1章 二人の時間
支度を終えたミシェルは早足で自室を出て、階段を下りる。
サロンに入ると、先に支度を終えていたラファエルは果実水を飲みながら待っていてくれたようだ。側にダミアンがいるから、仕事をしていたのかもしれない。
「ラファエル様、お待たせしてしまったかしら?」
ミシェルが軽く腰を折って挨拶をすると、ラファエルは持っていた何かの書類をダミアンに手渡し立ち上がった。
「いや、大丈夫だ。……新しく作らせた乗馬服、似合っているよ」
「ありがとう。とても動きやすくて驚いたわ」
ミシェルはスカートのように見えるズボンを見下ろしながら微笑んだ。
あれから三か月が経った。
乗馬の練習を続けていたミシェルはすっかり上達し、春の花が咲き始めるころには、ドニから及第点を貰うまでになった。そして以前の小さな約束を叶えようと、ラファエルの休日を使って今日は二人で遠乗りに行くことになっている。
「凜々しくて、見蕩れてしまいそうだ」
ラファエルがミシェルに手を差し出す。
「もう、揶揄わないで」
ミシェルは僅かに頬を染めながらラファエルの手を取った。
目的地は王都の端にある湖だ。周囲は王家が所有する公園となっており、貴族だけでなく平民もよく利用しているという。
今日は、湖の畔にあるコテージを借りている。コテージには先に馬車でエマとデジレが向かっていて、食事をとって休憩することができるようにと、部屋を整え、料理をしてくれているらしい。
ミシェルもここ最近は、ずっと今日を楽しみにしていた。
公爵家の厩から、ララが初心者にお勧めだという小柄な馬を連れていく。ラファエルは普段から使っている栗毛の馬の手綱を握った。
鞍は先にララがつけてくれている。
ミシェルは思いきって馬の背に乗り、姿勢を正した。目線が高くなり、視界が開ける。ラファエルの後について、軽く腹を蹴って歩き出す。
最初は緊張していたミシェルも、少し歩かせると景色を楽しむ余裕が生まれてきた。
賢い馬はまだ遠乗りに慣れていないミシェルを気遣ってくれているようで、揺れも穏やかだ。普段よりも広く見える景色が、心を軽く開放的にしてくれる。
やがて王都の中心を避けて、緑が多い道に出た。
ラファエルが振り返って、ミシェルの様子を窺っている。
「大丈夫そうかな?」
「ええ。今日は天気も良くて、気持ちが良いわ」
ミシェルは馬の速度を僅かに上げて、ラファエルの隣に並んだ。
ラファエルが小さく笑って頷く。
「本当に、この数か月でとても上達したんだね」
「ありがとう。……少し走らせてみたいわ」
「うん。この辺りまで来れば良いね」
王都の中心から外れ、周囲には長閑な景色が広がっている。道幅も広く、馬を走らせるには最適と言えた。
ラファエルが先に馬の腹を蹴る。ミシェルもそれに続く。
天気が良いため、風もあまり冷たくはない。むしろ乗馬をしているからか、うっすら汗すらかき始めているミシェルには心地良いくらいだ。
馬場とは違い、走るたび景色が変わっていく。
馬車の中とは違い、どちらに行くのも自由だ。
こんなに気持ちが良いものならば、もっと早く知りたかった。
「──気持ちが良いわ」
「気に入ったのなら良かったよ。……あの先に見える林が、公園の入り口だ。裏から回って入るよ」
「ええ」
ラファエルがミシェルよりも僅かに前に出た。道に不慣れなミシェルを先導してくれるつもりなのだろう。
ミシェルは素直にラファエルについて走りながら、その背中を見つめていた。
あの夜会で出会ったパトリック・エロワ子爵は、その翌日にはフェリエ公爵邸へと手紙を送ってきた。内容はラファエルが確認した後でミシェルも見せてもらったが、大したことがない、というよりも、ミシェルにも予測ができた内容だった。
懐かしい相手によく似たミシェルに出会えた幸運を嬉しく思う。親戚である自分と会話をする機会が欲しい。
そんな内容が、便箋三枚分に渡ってびっしりと書かれていた。
ラファエルが調べてくれたことによると、パトリックはミシェルの母親であるエステルの従弟に当たる人物だった。
とはいえ、ミシェルの記憶の中にパトリックはいない。
エステルが死んでしまう前はオードラン伯爵邸からほとんど出ずに育った上、その後はあちらに売られ、こちらに売られと、親戚と交流を持つような生活はしていなかったからだ。
そう考えると、こうして自分の手で手綱を握って馬を走らせることができる今が、これまでで一番自由なのだと改めて思い知らされる。
社交に引っ張りだこであったこともあり、ミシェルはパトリックと会うのを先延ばしにしてもらっていた。ラファエルには会いたくないなら会わなくても良いと言われているが、それではいけないだろうことも分かっている。
しかし、どうしても夜会で感じていた視線の正体が分からず、思い出すとなんとなく背筋がぞっと冷えるような心地がするのだ。
「でも、いつまでも逃げてはいられないのよね」
ミシェルは風の音に紛れてしまうほど小さな声で呟いた。
あの日と似た視線を、ミシェルはその後の夜会でも何度か感じていた。そんなときには大抵パトリックが夜会に出席していて、挨拶をされていた。
ダンスに誘われたこともあったが、気が乗らず、毎回ラファエルから断ってもらっている。
ミシェルは正体不明のものへの恐怖よりも、知って安心することを望んでいた。同時に、会って話すことで何かが大きく変わってしまうことを恐れていた。
あの視線の正体は、何か、ミシェルの知らない真実に繋がっているのかもしれない。なんとなくそんな予感がする。
周囲は木々に囲まれていて、道は丁寧に舗装されている。
ラファエルが速度を落としたのに従って、ミシェルも馬に指示を出す。隣に並んだところで、不意にラファエルが口を開いた。
「ミシェル。ここまで、何を考えていたの?」
「え?」
ミシェルが首を傾げると、ラファエルは苦笑した。
そのまま会話がないまま、二人は目的地に着いてしまった。
湖畔のコテージ横にある太い木に馬を繋ぐ。長めに綱を取ったので、草を食べることも、水を飲むこともできるだろう。
ミシェルは、初めての遠乗りで問題なくここまで来ることができたことに安堵し、小さく溜息を吐いた。




