5章 ミシェルの脱走
◇ ◇ ◇
裏庭の端に隠れていたミシェルは、複数の馬の蹄の音に顔を上げた。
バルテレミー伯爵は少し前に帰宅している。この音はラファエルかアンドレ伯爵の馬車だろう。
「……馬車が来たわ」
ミシェルはエマと共にゆっくりと壁伝いに移動し、正面玄関の様子を窺った。
玄関前にいる見張りの数は三人だが、今は馬車を囲むようにフェリエ公爵家の護衛制服を着た男達もいる。馬車の中にある人の気配はダミアンだろう。
ミシェルは馬車がラファエルのものであったことに安堵した。
「エマ、行ける?」
「はい」
ミシェルは与えられて着ていたワンピースの裾をたくし上げ、馬車に向かって駆け出した。すぐ後をエマもついてきている。
突然物陰から飛び出したミシェル達はあっという間にその場の注目の的となった。特に最も二人の近くに立っていた見張りの兵は驚き、次の瞬間にはそこにいるのがミシェルであると気が付いたようだった。
大柄な男が追いかけてくる足音が、ミシェルを急かす。
フェリエ公爵家の護衛達は、走っているのがミシェルだとまだ気付いていないようだ。
最後に出かけたときには公爵夫人らしい清楚で華やかな装いだったのだから当然だろう。今のミシェルは使用人ですら着ないような擦り切れと汚れがある濃紺の地味なワンピースを着ており、髪も乱れている。
気付かれる前に捕まってしまったら──ミシェルの頭に、さあっと恐怖が過る。
そのとき、馬車の近くで馬から下りて立っている一人の護衛と目が合った。
「──……エリクっ」
大きな声は出せなかった。屋敷の中に聞こえてしまったら、作戦は失敗してしまう。
それでも小さな声にしっかりと気付いたエリクは、ミシェルの姿を見つけて、すぐにこちらに走り出す。
捕まってしまう、と思ったときには、エリクが男の腕を後ろ手に捻り上げていた。
「お早く!」
エリクの低く鋭い声が耳に届く。
ミシェルは振り返ることもせずにフェリエ公爵家の馬車まで走った。辿り着いた馬車の扉を雑に叩いて開け、中を確認せずに飛び乗る。すぐ後にはエマも続いた。
馬車は六人乗りの大きなもので、二人が乗っても余裕のある広さだった。
背後では、二人を目撃した見張りと公爵家の護衛達が争っている。
「──奥様!?」
ダミアンが驚いた声を上げる。
エマが真っ青な顔で扉を閉めた。これ以上多くの人間に目撃されてしまっては、アンドレ伯爵がやって来る前に二人の脱走がバルテレミー伯爵達に知られてしまう。
「ダミアン……少し、静かにして、ね」
ミシェルは切れ切れの呼吸の合間から言葉を絞り出す。
馬車の床に座り込んで視界いっぱいに木目を映しながら、ミシェルはダミアンが呼んだ奥様という言葉の響きを確かめていた。
ここでは、ミシェルは間違いなくフェリエ公爵であるラファエルの妻だ。それを疑い、ミシェルを貶める言葉を発する者などいない。
「ミシェル様、ゆっくりと息をしてください。吸って、吐いて──そうです」
ミシェルよりも早く呼吸を落ち着かせたエマが、座ったままでいるミシェルの背をそっと撫でてくれる。
言われた通りにゆっくりと呼吸を繰り返す。
瞬間、馬車の香りが鼻についた。この香りは、フェリエ公爵家のリネンと同じ香りだ。馬車の手入れにも使われているのだろう。
癖のない爽やかで落ち着いた花の香りに、少しずつ呼吸も落ち着いてくる。
肩の力を抜いたミシェルは、ようやく顔を上げた。
そして、そこにいた予想外の人物に衝撃を受ける。
「え。……王太子殿下で、いらっしゃいますよ……ね?」
馬車の中にいたのは、二人の男だ。
一人はラファエルの従者であるダミアン。そしてもう一人はこの国の王族の一人、王太子であるフェリクスだった。
「久し振りだね、夫人。攫われて監禁されていると聞いていたんだが、逃げ出してきたのか?」
王太子の顔をきちんと見たことがなかったエマは、ミシェルとフェリクスの会話を聞いてその人物が誰であるかに気が付いたようだ。咄嗟に漏れてしまいそうになった悲鳴を呑み込んで、立ち上がって馬車の天井に頭をぶつけている。
ミシェルもここにフェリクスがいることは予想外だった。慌てて挨拶をしようとして、まだ足が震えていて立てないことに気付く。
「……ああ、こんなときだし挨拶は良いよ。それよりダミアン、夫人を座席に。ブランケットがその辺りの下にあるだろうから、出してあげてね」
「そうですね。──奥様、失礼いたします」
フェリクスが勝手知ったる他人の馬車という様子でダミアンに指示を出す。
ダミアンがミシェルを支えて、扉を開けても死角になる位置の座席へと座らせてくれた。エマが別の座席のシートを持ち上げ、中から温かそうな茶色いブランケットを取り出す。
「ミシェル様、こちらを」
肩に掛けたブランケットを、エマがミシェルの胸の前で合わせてくれる。
そのとき遠慮がちに扉が外から叩かれ、エリクの声でミシェルとエマを見た見張り三人を拘束したと報告があった。邸内には気付かれていないだろうと言う。
ミシェルは礼を言って、エマと視線を合わせた。
「エマも座った方が良いわ。殿下、よろしいですか?」
「構わないから楽にして。落ち着いたら、ラファエルが戻って来る前に詳しい話を聞かせておくれ」
フェリクスは嬉しそうに頷いて、手の平でエマにミシェルの隣の席を勧めた。




