涙の初夜と使用人たちとの出会い
イングリットの本邸に到着したナナリアは、使用人達の自己紹介を貼り付けたような笑顔のまま聞いていた。
そして「よろしくお願いします」と小さな声で応えた。イングリット邸の使用人は皆申し訳なさそうに気の毒そうに見つめていて、居心地が悪い。
部屋の紹介や邸宅の案内、食事や湯浴み、マッサージなどいろいろな提案をしてくれたが全てをやんわり断るとイングリット伯爵夫人の部屋へ入るとすぐに内鍵をかけた。
やっと1人になれたとホッとする。リリアナはベットに潜り込み、布団を目深に被って静かに泣いた。誰にも泣き声を聞かれたくなかった。誰にも愛されず、望まれない情けない惨めな自分。家族をもてるのではないかと少しだけ期待した自分。全部全部捨ててしまいたかった。
新婚初夜。リリアナは泣き疲れて眠った。
目を覚ますとカーテンから光がうっすら漏れているが、まだ辺りは暗いことに気付いた。あれから朝方まで眠ってしまったらしい。コルセットもドレスもそのままに倒れ込むようにして眠ったのでドレスは皺だらけになっていたがそれも気にならない。このドレスはどこかの既製品のそれも中古、20年以上前の流行のデザインで流行遅れも良いところであり、サイズも若干大きく縫製も悪い。異母兄が油まみれの床に投げ捨てたものだから所々消えない油シミまである。
リリアナはエインズフォール男爵の庶子であった。母は踊り子であり、奔放な人であったらしいがナナリアが2歳の時にはもうこの世にはいなかった。両親に愛されず、エインズフォールの本妻の子供たちにも疎まれ、貴族の娘というよりは給金のいらない使用人くらいの立場で暮らしていた。だからあのドレスはリリアナには似合いの衣装であるともいえる。
ベットから足を下ろし、床に足を着けた瞬間に「奥様、お目覚めでございますか?」とドアの向こうから気遣うような声がした。ドアを開けると昨日紹介された侍女のアンだった。20代前半の彼女は赤髪をおさげにした可愛らしい姿で、にっこり笑った顔を見ると少しだけほっとした。
「奥様、昨日の結婚式のことですが……」
彼女に謝られても仕方の無いことだし、リリアナは結婚式のことすら思い出したくはなかった。ぎゅっと目を閉じ唇を噛み締めながらアンの手を取った。
「ごめんなさい、アンさん。その話は……もうしたくはないの」
「……こちらこそ申し訳ございません。このお姿のままじゃ寛げませんからお着替えをさせていただけますか?」
「えぇ、お願いします」
気まずい雰囲気のまま昨日のウエディングドレスが取り払われた。無惨で哀しいウエディングドレスが折りたたまれてアンの胸の中に抱きとめられた。身支度をして廊下に出ると家令のジャンがバトラースーツをきっちり着こなした状態で立っている。ジャンは今年で50歳になった初老の家令であった。少しだけ白髪が混じってはいるものの髪を後ろに撫で付けた髪型には崩れもなく姿勢はピンとしており立ち姿は美しかった。2人とも私が起きるのを廊下でずっと待っていてくれたのだろうか。
「……ごめんなさい。ずっと起きていてくださったのね」
そう伝えると胸に手を当てて礼をしたままジャンは申し訳なさそうに話し始めた。
「いえ、奥様……あんなことがあってお疲れだったのです。どうかお気になさらずに。湯浴みもできますし、お食事も準備させていただいております」
「……お願い事をしてもいいでしょうか?」
「もちろん、なんでも仰ってください。奥様はこの本邸の女主人なのですから」
「きっとこの婚姻には何か理由があるのでしょう。この結婚が終わるまではこちらのご迷惑にならないように私にできることはなんでもさせてください」
「間違えなんて!?奥様はただこちらでなんの気兼ねもなくゆっくりしてくださればいいのです」
「ジャン様はお優しいのですね。いくら私でもあんな結婚式ですもの。イングリット伯爵に歓迎されていないことくらいはわかっています。何か理由があって急いで誰でもいいから婚姻せざるを得なかったのでしょう。その何かが終われば私の役目も終わるのでは無いですか?」
「……」
沈黙とジャンの瞳が答えを示している。だが、主人の口から話していないことをリリアナに話す訳にはいかないのだろうと察した。
「私の事はリリアナと。決して奥様などと呼ばないで欲しいのです。使用人としての仕事はご教示ください。私はいずれこのイングリット伯爵夫人でなくなるその時までに少しでも出来ることを増やしておきたいのです」
「リリアナ様。……承知致しました」
そしてリリアナはつかの間のイングリット伯爵夫人(使用人)としてこの屋敷に滞在することにした。いつ出ていっても大丈夫なように使用人の仕事を覚え、離縁しても実家に戻らず自立する方法を模索しようと決めたのであった。