机の下の筑下さん~隣の席の美少女はなぜか私物をよく落とす~
俺の隣の筑下さんは授業中によく物を床に落とす。
ある時はシャープペン、ある時は筆箱、またある時は教科書。電子辞書を落としてしまった時の「しまった」という表情は記憶に新しい。
そんな彼女が一番よく床に落とすものが消しゴムだった。
青、白、黒の三色の線が横長に入った簡素なケース。それをどこか残念そうに拾い上げているのを、隣の机の俺はよく目撃している。
彼女の隣の席になったのは、高校生活も二年目を迎えて直ぐの頃だった。
苗字の都合もあり偶々彼女の隣に座った俺は、それから一週間ほどの間よく床に落ちる彼女の私物を拾い上げていた。
渡すたびに小さく小声で「ありがとう」と言われることが嬉しくて、周りの連中が気づく前にそっと彼女に拾い上げた私物を渡している。
そう言えばちょっと前に「どうしてそんなに物を落とすんだ?」と尋ねたことがあった。
俺の問いかけに彼女は「ちょっとニブちんなの」と照れくさそうに笑っていた。
しかし俺は知っている。彼女が一年の頃から成績優秀で、おまけに運動も得意で周囲への気配りも欠かさない人物であることを。
そんな彼女が自らを「ニブちん」だと例えたことがやたらと印象に残っている。
「……あっ」
筑下さんがまた消しゴムを床に落としたのは、春先の心地よさもようやく体に馴染んだゴールデンウイーク明けのとある日のことだった。
午後の授業は程よく青少年たちの睡魔を誘い、教室の至る所からこっくりと船を漕ぐ音が聞こえている。
そんな音に紛れてコトリと小さな音が響き、後に続いたのが先ほどのどこからか零れ出たかのような筑下さんの声だった。
長方形の消しゴムは一度床で小さく跳ねると、そのまま不規則な軌道を描きながらコロコロと俺の足元まで転がってくる。
もうすっかり見慣れてしまった光景だが、今までと少し違ったのはその日に限って俺と筑下さんが同時に消しゴムを拾おうと机の下に潜り込んでしまった事だ。
「「あっ……」」
瞬間、同じく机の下に頭を潜らせていた筑下さんと目が合った。
床まで届きそうな綺麗な黒髪の隙間から、筑下さんの整った顔がこちらを覗いていた。
「ふふっ……」
あっけにとられる俺の顔が面白かったのか、筑下さんはその顔を小さく綻ばせる。
その表情に思わず俺の顔がカッと熱くなるのが分かった。
「け、消しゴム……落としたぞ」
胸の高鳴りを悟られないよう、努めて冷静に消しゴムを手渡す。僅かに触れた彼女の指先から俺の心が見抜かれないかとより一層ドキドキしてしまう。
「……ありがと」
俺の胸中が見抜かれてしまってはいないだろうか。そう思い筑下さんの表情を盗みようと試みるが、その顔はいつの間にか机の下から姿を消してしまっていた。
それを若干残念に思いながらまたいつものように授業へ戻ると、既に黒板の文字がさっきより大分進んでしまっている。
慌てて手元のノートに書き写そうとすると、なぜか隣の筑下さんが口元を緩めながら俺を見つめていた。
「見る?」
彼女の口元が小さくそう動いたのが見えた。
「……授業終わったら写させて欲しい」
「いいよ、後でノート貸したげる」
これでもクラスではそこそこ真面目を気取っているのだ。板書を怠って成績を落としました、なんてのは洒落にならない。
それよりもいつのまに筑下さんは授業内容を書き写してたんだろう。
俺があんだけドギマギしてたってのに。筑下さんにとってはさっきの出来事はなんてことなかったんだろうか。
というよりもどうしてあんなに口元をニマニマさせていたんだろう。それほど机の下に潜り込んだ俺の姿は彼女の目に滑稽に映ったんだろうか。
その真意を彼女に問うほどの度胸は生憎と持ち合わせていなかった。
それからの数日間、やたらと筑下さんが消しゴムを落とす回数が増えた。
都度俺は机の下に潜り込み彼女の元へと消しゴムを返す。ある時は机の下の筑下さんと邂逅し、ある時は俺だけが机の下に潜り込む。
筑下さんと出会った時は嬉しかったし、いなかったらいなかったで低い視点に広がる教室に胸の高ぶりを覚えたものだ。
そんな俺が消しゴムを落としたのはまた更にしばらくしてからのことだった。
不注意というのは思わぬところに転がっているもので、教科書を捲ろうとした手で思い切り机の上の消しゴムを弾いてしまったのだ。
勢いよく飛び出た消しゴムはそのままコロコロと筑下さんの足元へ。
落ちた瞬間に机の下に顔を潜らせていた俺は、そのまま消しゴムを拾おうとした筑下さんと邂逅する。
「珍しいね」
俺の消しゴムを指先で弄びながら、筑下さんはそう言って笑った。
普段とは逆の立場になってしまった事で気恥ずかしさがこみ上げてくる。それと同時に筑下さんと机の下でまた顔を見合わせられたことが嬉しくもあった。
「はい」
「あ、ありがと」
消しゴムを受け取る際、筑下さんの白くて柔らかな細指が俺の手のひらをそっと撫でた。
「私好きなんだ」
「へっ!?」
唐突な筑下さんの告白に俺の上ずった声が一つ上がった。
「机の下」
「あ、あ、あぁ……」
何事かと思ったけどどうやら筑下さんは目の前に広がるこの光景をそう表現したらしい。
確かに彼女の言う通り。床に近い目線から見る教室は妙な高揚感を覚えさせる。机の下には教室の中の非日常が広がっていた。その光景を筑下さんと共有できたことがなぜか無性に嬉しかった。
「やっぱりニブちんだね」
ふと、机の下から抜け出す直前に筑下さんはそんな言葉を言い残した。
今回は俺が消しゴム落とした側なんだが。
「筑下さんはニブちんじゃないでしょ?」
先日述べたように筑下さんはよく物を床に落とす以外は優秀な女の子だ。おまけにルックスだって抜群だ。まぁ、彼女の容姿は今回のことにあまり関係はないのだが。
そんな彼女が自らを「ニブちん」と称するのは違和感だらけである。
「……そういうところだよ」
しかし俺の思惑とは裏腹に、筑下さんはそう言って不服そうに頬を膨らませた。
いったいどういうことだろう。筑下さんの言葉を脳内で反芻しながら机に戻ると、ふと俺の消しゴムのケースの隙間に小さな紙切れが挟んであるのが眼に入った。
『この、ニブちんめ』
女の子らしい綺麗な文字で書かれたノートの切れ端。こんなものが挟めるのは消しゴムを拾ってくれた筑下さんしかありえない。
ふと教科書の隙間から隣を盗み見ると、同じくこちらの様子を伺っていた筑下さんと目が合った。
「あ、あぁ……そういう……」
そこで俺はすべてを悟る。
筑下さんが言っていた「ニブちん」とは彼女自身のことではなくて、その隣に座る俺の方だったのだ。
するとすぐに筑下さんが消しゴムを落とした。その仕草は明らかにわざと自らの手で弾くような仕草。
隣の机の上では、何やら言いたげな筑下さんがニヨニヨと口元を緩めながらこちらを見つめていた。彼女の意図にそぐわぬ様に机の下に潜り込むと、案の定隣では筑下さんが待ち受けていた。
「なんというか、ニブちんでごめん」
「ほんとだよ」
俺がニブちんなのはこの際仕方ないとして、筑下さんのやり方も少々回りくどいんじゃないだろうか。
「でも、ちゃんと拾ってくれて嬉しかった」
机の下。教室の足元に広がる非日常。そこで咲く筑下さんの笑顔は、俺の気持ちを自覚するには十分なほどに眩しかった。
「これからは私の気持ちも上手に拾い上げてね」
そう言って笑う彼女の笑顔は俺の青春を染め上げるには十分なほどに魅力的だった。
どうやら彼女が落としたのは消しゴムじゃなくて俺だったらしい。