7章 幸せなこと
「ミシェル」
ミシェルが踵を返して数歩進んだところで、早足で追いついてきたラファエルが隣に並ぶ。ミシェルは歩調を緩めて、ラファエルの横顔を見上げた。
「ラファエル様。急がなくても良いって──」
そのとき、ラファエルがミシェルの頬に軽い口付けを落とした。
ミシェルが驚いて足を止めると、少し先でラファエルも立ち止まる。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃないです!」
ミシェルは顔が熱くなっているのを自覚しながらも、きっと強い視線をラファエルに向けた。
自宅とはいえ、廊下で当然のように口付けをされたのだ。少し後ろにはダミアンだっている。部屋でならばまだしも、ここでは恥ずかしい。
「あ、私のことはお気になさらず。主人の幸福は使用人一同喜ばしいことでございますので」
まさに今ダミアンのことを考えていたところで、背後から声が聞こえてくる。内容こそ常識であるように聞こえるが、ダミアンの声は笑いを堪えているように震えていた。
「ダミアンだって笑っているじゃないですか」
ミシェルの抗議に、ラファエルは小さく首を傾げる。
「──笑っているのかな?」
「い、いいえいいえ! 笑ってなどおりませんとも」
ダミアンはそう言って、そそくさとミシェルとラファエルの横を通り過ぎ、ラファエルの部屋に行ってしまった。
廊下に残されたミシェルとラファエルは、思わず顔を見合わせる。
「笑ってないって」
「……ラファエル様、それは無理があると思うわ」
ミシェルが言うと、ラファエルはそうだね、と言って笑った。その様子がなんだか可笑しくて、ミシェルも笑い声を上げる。
ひとしきり笑ってから、ラファエルは真面目な顔をミシェルに向けた。
さっきまでの甘い雰囲気が嘘のようだ。
「ねえ、ミシェル。言わなきゃいけないことがあるんだけど……明日の朝、エマと一緒に話せるかな」
「明日の朝でよろしいのですか?」
「今日はエマは休みにしているだろう。急ぎではないんだ。でも……二人に話したい」
ラファエルの顔からは、微笑みすら抜け落ちている。アメジストの瞳にまっすぐに見つめられて、ミシェルは逃げ場を奪われた。
本当は、逃げようともしていなかったのだが。
こうして感情を殺し、厳しいことを考えなければならない日々をラファエルが普段から過ごしているのだと思うと、ミシェルの心が少し痛んだ。
今のミシェルは、ラファエルと並んで一人前だと名乗れるだけのものはまだないかもしれない。それでも、もっと多くの知識を覚えて、家のことでも社交でも力になりたい。
ラファエルが背負うものを、もっと分けてもらえるようになりたい。
それになにより、ミシェルはラファエルに笑ってほしい。
「はい。では、明日。でも、それまでは……今夜は、楽しく食事をしましょう」
小首を傾げて見せると、ラファエルは頷き口元を綻ばせた。
「そうだね。ありがとう、ミシェル」
ラファエルが言う。
私室の扉の前でラファエルと別れたミシェルは、昨日よりは少し自然に口にできるようになった話し言葉にほっと小さく息を吐き、鏡台の周りを整えていたララに声をかけた。
そして翌朝。昨夜もラファエルと同じ寝台で眠ったミシェルは、ついにエマに起床を目撃されてしまった。
エマは驚いていたものの、二人の気持ちが通じ合ったことを喜んだ。
ミシェルは恥ずかしかったが、いつまでも隠し続けることはできないと思って納得する。
「──私は先に支度をしてサロンに下りているから、ミシェルは焦らないで着替えておいで」
ラファエルは軽くミシェルを抱き寄せて、ミシェルの部屋から出て行った。
ミシェルはラファエルが出て行った扉をちらりと見てから、洗顔用の湯を持ってきていたエマに顔を向ける。
エマは、笑いを堪えていることが一目で分かるほど頬を膨らませていた。
「──なんて顔してるのかしら」
「だって、旦那様が面白すぎて……! あの人、割と抜け目ない人だと思ってたんですけど、ちゃんとした恋愛は初めてなんでしょうね。全身から好意が透けてますよ。元々過保護でしたが、こんな風になるとは思いませんでした」
エマが盥とタオルをサイドテーブルに置いて、堪えきれないというように笑い出す。自分が休んでいる間にミシェルとラファエルの関係が大きく変わったことが可笑しくて仕方ないようだ。
ひとしきり笑ったエマが、目尻に滲んだ涙を袖で拭った。
「でも……良かったですね、ミシェル様」
エマは、オードラン伯爵家にいた頃のミシェルを一番側で見てきた。バルテレミー伯爵邸での出来事で、アランに引き取られる前にそこでどんな暮らしをしていたのかも、想像できてしまったのだろう。
ミシェルは、エマには知られたくないと思っていた。
エマに知られてしまったら、きっといつかと同じように、エマはミシェルの分までその不条理に憤ってくれる。それを嬉しく感じながらも、同時に自分が惨めであると思い知らされてしまうからだ。
でも、今のミシェルはもう、惨めではない。
これからは、生きたいように生きて良い。自分で好きだと思うことを見つけて、それをやっても良い。
誰に許されるでもなく、自分のすることを自分で考えることができるのだ。
それに、信頼できるエマと、大切にしてくれるラファエルが側にいてくれる。
「ええ。……本当に」
それは不安もあるけれど、とても幸せなことだった。




