6章 「愛らしい」
ラファエルはその場でフェリクスと別れ、まっすぐにフェリエ公爵邸へと帰宅することにした。
本当は、王城に戻ってするべき仕事が残っている。フェリクスに助力してもらった分、彼の執務を手伝ってやるべきだとも分かっていた。
しかしラファエルがすぐに帰りたいと言うと、フェリクスは笑って許可をくれた。そして、明日は午後にでも顔を出してくれればいいと、言ってくれたのだ。
家に帰りたいとこんなにも強く思ったのは、自分が当主となってから初めてだった。
明かりが入れられた正門を抜けて、正面玄関の前で馬車が停まる。ラファエルはダミアンを馬車に残してさっさと飛び降り、早足で階段を上った。
自ら玄関扉に手をかけて開けると、まだ残っていた使用人達が整列し頭を下げた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
いつもと変わらない礼儀正しい使用人達だが、その口元は僅かに緩んでいる。ラファエルの焦燥が伝わっているのだろうか。
「ああ、今帰ったよ。……ミシェルはもう眠ってしまっているかな」
ラファエルはすぐに妻であるミシェルの所在を聞いた。
待っていると言ってくれていたが、眠ってしまっていても仕方ない。バルテレミー伯爵邸では安心できない日々を過ごしていただろう。そう思っていた。
しかしそんな感情は、サロンから駆け足で出てきたミシェルの姿を見つけた瞬間に消えてしまった。
「ラファエル様、おかえりなさいませ」
ミシェルはふわりと微笑んでいる。
先程までは乱れていた髪も汚れがついていた肌も、侍女達の手によって綺麗に整えられている。白い室内用のワンピースが翻り、屋敷とのコントラストでまるで本物の天使のように見えた。
微笑みには一点の偽りもない。素直にラファエルの帰りを待っていたことが伝わる愛らしいものだった。
そして、愛らしい、と素直に感じた自分自身の感情に、ラファエルは動揺した。
「ただいま、ミシェル」
自分の声がいつも通りであるという自信がない。こんな挨拶の言葉一つに気持ちが揺らぐなど、信じられない。
ミシェルの頬が染まっているのは、どうしてだろう。
「お食事、まだですよね。料理長にお願いして用意してもらっているんです。着替えていらしてくださいませ」
ミシェルがぱっと逃げるようにサロンに戻っていく。
ラファエルはそのいじらしい姿が恋しくて、上着を使用人に預けてミシェルの後を追った。
◇ ◇ ◇
ミシェルは少しだけソファーで仮眠を取って、ラファエルの帰りを待っていた。すっかり日が沈んでしまっても、身体が疲労を訴えていても、寝台に入る気にはなれない。
そうして落ち着かずにいると、ノエルがサロンで待っていようと提案してくれた。
そしてミシェルは、ノエルが選んだ室内用の服の中でも特に愛らしいふわふわしたワンピースを着て、料理人が用意してくれた食べやすい食事を済ませて、サロンで蹄の音が聞こえてくるのを待っていた。
やがて待ち焦がれていた音が聞こえ、ミシェルは弾かれたように立ち上がってサロンの入り口から玄関を覗いた。
しばらくして、玄関扉が開く。
使用人の挨拶を聞いてもなお、ミシェルはその場から動けずにいた。
どうしようもなくラファエルに触れたかった。馬車の中でずっと腕の中にいたからだろうか。一度知ってしまった花の蜜をまた求める蝶のように、ミシェルはラファエルにこれまで以上に惹かれていた。
「ああ、今帰ったよ。……ミシェルはもう眠ってしまっているかな」
ラファエルの声が、僅かに揺れた。それはまるで、ミシェルに会いたいと言っているかのように甘い。
ミシェルは逸る気持ちのままに、駆け足でサロンから飛び出した。
「──ラファエル様、おかえりなさいませ」
それでも一欠片の理性が、ミシェルを数歩先で留まらせる。
ミシェルはラファエルに恋をしているが、ラファエルはそうではない。ただ、自分のせいで攫われてしまったミシェルに亡き母親の姿を重ねているのだと、あの日の塔で言っていたではないか。
ミシェルは頬を染めて、自分の我儘な欲求を胸の内に押し込んだ。
「お食事、まだですよね。料理長にお願いして用意してもらっているんです。着替えていらしてくださいませ」
ミシェルは踵を返して、逃げるようにサロンに戻った。ラファエルが着替えをしているうちに、少し落ち着きたかった。
こんなふわふわとした気持ちでいては、ラファエルも迷惑だろう。
そもそもこんなことになったのも、幸福に浸って気を抜いていたミシェルのせいだ。今回の事件を機に、もっと気を引き締めなければいけないと反省していたのに。
ミシェルが座っていたソファーには、ラファエルが帰ってくるまで飲んでいたハーブティーが置かれている。バルテレミー伯爵家でまともな食事をしていなかったミシェルを気遣って、ララが淹れてくれたものだ。
たしかまだ残っていたから、それを飲んでいよう。
そう思ったミシェルの手首が、強い力で後ろに引かれた。
次の瞬間、ミシェルはラファエルの胸の中にいた。




