夫とはじめてお話しました
翌日に目が覚めると、すでに使用人達の声が聞こえる。ドアの向こうで旦那様と使用人達が話しているらしい。その声は何やら深刻そうであり、緊張感が伝わってくる。
何があったのかしら?
恐る恐る寝着にガウンを纏って、ドアを開けるとそこには100日ぶりに再開した夫がいた。何故か侍女のアンに腕を掴まれ、家令のジャンに頬っぺたを摘まれている状態ではあるが。
「お、おはよう。リリアナ嬢」
2人を振り払った旦那様は貼り付けたような笑顔で私に話しかけてきた。一体私の部屋の前で何をしていたんだろう。
「お、おはようございます。だ……旦那様?フィルストーム様……?すみません。なんとお呼びしたらいいかも昨日確認出来ませんでした。こちらでお世話になっております、リリアナ・エルフィールと申します」
寝起きのぼんやりした頭で昨日伝え損なったことを早口で告げる。
「リリアナ嬢、君はもう私の妻だ。呼び方は君が好きな様に呼んでくれて構わない。でもそうだな、フィルと呼んでくれないか?」
「えっ……あの、私……フィ……フィル様とお呼びします。ちょっと私には……」
家族以外の若い男性とこんな長い時間お話するのもはじめてだし、名前を愛称で呼んだことすらない。名前を呼ぶだけで何故か心の奥がソワソワし始める。
「うん、そうか。それでも構わないよ。君の事はリリアナと呼んでも?」
「もちろんです。フィ……フィル様のお好きになさってください」
そう言うとフィルストームの顔がホッとしたように緩んで、明らかに安堵したことがわかった。
じっと顔を見つめていると、一瞬だけ視線が交差した。
瞳が熱を帯びたように目が離せなくなったが、フィルストームはゆっくりと目を閉じて覚悟を決めたように口を開く。
「リリアナ。俺は君に話さなくてはいけないことがある」
「……はい。お伺いします」
その瞬間玄関から慌ただしく駆け上がる足音が聞こえた。
「フィル!急げ!殿下が!」
近衛騎士団の同僚であろう青年は顔を真っ青にしながらフィルストームに呼びかける。
「っ!今行く……」
私はただただその光景を黙って見ていることしか出来ない。きっと警護対象の「殿下」に何かがあったのだろう。
フィルストームが私に言いたかったことが何だったのか気にはなるがそれどころではないだろう。
階段を駆け下りていくフィルストームは急に立ち止まり、リリアナを見上げて語りかけた。
「リリアナ!君には苦労をかける!でもそこまで長くはかからない予定だ。もうそろそろこんなこと終わりにする。だから……」
「フィル!急いでくれ!」
「ごめん!」
そこまで言って玄関を飛び出し、騎士団の青年が乗ってきたのであろう馬車に乗り込む音が聞こえた。
長くはかからない。
もうすぐこの生活も終わる。
フィルストームの言った言葉を繰り返す。
私はただただ絶望感に苛まれていた。