4章 デジレとミシェル
「今日の夜も……?」
デジレは今、何と言ったのか。
ミシェルは自身の知らない事実を聞いて、今更目頭が熱くなった。泣いている場合ではない。そもそも、泣いても解決しないことはとっくの昔から知っている。
それなのに、どうして。
「ああ。この家の使用人は少ないから、来客があればすぐに分かるさ。厨房に俺がいなけりゃ、茶も用意できないんだからな」
「それは……」
「普通あり得ねえだろ?」
デジレによると、今この屋敷で雇っている使用人はミシェルがいた頃以上に少ないらしい。その結果、来客用の紅茶を淹れるための湯さえデジレが用意しているのだという。
だから、来客があれば名前を知るのも簡単なのだそうだ。
「──……ラファエル様は、毎晩ここに来ているのですか?」
「昨日と一昨日も来てるから、今日も来るだろ」
それなら、ミシェルが無理矢理書かされた手紙もきっと受け取っているだろう。それでも来てくれるのだろうか。ミシェルの中に、小さな不安が渦を巻く。
しかし、ラファエルはミシェルが自分の意思であの手紙を書いたのではないと信じてくれているのだ。そうでなければ、影を使って調査などさせないだろう。
ミシェルが閉じ込められている場所を探って、救出してくれようとしているのだ。
「ありがとう、ございます……」
誰にも聞こえない小さな声で呟く。
溢れてしまいそうだった涙は既に引っ込んでいる。
ミシェルはラファエルの信頼に報いなければならないのだ。
「──この屋敷の敷地から私達だけで出るのは、無理があると思うわ。出入り口は見張られているでしょうし、すぐに捕まってしまう。……逃げるなら、公爵家の馬車に乗り込むのが一番現実的でしょうね」
ミシェルの言葉遣いも、いつの間にか普段通りのものに戻っている。デジレに甘えて生きていたあの頃の自分のままでは、ここで戦うことはできない。
「でも、玄関にもあの男達がいるんじゃないですか?」
「それでも、よ。ラファエル様はいつも護衛を何人かつけているわ。馬車の中には、ダミアンもいる筈。私は『客人』なのだから、帰る姿勢を見せれば手放さざるを得ない。……問題は、これでは誰も捕らえられないことね」
ミシェルが溜息を吐く。エマもうんうんと小さな唸り声を上げていた。
二人とも何か良い方法はないかと考えながらも答えを出せずにいると、デジレがはんと笑った。
「なんだよ、簡単な話じゃねえか。ミシェル達を見た男共には、その場で眠っててもらえばいいさ」
「……デジレさん、思い切ったこと言いますね」
ミシェルはデジレの提案に目を見開いた。ミシェルには絶対に思い付かないことだったからだ。
しかしデジレはそれが当然と言う顔で続ける。
「ミシェルの旦那の護衛なら、玄関にいるくらいの人数はどうにかできるんじゃないか?」
「できると思います。エマはどう思う?」
「はい。旦那様がここに来るのに、精鋭を連れてこない理由はありません。まして今日、ミシェル様の状況を見た影は旦那様にありのままを伝えているでしょう。絶対に何か手を打って来ます」
エマはミシェル以上に自信いっぱいの顔で言う。
デジレはそれを聞いて、まるで自分の子供のことのように嬉しそうな顔をした。
「はー、愛されてるんだな、お前。良かったなあ」
「……だったら、良いんですけど」
ミシェルは寂しさを乗せた微笑みを浮かべる。
ラファエルがミシェルのために頑張ってくれているのならば、素直に喜べる。しかしきっとラファエルは、そんな純粋な気持ちで動いてはいないだろう。
必死になっているのは、これが自分のせいだと思っているからだ。それがミシェルには、痛いほどよく分かる。
どうか、これ以上傷付かないでいてほしいのに。
「ラファエル様とアンドレ伯爵様、どちらが先に来るかしら。アンドレ伯爵様が先に来てしまったら、部屋に行ってしまうかもしれないわ」
そうすれば、ミシェルとエマが部屋から逃げ出したことが知られてしまう。
動けないまま部屋にいたらどうなっていたかと考えると恐ろしいが、ミシェル達がいないことが知られることも同じくらい恐ろしい。
気付かれてしまえば次の瞬間、この屋敷中の捜索が始まるだろう。
「……万一のときには、それでも走って逃げますよ。叫んだら、誰かに届くかもしれません」
「そうするしかないわ」
エマの提案にミシェルも頷く。
「俺も一緒に行ってやりたいが、厨房に誰もいないとすぐに気付かれちまうな。……なあ、ミシェル」
「デジレさん?」
デジレは、ミシェルの瞳をまっすぐに見詰めている。その目に浮かんでいる感情は、諦めだろうか。それとも、ある種の達成感のようなものか。
「バルテレミー伯爵家、もうすぐなくなるんだろ? そのときには、俺の新しい雇い先、探してくれねえか」
デジレが肩を落として苦笑している。その姿は、これまでにミシェルが一度も見たことのないものだった。
ミシェルにとって、デジレはいつだって絶対的な大人だった。初めて出会ったときから、本物の父親以上に甘えてきた自覚がある。
「どうして、そんな──」
ミシェルが言葉を切る。
デジレは小窓から太い腕を伸ばして、ミシェルの頭を雑に撫でた。
「ミシェルが来る前も、いなくなった後も、この家では誰かが虐げられてた。俺ぁ、放っておけなくてな。逃げられないまま今日まで来ちまった。旦那様も、俺の紹介状なんて書いてくれねぇだろうし。……でも、俺にも家族がいるんだ。少なくても稼ぎがねぇと、子供達に合わせる顔がねえ」
だからミシェルに頼るしかないのだと、デジレは言う。
ミシェルは頭に置かれている手を掴んだ。
デジレの右手を、自身の顔の前に持ってくる。その手は長年包丁を握り続けた料理人らしく、大きく固い。小さな傷跡は、修行時代の頃のものだろうか。手首には古い火傷の痕もある。
「──私は、これまで何度もデジレさんに助けられてきました。だから」
ミシェルは笑った。
笑わなければならないと、強く思った。
「私にできる力添えなら、なんでもしますよ」
手を離すと、デジレはすぐにその手を窓から引っ込めた。
親孝行という言葉がミシェルの頭を過る。
デジレはミシェルの親でもなんでもない。ただの元同僚なのに、その言葉は妙にしっくりと馴染んでいた。




