2章 オードラン伯爵家
オードラン伯爵家は、ミシェルの記憶の中とは様変わりしていた。
庭は華やかとは言えないが綺麗に整えられ、屋敷の外壁も修理されたらしくひび割れがなくなっている。玄関前には使用人が待っていて、アランの帰宅に合わせて扉を左右に開く。
すっきりとした使用人服を着た執事が、馬車を降りたアランに頭を下げた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
「今帰った。ナタリアは?」
「サロンでお待ちでございます」
ミシェルは馬車を降りて、扉の中を覗き込んだ。
ところどころに飾られる絵画と美術品。シャンデリアはかつてよりもしっかりと磨かれ、室内を明るく照らしている。
高価なものかどうかは分からないが、緊張する。ミシェルは自分の家ではないような違和感を覚え、持ってきた手提げ鞄を両手で握り締めた。
「そうか、ありがとう。……付いてきなさい」
許可なく口を開くなという指示は、いつまで有効なのだろうか。ミシェルは判断がつかず、無言で頷く。
アランが執事に鞄を預け、屋敷の奥へと入っていった。
ミシェルは幼い頃の記憶を頼りに、屋敷の作りを思い出す。玄関を抜けて廊下を奥へ、その先の左側にある両開きの扉を開ける。その先にあるのはサロンのはずだ。
執事は、ナタリアという人がいると言っていたが──
「アラン、おかえりなさい」
アランがサロンに入ると、椅子に座って紅茶を飲んでいた女性が立ち上がり微笑んだ。艶やかなストロベリーブロンドを持つ、華やかな美女だ。
この人がナタリアなのだろう。
「ただいま、ナタリア」
アランが両手を広げると、赤いドレスをひらめかせて駆け寄ったナタリアがその腕の中に収まる。長い髪がふわりと舞って、窓から入る夕日を反射した。
ナタリアはアランに軽く口付けをしてから、ミシェルを一瞥した。僅かに細められた目の青さが突き刺さるようだ。
ミシェルの服と髪──それに向けられた感情は、侮蔑が一番近いだろう。
「……その子が?」
「妹のミシェルだ」
アランがナタリアを離し、ミシェルに向き直る。
「ミシェル、彼女は私の妻のナタリアだ。挨拶をしなさい」
「……ミシェルです。よろしくお願いします」
ミシェルはようやく得た口を開く許可にほっとして、腰を折った。
侮蔑の視線には慣れていたが、やはり正面から相対するのはいつだって傷付く。ミシェルはナタリアから逃れるように、頭を深く下げる。
ナタリアはそんなミシェルを見て、不快そうに鼻で小さく笑った。
「ねえ、この子、まともなお辞儀の仕方も知らないの?」
「すまない、ナタリア。しばらくの我慢だから」
間違えてしまったかと慌てて顔を上げると、ナタリアは既にミシェルを見てはいなかった。代わりに、アランの無表情がミシェルに向けられている。その表情は、バルテレミー伯爵家にミシェルを迎えに来たときのものとは全く正反対で、しかし、ミシェルにとってはよく知ったものだった。
かつてオードラン伯爵家でアランと家族であった頃に、いつも見ていた表情だ。
「も、申し訳──」
「この家の人間になったからには、令嬢に必要な教養がなければならない。今夜から家庭教師を呼んである。よく学びなさい」
不快そうな顔をして早口で告げるアランに、ミシェルはまた無言で頷いた。余計なことは言わない方が良いと、長年の経験がミシェルに訴えかけてくる。
「それと、この家の女主人はナタリアだ。よく従いなさい」
アランの言葉に、ミシェルは目の前に突きつけられた新しい現実を思い知る。ナタリアがミシェルを歓迎していないことは明らかだった。
「返事は」
「……はい」
ミシェルが最低限の返事をすると、アランは満足げにサロンを出ていった。ナタリアもアランの腕に腕を絡めて、寄り添うようにして去っていく。
一人残されたミシェルは、サロンの上品に整えられた空間に、ここが自分の家だという認識を持てずにいた。
この家は、ミシェルがいた頃のものとは違う。あんなに貧しかった、母親と一緒にミシェルが一生懸命整えていた、大切なオードラン家ではない。
「──ミシェル様、お部屋にご案内いたします」
視線を向けると、ミシェルよりは歳上だが、まだ年若い女性の使用人がいた。ミシェルは頷いて、使用人の後についていく。
階段を上って、二階の端。そこはミシェルがかつても使っていた部屋の扉だった。
「こちらでございます」
使用人が開いた扉から、部屋に入る。
ミシェルの脳裏に、かつてあった自分の部屋の光景が広がった。
母親が端切れを繋ぎ合わせて作ってくれたクッションカバーに、三歳の誕生日に貰った猫の形の時計。薔薇を模したランプは、母親にねだってミシェルが使わせてもらっていたものだ。
新しいものも綺麗なものもなかったけれど、大切に使っていた、大好きなものが詰まった部屋。
目の前に広がる場所は、その全てを失った、飾り気のない客間でしかなかった。