100日ぶりに出会った夫
リリアナと使用人達の幸せな日々は3か月と少しで終わりを告げた。
フィルストームが屋敷に戻るという連絡が家令のジャンに入り、リリアナの耳にも届いたのだ。どんな理由があって戻らないのか、どんな理由があって戻るのか。リリアナにはわからない。もしかしたら今日でこの結婚が終わるのかもしれない。使用人達と別れることになるのが堪らなく寂しかった。
アンは主人の帰宅が決まるとリリアナを湯船に押し込み、いつも以上に丹念にマッサージをしては香油を塗った。若草色のフレアドレスを着せ、髪を巻いてリボンを着けた。玄関の隅でフィルストームの帰りを待つつもりであったが、アンは正面の前列にグイグイと引っ張り「旦那様にこんな可愛らしい妻がいること後悔させてやりましょう」と笑った。
3ヶ月で少しだけ健康的な顔つきに、少しだけ体重も増えて女性らしさを取り戻したもののこんな地味な女と婚姻せざるを得なかったイングリット伯爵も気の毒だと今はわかる。頑張ってくれたアンに申し訳なくて「そうかしら?」と曖昧に答えた。
夜も更けた頃正面玄関が開く音がする。この屋敷の主が帰ってきたのだ。
「今、帰った。……やっと帰れた」
久しぶりに見るフィルストームはやつれていた。頬がこけ、髪も艶がなくくすんでいる気がする。それとなくリリアナはフィルストームの前に立ち、挨拶をしなければと思った。
「あ……あの……!」
「旦那様、お帰りなさいませ。奥さ……リリアナ様にご帰宅のご挨拶とご説明をしてくださいませ」
ジャンは皮のカバンやコートを流れるような手つきでフィルストームから受け取りながらそう言った。ニコリと笑みを浮かべてはいるもののその瞳の奥から冷えきったものを感じる。
「リリアナ?奥様?てかおまえは誰だ……?」
リリアナの紫色の瞳を紺色の瞳が捉えた。
「はじめましてリリアナでごさいます?」いやいや一応結婚式で会っているから2度目ましてかしら?
「お世話になってます」うーん、直接お世話になっているのは使用人の皆様であって旦那様ではないし、少し嫌味っぽく感じるかしら。
「3ヶ月使用人達と楽しく暮らさせていただいてます」いやいや、こんなこときっと旦那様は興味はないわよね。
いろいろと話さなくてはならないことも、聞かなくてはいけないこともあるのかもしれないが、何故か言い出すことが出来ずに固まってしまった。私の夫は私の名前も顔も何も知らないということだけはわかった。
その瞬間ジャンの右手はフィルストームの腹部に埋まり込み、鈍い音と「……ヴッ」という声とともにフィルストームはジャンに抱えられながら自室に戻っていった。
侍女のアンたちも「あ~ナニモキコエナイキコエナイ!リリアナ様?なーんにも聞こえませんでしたよね?あんなボンクラクソ野郎のことは忘れてディナーにしましょうね」と言ってダイニングルームに連行された。リリアナはまたしても一言も話せないままだった。
「リリアナ様!あいつのことは忘れて!」
「リリアナ様!あの野郎の飯に雑巾のしぼり汁いれてやるぞ!」
「リリアナ様!旦那様とはいえ許せんから毒草入りのハーブティでも煎じてやるからな!」
「リリアナ様!今度あいつはボッコボコのベッコベコにしてやるから安心してください!」
屋敷中の使用人が入れ代わり立ち代わりディナー中のリリアナを囲んだ。
最後のケーキにはリリアナの形のマジパンがのせられていた。ケーキがのせられたプレートには「リリアナ様大好き 使用人一同」と書かれていて少し泣いてしまった。