6章 幸福な恋
ミシェルは驚き、身体を硬直させた。
ラファエルはそんなミシェルの背中に両腕を伸ばして抱き締める。やがてミシェルに逃げる意思がないと分かると、少しずつ腕の力が弱くなり、ゆるく抱き寄せられているような体勢になった。
状況を理解したミシェルは、今度は恥ずかしくて真っ赤な顔を見られないように俯かなければならなかった。
「──どうして逃げたの?」
ラファエルが聞いてくる。
ミシェルにはどう答えていいか分からない。
そもそも攫われる直前、ミシェルはラファエルに自身の恋心を告白している。ラファエルは、自分にはそんな資格は無いというように、ミシェルを遠ざけようとしていた筈だ。
ミシェルは立場を弁えなければならないと思っていたのに。
黙ったままでいたミシェルに、ラファエルが言葉を重ねる。
「ミシェルは、以前私に勝手に触れても良いと言ってくれたね」
ラファエルの右手が、ミシェルの頤にかかる。そのままそっと上向けられてしまうと、ミシェルはもうラファエルから逃げられなかった。
「そ、そういう意味じゃないですわ!」
「分かっているよ。……私はね、ミシェル。君に恋をしたみたいなんだ」
ラファエルがあまりに自然な調子で言うものだから、ミシェルは一瞬何と言ったのか分からなかった。
真意を探るようにじっと見つめたラファエルの綺麗な瞳の中には、瞳が潤んでいるミシェルが映っている。その顔は、ミシェルが見ても恋をしている女の顔だった。
ミシェルの瞳に映るラファエルの顔も、照れているかのようにはにかんでいる。
「──……恋、ですか?」
「そう。君がいなくなって寂しかった。何度も自分を責めたよ。どうにかして助け出さないといけないって、思った。母親のようにミシェルまで失ってしまったらと思うと、心が騒いだ」
「ご迷惑を──」
ミシェルが咄嗟に謝罪の言葉を紡ごうとした、その唇に、ラファエルの指が触れた。
咄嗟に言葉を呑み込むと、ラファエルが苦笑して首を振る。
「でも、ミシェルは自分の力で逃げ出してきたね。苦しかったのに、知恵を絞って、無理をして……そうして、私の元に帰ってきてくれた。私にはミシェルのその強さが、どうしようもなく眩しかった」
「ラファエル、様……」
「眩しくて、恋しくて……もうずっと、ミシェルの全てが愛しくて仕方なかったのだと、気付かされたよ」
ミシェルは息を呑んだ。その唇に、ラファエルのそれが触れる。ふわりと柔らかく触れて離れた温もりは、すぐにまた降ってきた。
そうして繰り返される甘やかな感触が、ミシェルの心を幸福で埋めていく。
好きだと思った。恋をしていると告白したとき、受け入れてもらえなくて悲しかった。
それが今は、両手を広げて思い切り受け止めなければ耐えられないほどの幸福な恋をいっぱいに受け止めている。
いっぱいに広げた両手は、ラファエルの広い背中に回している。
力が抜けていくミシェルを支えるように、ラファエルが背中に回していた腕の力を強めた。
やがて最後の口付けを終えて、ラファエルはすっかり立てなくなってしまったミシェルをそっと抱き上げた。
「──というわけで、今日からミシェルと私は互いに恋をしている新婚夫婦だ。良いね?」
「た、互いに恋をしている、ですか」
「君が先に言ってくれたのだろう? ……それとも、こんなに不甲斐ない私のことはもう夫とは思えない?」
「そんなことはありません! 私はラファエル様のこと、……好きです、から」
「うん。ありがとう」
ラファエルの微笑みは、ミシェルが見慣れた仮面のものではない。今の微笑みには、喜びと少しの羞恥心、そして高揚感のようなものがちらついている。
そこに確かに宿っている熱が、ミシェルをラファエルに酔わせていく。
「着替えと食事を済ませてくるから、少しだけ部屋で待っていてね。もう寝るだけだから、ミシェルも楽な服に着替えておくと良いよ」
ラファエルがサロンを出て、二階へと階段を上っていく。
ミシェルはラファエルの首に両腕を回して、その胸元に顔を埋めた。
心臓の鼓動が煩くて仕方ない。世の中の恋人達は、こんなにも落ち着かない毎日を皆過ごしているのだろうか。
「分かりました……」
こんなにどきどきと煩い毎日が日常になってしまったら、日々の生活に支障が出てしまいそうだ。
ミシェルの部屋の扉がラファエルの手で開かれる。部屋で待っていたノエルが、微笑ましいものを見る目を向けていた。
ミシェルはまた、ラファエルの手でソファーに降ろされた。
「それじゃ、後でね」
ラファエルが扉を閉めて部屋を出ていく。
ミシェルはまだ熱い頬を両手で覆って、閉まったばかりの扉を見ていた。
「──奥様、どうかなさいましたか?」
ミシェルの私室を整えてくれていたノエルが、僅かに頬を染めながら言う。
暖炉には薪が足されていて、部屋は暖かい。寝台は綺麗に整えられている。その端には、ミシェルの夜着が畳んで置かれていた。
それが目に入った途端、ミシェルは更に体温が上がったのを感じる。
「ラファエル様が、着替えてお部屋で待っていてって──」
ミシェルが両手の隙間から声を漏らすと、ノエルがまあと驚いた声を上げた。




