6章 居心地の良い場所
ミシェルはノエルの手伝いで着替えを終えて、長く波打つ髪を左耳の下で緩く三つ編みにした。端の部分は夜着と揃いのレースのリボンを結んでいる。
部屋の明かりは少し小さくしてもらった。ラファエルが寝支度を終えてからやってくるのに、明るすぎるというのは目に痛いだろう。
そしてミシェルは、疲労の残る身体を果実水を飲んで誤魔化しながら、ラファエルがやってくるのを待っていた。
「──ミシェル、入って良いかな?」
数度しか使われていない互いの寝室を繋ぐ扉から、夜に相応しい穏やかな声がかけられる。
ミシェルは一度大きく高鳴った鼓動を誤魔化すように深呼吸をした。
「はい。……どうぞ」
扉がきいと小さな音を立てて開かれる。
入ってきたラファエルは、ソファーに腰掛けているミシェルを見て口角を上げた。
「──良かった。話さないといけないことがあるんだ」
ラファエルがミシェルの隣に座る。
ミシェルはノエルに準備してもらっていたグラスに、ラファエルの分の果実水を注いだ。
「ありがとう。……ええと、何から話そうか」
ラファエルが苦笑して、グラスに口を付ける。
「バルテレミー伯爵のことは、どうなりましたか」
ミシェルが聞くと、ラファエルはミシェルがフェリエ公爵邸に戻ってきた後のことを話してくれた。
バルテレミー伯爵とアンドレ伯爵は逮捕され、バルテレミー伯爵邸の使用人は騎士団の宿泊棟で保護された。バルテレミー伯爵邸の周囲には騎士が配置され、裁きが下るまで家人の外出は許されない。アンドレ伯爵邸にもこれから調査が入り、これまでに妻とされた令嬢達についても捜査が入るという。
「だから、ミシェルは安心して良いよ。私も……二度と君を誰にも傷付けさせないと、約束するから」
「……ありがとう、ございます」
ラファエルの言葉はこれまで通り優しいのに、優しいだけではなかった。その言葉に潜む覚悟と甘さが、ミシェルの瞳を潤ませる。
どうにか涙を堪えながら、ミシェルは微笑んだ。
そんなミシェルに微笑みを返したラファエルが、ふと、何かを思い出すように目を伏せた。
「あとね、ミシェルが心配していたデジレさんだけど。ミシェルさえよければ、今回の件が片付いたら、ここに招こうかと思っているんだ」
「ここに、ですか?」
ミシェルはラファエルの提案に驚き、目を見張った。
「そう。うちの料理長と上手くやっていけるなら……ってことにはなるんだけどね。でも彼も職人肌の人だから、多分大丈夫だと思うよ」
ミシェルもフェリエ公爵家のお抱え料理長とは何度も話したことがある。料理の研究と追求を怠らず、ミシェルが質問をするといつも丁寧に聞いていないことまで教えてくれるような人だ。
デジレはバルテレミー伯爵邸の厨房を一人で長く預かってきた人物だ。あの家が裕福だった頃からお抱えとして働き続けているのだから、腕は確かなのだろう。
ぶつかり合うことがなければ、良い関係を築いてくれそうだった。
「よろしいのですか?」
「あのね、ミシェル。貴族の婚姻のとき、妻側は何人もの使用人を連れて嫁いでくるものだよ。それは、嫁ぎ先に自分の味方になってくれる人を連れてくる意味もあるんだ」
「それは存じていますけれど……」
ラファエルが言う通り、この国ではそういった慣例があるのだと、オードラン伯爵家で付けてもらっていた家庭教師から聞いている。しかしその話を聞きながら、ミシェルは自分には関係のないことだとどこかで感じていた。
嫁ぎ先に連れていく使用人には、基本的に当主から特別手当が支給される。それはかなりの額で、万一のときに最低限の生活をしていくことができるほどらしい。
兄であったアランが、ミシェルのためにそれほどの金を使うとは思っていなかった。
オードラン伯爵家にはエマ以外の味方もいなかった。だから、ミシェルはどこに嫁がされることになっても、孤独だろうと思っていたのに。
「……私は君に、その『味方』を連れてくる機会をあげられなかったから。こんな形になってしまうけれど、せめてミシェルがこの家で居心地良く過ごせたら良いと思う」
フェリエ公爵邸が自分の帰るべき家だと、感じたばかりだった。まだ仲良くなった使用人はそう多くないが、それでも皆ミシェルを女主人として慕ってくれている。
それだけで幸せなことで、それ以上を望むことなど考えてもいなかった。
それなのにラファエルはまた、ミシェルのためにこうして先回りして、この家をもっと居心地の良い場所にしようとしてくれている。
「私、今日、この屋敷を『帰る場所』だと感じました。だからそこまでしていただかなくても、居心地は良いと思っているんです。……でも、またデジレといられるのは……嬉しい、です」
バルテレミー伯爵家で、デジレは何度もミシェルを助けてくれた。自分の得になることなど何もなかっただろうに、見捨てられることは最後までなかった。
この家で仲間として、今度は楽しい思い出をたくさん作りたい。
「ラファエル様。本当に……ありがとうございます」
ミシェルは今度こそ涙を流していた。心の許容量を超えた幸福な気持ちをどう受け止めていいのか分からない。
ラファエルがミシェルの頬を指でなぞって、そっと涙を拭ってくれる。
「──……今日は、もう寝ようか」
零れる涙を、ラファエルの指がまた追いかける。
「これからは、夜は一緒に眠らせてほしい。ミシェルの心の準備ができるまで、手は出さないと誓うから……もう、少しも離れていたくないんだ」
大人びた優しい指の動きに反して、側にいたいと言う声は子供のように純粋だった。
ミシェルは僅かに俯き、それからしっかりと頷く。
今はまだ、ミシェルはこの先のことを考えられていなかった。
それでも、いつか。自分の全てをラファエルに見せる日が来るのだろう。そのときに幸せだとめいいっぱい伝えられたら良いな、と思う。
ラファエルがふわりと表情を緩め、ミシェルの手を取って立ち上がらせた。
「そうと決まれば、今日は早く休もう。私のせいで、ミシェルに無理をさせてしまったね。どうか、ゆっくり休んで」
ミシェルはラファエルと並んで寝台に入り、布団をかけた。
温かな空間で、ラファエルに導かれるがままに手を繋ぐ。
「おやすみ、ミシェル。また明日」
「おやすみなさい、ラファエル様」
手を繋いだまま、目を閉じる。
どきどきしてなかなか眠れないでいたが、しばらくすると大きく固い手の感触にも慣れてきた。そうすると、今度はその温かさに意識が向く。
なんて優しい場所だろう。
眠れないだろうと思っていたのに、身体はこれまでの疲れと突然やって来た安堵には逆らえない。
いつの間にか、ミシェルはすっかり深い眠りの中に落ちていたのだった。




