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弟の友達を堕落させたい ~そんなに頑張らないで、もっとお姉さんに甘えてもいいんだよ?~

 平均値。

 全部足して、数で割った値のこと。


 でもこの言葉を人に使う時は、多分少し意味が違う。


 身長とか、年収とか、テストの点数とか。

 ここを上回れば普通より優れていて、下回れば普通よりも劣っている。逆に平均と同じであれば、自分は普通である。そういう判断基準として、平均という言葉を使う。


 普通。良い言葉だ。安心できる。

 なんだか、仲間が沢山居る気持ちになる。


 特に仲間意識の強い女の子は、普通を好む。

 仲間外れにされたくない。だから、皆と一緒が良い。


 私も学生時代はそうだった。

 でも社会人になってから考えるようになった。


 普通って、なんだろう。

 平均的な人って、どんな人なんだろう。


 きっと時代や環境によって違う。

 私に分かるのは、私の知っている社会だけ。


 普通とは、何もしない人のことだ。

 自分の意思を持たず、確固たる判断基準などなく、周りに合わせているだけの人だ。


 普通の人が集まると、会話の内容が下劣になる。

 あいつは無能だ。あいつは使えない。ムカつく。


 自分達は何もしていないくせに、凄い人の指示に従って、周りに合わせているだけのくせに、自分は優秀で特別なのだと示すために、たまたまちょっと失敗した人を侮辱する。


 そんな「普通」に合わせて生きている自分が、気持ち悪くて仕方がなかった。


 だけど、どうしようもない。

 私はそういう生き方しか知らない。


 なんか、つまんないな。

 このまま普通に年を取って、普通に生きて死ぬのかな。


 そんな時だった。

 私は、彼と出会った。


 とても真面目で、真っ直ぐな人。

 私は綺麗な彼を見て──堕落させたいと思った。



 *  *  *



 ある日の夜、家のインターホンが鳴った。


「姉ちゃん聴こえる? 多分友達。今トイレだから出て!」

「えー? もう、しょうがないなあ」


 リビングでのんびりしていた私は、弟の頼みで腰を上げた。それから少し駆け足で玄関へ向かい、ドアを開ける。


「こんばんは。弟の友達かな?」


 大学生くらいの男性を見て、私は言った。


「これを届けに」


 彼は手に持っていたノートを差し出した。

 なるほど、どうやら弟が忘れ物をしたようだ。


「ごめんね。わざわざ届けて貰って」

「バイトの帰り道なので。ついでです」

「わー、夜遅くまで大変だね」


 現在、時刻は午後の九時を過ぎたところ。ウチの弟なんて親のお金で遊んでばかりだから、とても偉いと感じた。

 

「あれ? 君、どこかで会ったことある?」

「インターンですよね。見覚えがあります」

「やっぱりそうだ。弟の友達だったんだね」

「すごい偶然ですね」


 彼は大人びた笑みを浮かべた。

 その顔を見て、今度はハッキリ思い出した。


 先々月の頭から四週間、彼は、私の勤め先のインターンに参加していた。直接的な関わり合いは、配属時の挨拶だけ。それでも真面目で優秀な子という印象が残っている。


 お茶でも出そうかな?

 そんなことを考えていると、彼が口を開いた。


「それでは、次のバイトがありますので」

「え、今から?」

「はい。失礼します」

「ああうん、頑張ってね」


 彼は会釈をして、そのまま踵を返した。


「自転車なんだ。近所の子なのかな?」


 この時間までバイトして、そのまま深夜バイトに直行。


「すごい体力。会社のおっさんなんて一時間ちょっとの残業でうだうだ言ってるのに」


 なんとなく呟いて、ドアを閉める。

 それからリビングに戻って、ぼーっとしていた。


「姉ちゃん、どうだった?」

「はいこれ、お届け物。ちゃんとお礼言いなよ」

「あー、良かった。助かる」


 私は弟にノートを手渡しながら言う。


「あんまり友達に迷惑かけちゃダメだよ?」

「いや、今回はしゃーないって。俺のノート、あいつの鞄に入っちゃったみたいで」

「明日でいいじゃん。何わざわざ届けさせてんだよ」

「試験あんの。必修だから落としたらやべーやつ」


 ……試験? あの子、バイトって言ってたよね?


「あの子の方は、大丈夫なの?」

「え? いや知らんけど、あいつは多分大丈夫だよ」

「優秀なんだ」

「それな。なんでウチの大学なのか不思議なレベル」


 ……凄いな。この時間までバイトして、それでも学業が疎かになってないんだ。


「あいつ学費とか自分で払ってんだって。マジ尊敬っすわ」

「嘘? あんたのとこって私立でしょ?」

「それな。税金とか考えたら年二百くらい稼いでそう」

「奨学金は?」

「腹立つから国には頼らないって言ってた」

「何それ。どういうこと?」


 私は混乱した。本当にどういうことなの?


「てか姉ちゃん、もしかして気になってる? いくらモテないからって弟の友達はちょっと……」

「バカなの? あんたにも見習って欲しいと思っただけ」

「紹介してあげてもいいよ?」

「結構です。さっさと勉強しなさい」

「ほーい」


 あっち行けと手を振って、話を終わらせた。

 あの子は何かあれば直ぐ恋愛に結び付けたがる。そういうの興味無いって言ってるのに、困ったものだ。


 ……でも、気になったのは本当かも。


 あのバカ弟の通う大学は、確か学費が年に百五十万。

 それだけ稼げば扶養から外れる。これは本人に税金が課せられるだけではなく、親の収入にも影響が出る。


 ……それにきっと学費だけじゃないよね?


 交通費とか、食費とか。この辺りも全て自力で用意していると考えたら、バイト帰りに深夜バイトへ直行することにも頷ける。何か特別なコネが無い限り、学生の身分で二百万も稼ぐのは大変なことだ。


 ……そんなのバイトしかできなくない? どうやって勉強してるの? 授業だけで理解してるとか?


「すごいなあ」


 少し衝撃を受けた。でも、それだけ。

 その話を聞いて私が生き方を変えることは無い。私の人生に何か影響を及ぼすことは無い。


 そう、思っていた。



 *  *  *



 ある日のこと。

 平日の深夜、私はプレゼン資料を作るため近所のファミレスへ向かった。


 二十四時間営業のファミレス。

 ここで資料が完成するまで戦う覚悟である。


「いらっしゃいませ」


 ……あ、弟の友達だ。


「バイト先ここだったんだね」

「はい、そうです。お一人様ですか?」

「えっと、はい、一人です」

「ご案内します」


 ……真面目だなあ。

 彼は雑談することなく私をテーブル席に案内すると、丁寧な口調で言う。


「ご注文が決まりましたらボタンを押してお呼びください」

「えっと、とりあえずドリンクバーお願いします」

「承知しました。以上でよろしいですか?」

「はい。以上で」


 彼は素早く機械を操作する。

 それから軽く会釈をして、また出入口付近へと戻った。


 ……あ、欠伸した。かわいい。

 いやいや、見てる場合じゃないでしょ。資料作らないと。


 私は邪念を振り払い、パソコンをテーブルに置いた。


 ……飲み物忘れてた。


 席を立ち、目が覚めそうな炭酸を両手に戻る。


 ……お客さん、私だけっぽいな。


 ふたつのコップをテーブルに置いた後、パソコンを開いて作業を始める。

 スライドを一枚作ったところで気分が乗って、そこからは無心で作業を続けられた。


 ……こんなもんでいいかな?


 一通りの作業が終わった後、炭酸が抜けたジュースを飲む。

 なんとなくパソコンの時計を見ると、時刻は午前三時だった。


 ……今日は徹夜かな。


 多分、寝たら仕事に遅刻する。

 私はとても憂鬱な気分で、特に目的もなく周囲を見た。


 店内は相変わらず閑散としている。

 人影は……あれ、彼どこ行ったのかな?


 ……注文したら来るかな。


 変な時間だけど、頭を使ったから空腹だ。むしろ、これから朝まで過ごすことを考えたら丁度いいかもしれない。


 私はメニューを見て、注文を決めてからボタンを押した。


 ポーンという電子音が静かな店内に響き渡る。

 少し間が空いて、出入口付近にあるレジの裏から彼が現れた。


「ご注文でしょうか?」


 ……本当に出てきた。


「あの、お客様?」

「……すみません。えっと、このサラダひとつ、お願いします」

「承知しました。少々お待ちください」


 彼は踵を返して、またレジの裏へ戻った。


 ……あの子、何時まで働くのかな?


 弟と同じ大学の授業時間なんて知らないけれど、こんな時間までバイトをしていたら、ほとんど寝れないはずだ。


「お待たせしました」


 しばらくしてサラダを持った彼が現れた。

 なんとなく、彼のことを見る。印象は最初と同じ。大学生くらいの男性。でもよく見ると、とてもギラギラした目をしている。


 ギラギラって何? 自分でもよく分からない。

 ただ何かこう、力を感じる。私がこれまで出会った誰とも似ていない。


「……何か御用ですか?」


 あ、やば。メッチャじろじろ見てた。


「えっと、その、バイト、頑張ってるなって」

「ありがとうございます」


 微妙な反応。

 多分、ここで会話を打ち切るのが正解。


 でも、深夜だからだろうか?

 私は会話を継続させることにした。


「弟と同じ大学なんだよね?」

「はい」

「学費、自分で払ってるんだよね。すごいね」

「……ありがとうございます」

「弟にも見習って欲しいよ。あいつ、バカなのに、遊んでばっかり。将来が心配なんだよね」


 チクリとした。

 私の言葉を聞いた彼の目が、ほんの少しだけ冷たくなったような気がした。


「あいつは大丈夫ですよ」

「そうかな?」

「あいつは人付き合いが上手い。そして、やるべきことから逃げない。よくできた人間です」


 またチクリと胸が痛んだ。

 私は彼と会話するため、当たり前のように悪口を言った。


 弟がバカだから心配だ。

 これを悪口というのは大袈裟かもしれない。


 だけど、もしも彼が同調したら、どうだろう?

 きっと私は弟の悪いところを次々と口にしていた。


 普通、そうなる。

 会話を盛り上げるのはいつだって他人の悪口だ。


 あいつバカなんだよね。

 あーわかる。バカだよね。

 そうなの聞いてよ。実はこの前さ~?


 こんな感じ。それが当たり前。

 私はずっと、そういう世界を生きてきた。


 しかし彼は弟を褒めた。

 それは気まぐれじゃない。彼の目を見れば分かる。


 彼はきっと他人の悪口で盛り上がったりしない。

 真面目で、真っ直ぐで、私からすれば眩しい人間だ。


 ……なんか、この子ムカつくかも。


 綺麗な物を見ると腹が立つ。

 そう思う自分のことが、私は嫌いだ。


「君、良い子だね」

「……恐縮です」

「弟の交友関係あんまり知らなかったけど、ちょっと安心した」

「それは、良かったです」


 無数の言葉が頭に浮かび、消える。

 何を言っても彼を汚すような気がした。


 でも、もっと会話を続けたいと思った。


「ね、今日は何時までバイトなの?」

「六時までのシフトです」

「えー、それだと寝れる? 大学、昼からとか?」

「電車で寝てます」


 ……でん、しゃ?


「通学、何分くらい?」

「電車は、片道ニ十分くらいです」

「えー、ダメだよそんなの。身体壊すよ」

「……他に選択肢ないので」


 ……やば、ちょっと地雷踏んだかも。


「ごめんね、余計なこと言って」

「いえ、心配してくれてありがとうございます。嬉しかったです」


 ……ほんと、良い子だな。

 とにかく目が真っ直ぐで、力がある。


「それでは、そろそろ持ち場に戻ります」

「あ、うん。邪魔してごめんね」

「いえ、失礼いたします」


 彼は軽く会釈をして、踵を返した。

 私はその背中を見て、


「待って」


 無意識に、呼び止めた。

 その行動にきっと自分が一番驚いた。


 でも理由は直ぐに理解できた。私は彼が気になっている。あんなに綺麗な目をした人、初めて見た。


 だから、もっと話がしたい。


「何か?」

「あ、いや、えっと、その……」


 ノープラン。何も考えてない。

 混乱する頭で必死に考えて、パッと出た言葉を口にする。


「バイト、してみない?」

「……バイト、ですか?」


 直前まで資料を作っていたからだろうか?

 自分でも不思議なくらい、それっぽい言葉だった。


「君みたいな真面目な子に頼みたいことがあるんだよ」

「……詳しく聞かせてください」


 お、食いついた。

 彼からすれば友達の姉だし、そこそこ信用あるのかな?


「時間は週に一度、四時間。報酬は一万円でどうかな?」

「イベントの手伝いか何かですか?」

「いや、そういうのじゃないんだけど……」


 私はあちこちに目を動かした。

 テーブルの上を見た時、サラダが目に入った。その瞬間、私は提案していた。


「実は料理の練習してて、食べてくれる人が欲しい……みたいな?」

「弟か友達に頼めばいいのでは?」


 ……うん、今のはちょっと失敗だったね。


「知り合いだとほら、バイアスあるじゃん?」

「なるほど……しかしそれで一万円というのは、気が引けます」

「そう? 社会に出たらこんなもんだよ」


 噓を吐いた。

 私は普通に就職しただけ。

 自分の会社以外のことなんて知らない。


「私はオーケー。後は君が決めるだけ。どうする?」


 どうにか笑顔を作って言った。

 彼は悩むような素振りをした後、私の目を見た。


 ゾクリとした。

 年下とは思えない。人の心を覗き見るような目だった。


「お姉さん、優しいですね」

「……なんで?」

「俺のこと、助けようとしてくれてる」


 違う。私は自分のことしか考えていない。

 だけど、ここは彼の勘違いを利用することにした。


「こういうの、嫌い?」

「気持ちは嬉しいです。ただ……」

「ただ?」

「理由が分かりません。一万円は大金です。赤の他人に、どうしてそこまで?」


 一万円は大金か。金銭感覚が学生らしくてかわいいな。


「私の友達に、君と似たような子が、いたんだよね」


 私は噓を吐くことにした。


「その子、過労死しちゃった」


 チクリと罪悪感で胸が痛む。

 その痛みを表情に乗せて、噓に信憑性を持たせる。


「……すみません。変なことを聞きました」

「ううん、全然いいよ。だからその……私の自己満足に、付き合ってくれないかな?」


 ──ああ、やっぱり自分が嫌いだ。

 呼吸をするように噓を吐く。こんなにも綺麗で純粋な子を前にしていると、汚い自分が際立ってしまう。


「えっと、シンプルに考えてよ。君は、ご飯と、お金が貰える。自分でも言ってて怪しいけど、そこはほら、さっきの話と、弟の友達だからってことで。……だから君は、やるか、やらないか、それだけ決めて」


 ──ああ、本当にどうしようもない。

 これまで社会人として培った話術を、綺麗な学生を騙すために使っている。


「どうかな?」


 最後は女性としての武器を使う。

 それほど容姿に自信があるわけじゃないけど、上目遣いで言ってみた。


「……」


 彼は考え込む様子で目を閉じた。

 私は言葉を足したい気持ちをグッと抑えて判断を待つ。


 やがて彼は、微笑を浮かべて言った。


「日時と場所について、詳しく教えてください」



 *  *  *



 金曜日の夜。

 私が仕事を終えた後、六時から十時までの四時間。


 場所は、あの子の家。

 レインで送られた地図に従って辿り着いた先にあったのは、普通の一軒家だった。


 ……家族とか大丈夫なのかな?


 疑問に思いながら、彼に電話をする。


「もしもし? 多分、家の前に着いたよ」

『すぐ行きます』


 直ぐに玄関のドアが開いて、彼が現れた。


「あの、ご家族は大丈夫?」

「両親共に不在です。だから、台所を好きに使えます」

「何時頃に帰るの?」

「……さあ、少なくとも今日じゃないでしょうね」


 私はその言葉と態度で察した。

 不在というのは、まあ、そういうことなのだろう。


 ……この家に一人なんだ。


 中は普通の一軒家。玄関から見えるだけで三部屋はあり、外から見た感じだと二階建て。こんな家に一人で住むのは、何だか寂しいなと感じた。


「ここが台所です」


 彼が台所と呼んだのは、六畳くらいの部屋だった。

 中央にはテーブル。壁に沿うようにしてテレビや食器棚、シンクやガスコンロなどがある。今にでも一家団欒が始まりそうな部屋だ。


「待ち時間、俺は何をすればいいですか?」

「んー、私の会話相手になるとか?」

「分かりました」


 ……半分冗談だったのに。真面目くんめ。


「それじゃ、キッチン借りるね」


 私は準備を始める。

 ここで打ち明けると、普段の私は料理なんてしない。


 だって実家暮らしだもの。

 親が全部やってくれるから、自分でやる必要がない。


 でも今さら後には引けない。

 だから料理本を手に、家で練習をした。


 ……弟に味見させてるから大丈夫なはず。


 私は今日の目的を「料理の練習のため」と説明した。

 つまり練習のための練習。我ながら珍しく真面目だ。


 ……ここまでやってお金まであげるとか。私メッチャ貢ぐじゃん。どうしちゃったわけ?


 準備中、色々な雑念が頭に浮かぶ。

 それらを振り払うため、私は彼に声をかけた。


「ねぇ君、普段は料理とかするの?」

「……簡単なものなら」

「へー、どんなの?」

「野菜炒めとか、麻婆豆腐とか」


 それ並列? 麻婆豆腐って簡単に作れるの?


「そうだ忘れてた。アレルギーとか大丈夫?」

「猫以外大丈夫です」

「あ、猫ダメなんだ。私もだよ。奇遇だね」

「……そうですね」


 彼、会話下手だな。全く話が広がらない。

 緊張してるだけかな? ……年下っぽくて可愛いかも。


「ね、聞いても良いかな?」


 ──かくして、彼との奇妙な時間が始まった。

 週に一度、彼の家へ行き、ご飯を振る舞う。最後に一万円を渡してさようなら。


 客観的に見て、おかしな関係だ。 

 彼にだけメリットがあって、私には何もメリットが無い。


 だけど私は、一ヵ月経っても、二ヵ月経っても、この関係を継続させた。


 理由は……多分、一目惚れ。

 でもそれは綺麗な感情ではない。


 例えばそれは、街灯と羽虫のような関係だ。

 彼が綺麗な光なら、引き寄せられた羽虫が私である。


 心地良かった。

 綺麗な彼と過ごす時間だけは、自分も綺麗な人間であるかのように錯覚できた。


「どう? 美味しい?」

「……はい。とても美味しいです」

「そっか。良かった」


 私の作った料理を食べると、彼はいつも喜んでくれる。

 嬉しかった。その顔を見るだけで、一週間の疲れが全て吹き飛んだ。


「また眠そうな顔してるよ」

「……すみません。今週ちょっと、きつくて」

「寝ても良いよ。時間には起こすから」

「それは、申し訳ないです。お金を貰っているので」


 だけど、ふとしたとき我に返る。

 結局これは、お金が繋いでいる関係だ。


 綺麗じゃない。

 それはチクリと胸を刺して、穴を開ける。


 そこから何かが溢れ出る。

 少しずつ、少しずつ、何かが歪んでいった。



 *  *  *



 ある日、駅で偶然、私は見た。

 彼の隣。彼と同じ綺麗な目をした女の子が、歩いていた。


「ね、君って彼女とかいるの?」

「いないですけど」


 少し時間を開けてメッセージを送った。

 その返答を見て安堵した。……安堵? どうして?


 理由を考える。

 そして気が付いた。私は、彼のことが好きだ。


 ……どうしよう。


 だから分かる。

 あの子もきっと、彼が好きだ。


 ……すっごく、お似合いだった。


 一目見て勝てないと思った。

 あの二人の間に、私なんかが入り込む隙間は無い。


「ね、ちょっと良いかな?」


 毎週金曜日、魔法が解ける午後十時。

 私と彼は、いつものように玄関の外に立っていた。


 いつもなら、私は帰宅する。

 そして彼は真っ直ぐ深夜のバイトへ向かう。


「もちろん大丈夫ですけど、どうしました?」


 私は、初めて彼を引き留めた。

 

「……今日、バイト、休めない?」

「……はい?」


 彼は驚いた顔を見せた。

 その顔を見て、その日は、冷静になれた。


「冗談だよ。またね」


 私は笑顔を作り、その場から走り去った。

 最悪の気分だった。何をしているのだろうと思った。


 きっと私は怖かった。

 駅で見た女の子。もしも二人が恋人になったら、きっと私と彼の歪な関係も終わりだ。


 だって、そうでしょ?

 彼女居るのに、女の人を家に呼んで料理作らせて、さらにお金貰うとか、ありえる?


 ……いや彼女居なくてもありえないっつうの。

 

 分かってる。

 この関係は、とても脆い。


 ……やだ。離れたくない。


 気持ちがどんどん強くなる。

 やがて私は──彼に睡眠薬を飲ませた。


 コップの水に混ぜて、こっそりと。

 その結果、彼は寝落ち寸前みたいな状態になった。


「寝てもいいよ」


 私は囁いた。


「時間になったら、起こすから」

「……いえ、大丈夫です」


 彼はパチッと頬を叩いて、睡魔に抗った。


「そんなに頑張らなくても大丈夫。だって、今さらだよ」


 そうだ、今さらだ。

 私達の関係は健全じゃない。でもそれは私だけが悪いわけじゃない。優しい彼が……純粋な彼が悪い大人に騙されて、こんな歪な関係を維持しているせいでもある。


 彼はいつでも私を拒絶できる。

 でもそれをしない。だから、彼も悪い。


「もっと、お姉さんに甘えてもいいんだよ?」

「……そういう、わけ、には」


 彼は机に突っ伏した。

 穏やかな寝息。しばらくして机の上で何かが震えた。


「……スマホ」


 彼のスマホ。

 恐る恐る手を伸ばす。


「……これ、あの子かな」


 とても距離感の近いメッセージ。

 それを見て、私の心臓がドクンと胸を叩いた。


「……」


 彼に目を向ける。

 このスマホは指紋認証だから、彼の指を当てればロックを解除できる。


 使ってる指は、きっと右手の親指。

 いつも見ていたから分かる。それくらいなら知ってる。


「……」


 私は考える。

 例えば彼にキスをして、その写真を彼女に送ったら、どうなるだろう。


 きっと二人の関係に亀裂が入る。恋人になることを阻止できる。……いや、無理だ、冷静に話をすれば誤解は解ける。でも、そんな機会すら奪うような内容なら、どうだろう?


 例えば、彼のズボンを──


「……気持ち悪い」


 そんなことを考える自分のことが。


「……やっぱり、無理だよね」


 彼と私では釣り合わない。

 最初から分かっていたことだ。


 こんな気持ち、伝えられない。

 私は、純粋で真っ直ぐな彼の隣に立つべき人間じゃない。


「……諦めたくない」


 無理なら、変わればいい。


「……変われないよ。今さら」


 無理なら、変えればいい。

 そうだ。そうだよ。私が変わる必要なんて無い。


「……相変わらず隈、酷いな。ちゃんと寝ようって言ってるのに。もう、悪い子なんだから」


 真っ白で純粋な彼を堕落させる。

 真っ黒に染めてしまえば、きっと一緒に居られる。


「そんなに頑張らないで、もっとお姉さんに甘えてもいいんだよ?」


 彼が堕落すれば良い。

 そうすれば、私の想いを伝えることができる。


「もっと、悪い子(ふつう)になろうよ」


 彼の頬に手を当てて、私はそっと、呟いた。


「……好きだよ」


 返事は無い。聞こえるのは穏やかな寝息だけ。

 私の声は、今は決して届かない。それでも私は、もう一度だけ口を開いた。いつか届くことを願って、声を出した。


「……大好きだよ」


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