7章 一夜明けて
◇ ◇ ◇
翌朝目覚めたミシェルは、いつもよりも温かな布団にまた目を閉じた。
数日間、バルテレミー伯爵邸で過ごしたからだろうか。こんなにもフェリエ公爵邸の寝台を心地良く感じるなんて、すっかり贅沢に慣れてしまったのかもしれない。
すぐ側にある温もりに頬ずりをして──その固さに、ミシェルははっと目を開けた。
「──おはよう、ミシェル」
そこには、ミシェルよりも早く起きていたらしいラファエルが横になっていた。いつの間にか腕枕までされている。
ミシェルが頬ずりしたのは、ラファエルの胸だったらしい。
「え、ラファエル様……? わ、申し訳ございませ──」
慌てて距離を取ろうとしたミシェルは、ラファエルが伸ばした腕に包まれて動けなくなった。
「逃げなくて良いから」
ミシェルはラファエルの行動に内心で首を傾げる。
「でも、腕、痛くないですか?」
「うーん、大丈夫だよ。ミシェルがここにいてくれる方が大事」
砂糖菓子のように甘い声だ。声と同じように、ラファエルの顔も、ミシェルを包む腕も、全てが甘い。
ミシェルは頬を染めた。
「そ、それは……」
ラファエルがそう言うのならば、もう少しこの甘さに浸っていても良いのだろうか。でも、こんな状況をララとノエルならばまだしも、付き合いの長いエマに見られたら恥ずかしくて堪らない。
しかし思い返してみると、エマは今日は休日にさせている筈だ。
ミシェルと共にバルテレミー伯爵邸に攫われていた間、いつかと同じような虐待を受けていたミシェルよりも、見たくもない光景を見せられていたエマの方が辛かったかもしれない。
昨日もいつもよりずっと早い時間には下がらせていたのだ。どうか休んで、少しでも回復できたら良い。
ミシェルがぐるぐると思考の渦に呑まれかけたところで、ラファエルが不意にミシェルの髪を撫でた。
「あ、そうだミシェル。私には敬語を使わなくて良いよ」
「敬語を、ですか?」
「うん。エマと仲良く話すの、羨ましいと思ってたんだ」
ラファエルはそう言うが、きっとそれだけの理由ではないのだろう。
かつて没落した家で虐げられていたミシェルが、心の中で驚いている。公爵家の当主であるラファエルが、ミシェルに気軽な口調を使うように頼む、なんて。
少しでもミシェルとの心の距離を縮めようとしてくれているようで、なんだかこそばゆい申し出のようにも感じた。
そのどちらの感情も、嫌なものではない。
「ラファエル様がそう仰るので……そう言ってくれるなら、頑張るわ」
すぐに慣れることはできないだろうが、これから少しずつでも変わっていけたら嬉しい。そうして二人の距離も、近付けていけるように。
「ありがとう。でも、頑張らなくても良いよ。本当は、ミシェルが楽なのが一番良いんだ。これは、私の我儘だから」
「ラファエル様が我儘を言ってくれるなんて、何だか嬉しいわ」
「……ふふ。これも夫の特権、かな」
ラファエルがミシェルを抱き寄せて、額にそっと口付けを落とす。
ミシェルは恥ずかしがりながらも笑顔でそれを受け入れて、くすくすと小さく笑い声を上げた。
「まだ早いから、もう少しこうして話をしてたいな。良いよね、ミシェル」
「うーん。ララ達が起こしにくる前には、起きるからね」
今日はラファエルも午前中の予定はないらしい。ミシェルもこうして夫婦らしい会話の時間をとることができて嬉しかった。
それでも、まだ侍女にその場を目撃されるのは恥ずかしい。
気にしないようにするのが淑女の常識だとしても、周囲に使用人が何人もいるような生活にはまだ慣れきっていないのだ。
「分かっているよ」
今度はラファエルが笑って、二人で掛けている布団を持ち上げて肩まで潜り込んでしまった。その仕草がまるで悪戯な子供のようで、ミシェルもまた笑ってしまう。
ミシェルはこれまでに見たことがなかったラファエルの様々な表情を目の当たりにして、鼓動が騒がしくて仕方なかった。
そのとき、二人の部屋を繋ぐ扉を遠慮がちに叩く音が聞こえた。
「──旦那様、こちらにいらっしゃいますか?」
「ダミアンだ」
ラファエルが布団を持ち上げて、寝台から抜け出す。ダミアンから夜着姿のミシェルが見えないようにしっかりと天蓋を閉め直し、扉を開けた。
ミシェルは上体を起こしてストールを肩に掛けた。
ラファエルとダミアンの声は小さく、話している内容はこちらまで聞こえない。しかし漏れ聞こえる声音から、予想外の出来事なのだということだけは分かった。
ミシェルは、何か良くないことが起きたのかと不安になる。
扉を閉めたラファエルが早足に歩み寄ってくる。
天蓋をかき分けたラファエルが、ミシェルの顔を見て小さく息を吐いた。
「ごめん、急用だ。……できるだけ早く帰ってくるから、念の為、今日はこの家から出ないでくれる?」
何かあったのだろう。
しかしラファエルは、ミシェルを不安にしないようにと気遣ってくれているのか、仮面の微笑みともまた違う、優しい顔でミシェルを見ている。
ならばミシェルは、今は気付かないふりをするだけだ。
「はい、分かりました。お見送りは──」
「着替えてすぐに出るから、ここで良いよ」
ラファエルが言う。
ミシェルが頷くと、ラファエルはミシェルの身体を引き寄せて優しく抱き締めた。
「いってくるね、ミシェル」
「いってらっしゃい」
触れるだけの口付けが、そっと落とされる。ミシェルが微笑んで見せると、ラファエルは軽くミシェルの頭を撫でて踵を返した。
ラファエルの背中を見送るミシェルの視界を、落ちてきた天蓋の布が遮る。
ミシェルは目を閉じ、もう悲しいことが起こらないようにと願った。




