かれだした。何かが激しくぶつかる音が、幾千、幾万と連続して聞こえる。雨と霰が弾け出したのだ。それはまるでマシンガンのようだった。


 そしてついに、ふっと部屋の明かりが消えた。

 都市の至る所に騒乱の暗闇が現れた。けれどわたしに訪れた暗闇は、幾分かの慎ましさを持っているようだった。あるいは過集中で、わたしが音を無視していただけなのかもしれない。


 わたしはアロマキャンドルの炎を、祈るように見続けた。

 周りが暗闇に包まれ、より一層その光が強くなったように感じられた。


 わたしはキャンドルの火が消えるまで、見続けていようと思った。それまでに、雲が去ってしまうことに期待しながら。

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