5章 再会
◇ ◇ ◇
相変わらず平行線のままのバルテレミー伯爵との話し合いを終え、ラファエルは屋敷の外へ出た。
公爵家の馬車が側に停まっている。
すぐそこまでの距離なのに、足は異常に重かった。
ミシェルがこの屋敷の中で今も苦しめられているのに、ラファエルにはこんなことしかできない。結局フェリクスに頼ってどうにかするしかないのだ。
無力な自分は昔も今も変わらない。大切だと思うものこそ、ラファエルはいつも正しく守れない。
もうずっと、自分の鼓動が煩かった。怒りのせいか、不安のせいか。耳元で鳴り続ける音が不快で、どうにか消してしまいたいと願うほどだ。
玄関扉を閉めたラファエルは、ふと小さな違和感に気付いて振り返る。
「私兵がいないな……」
ラファエルが屋敷を訪ねたときには、確かに三人の兵士が立っていた。それなのに、今ラファエルの視界には公爵家の護衛しか見当たらない。
とはいえ、交代の時間ということもあるだろう。疑問を抱いたまま、ラファエルは馬車の扉を叩いた。
中からダミアンの声がして、扉が開けられる。乗り込んだラファエルは後ろ手に扉を閉めて、フェリクスの隣に腰掛けた。気が重く、なかなか顔を上げられない。
「やはり私では駄目だ。当初の予定通り、この後殿下が──」
「そんなことより、君はまず顔を上げるべきだよ」
フェリクスが言う。
確かに、ラファエルは馬車に乗ってから一度も顔を上げていなかった。俯いてばかりでは、見えるものも見えなくなってしまう。冷静になるためにも、現実を受け入れなければ。
ラファエルはようやく顔を上げる。
そこに焦がれていた存在を見つけて、ラファエルは言葉を失った。
「──……ミ、シェル?」
ようやく絞り出した声は擦れていた。
いつの間にか、口にするだけで心が穏やかになったり、締めつけられるように痛むようになったりと、振り回されるようになっていた、大切な名前だ。
それなのに、ラファエルはこんなときに、その名前をきちんと呼ぶことすらできなかった。
ミシェルがラファエルを見て、その愛らしい顔にくしゃりと笑みを浮かべる。薄茶色の長い髪は乱れて広がっているが、アクアマリンの透きとおった瞳は陰っていなかった。
それでも数日前よりも弱々しい微笑みに、ラファエルの心が掻き乱される。
「……ご心配をおかけしました、ラファエル様」
小さな声でミシェルが言う。
不器用な笑み、乱れた髪、こんな状況でも伸ばしている背筋。その一つ一つが、こんなにも尊い。それらはミシェルを形作るもので、ラファエルの心を騒めかせるものだ。
それが今、手の届く場所にあるという奇跡が、ラファエルを動かした。
「ミシェル……!」
気付けばラファエルは、ミシェルに両腕を伸ばしていた。
どうして、どうやって、ここに。思考がまったく追いついてくれない。それでも今のラファエルは、どうしてもこの存在を手放したくはなかった。それだけは分かった。
ラファエルが自分の愚かさを呪っているうちに、ミシェルはこうして自力でラファエルの元に戻ってきてくれた。それがどれだけ大変なことだったか。
「ラファエル様──」
ミシェルもラファエルも、馬車の床に座るような格好になっている。
小さく白い手が、ラファエルの背中に回る。ミシェルが羽織っていたブランケットがぱさりと落ちた。
しかしラファエルはもうミシェルから離れることができなかった。ラファエルの腕の中にすっぽりと収まってしまうほど細く小さな存在を、どうして手放すことができるだろう。
「あー。とりあえず、馬車、出して」
笑いをかみ殺しながら馬車に指示を出したのはフェリクスだった。
◇ ◇ ◇
ラファエルの腕が、ミシェルをしっかりと抱き締めている。決して離さないという強い意思が感じられるその場所は、息苦しさよりも喜びの方が勝っていた。
ほんの数日のことであったのに、ミシェルはもうラファエルと過ごした幸福な日々を、短い夢を見ていたと思い込もうとしていたのだ。
諦めることに慣れていた。
自分の思い通りにならないことが当然で、小さな幸福を抱き締めて生きていければ良いと思っていた。
「ラファエル様……ただいま、帰りました」
それなのに、側にいてくれるエマを不幸にしたくないと思った。
影の声を聞いた瞬間、ラファエルが心配してくれているのだと気付いて泣きそうになった。
ラファエルの姿を見た今は、もう二度とこの人の側から離れたくない。
「……おかえり、ミシェル」
ラファエルの声が、暖かく優しくミシェルの心を融かしていく。
強くあらなければならないと思っていた。そうでなければ、ミシェルは生きていけなかった。
この場所では、ミシェルはただの年相応の令嬢らしく縋っても許されてしまう。
そんな事実が、ただ、どうしようもないくらい、嬉しくて仕方なかった。




