4章 前進
「エマ。水……貰える?」
ミシェルが切れ切れに言うと、エマがすぐに浴室の方へと走っていく。
ミシェルは目を閉じた。そうすると、少しは楽になるような気がした。
部屋に水差しは用意されなかった。浴室がついていなければ、飲み水にも困っただろう。いずれにせよ、この家で用意された水を信用して飲めるかと問われると疑問だ。
「ミシェル様! お水です」
「ありがとう」
重い瞼を開けて、エマが開けてくれた小瓶を注意深く受け取る。思い切って煽ってから、水で一気に流し込んだ。
「そんなに簡単に信用してよろしいのですか?」
また男の声がする。
ミシェルは何もない空間を睨め付けた。
「信じて死ぬのなら、……本望よ」
男が息を呑む音が微かに聞こえた。
こんな場所で何もせずに飼い殺されるくらいなら、ミシェルはラファエルの手の者だと思った男を無条件に信じたい。
それでミシェルが騙されて命を落としたとしても構わない。そうすればきっとラファエルにも、ミシェルが最後までラファエルを信じていたということが伝わるだろうから。
それでも良いと、思っていた。
さっきよりもいくらか楽になってきた呼吸を落ち着けて、口を開く。
「──こんにちは、『フェリエ公爵の影』様。姿は見せてくれないのかしら?」
「……私達のことも既に聞いていらっしゃったのですね。ご存知の通り、姿は主君以外には見せないことになっております」
「そう。それでは、ラファエル様にごめんなさいと伝えてくださいな。それから、私は、大丈夫だって──」
喉から空気が漏れてひゅうと鳴る。まだ長く話すのは辛かったが、この機会を逃したら外部と接触する機会はもうないかもしれない。ならば、ミシェルはどうしてもラファエルに謝らなければならない。
ラファエルは今もまだ自身の罪を受け入れられていない。その話を打ち明けられたミシェルも胸が締めつけられる思いがした。それなのに、ミシェルはラファエルと離れてすぐに攫われてしまったのだ。
きっとラファエルは、また自分を責めるに違いない。
悪いのは穏やかな日々に油断をしていたミシェルと、この犯罪を計画した者達だ。
ラファエルが自分を責めることはない。
「『大丈夫』、とは……」
影の男の声が揺れる。
今のミシェルの状況が、他者から見てどう見えるかは分かっている。それでも、ミシェルは譲るつもりはなかった。
「……言ってね、お願い」
「分かりました」
その言葉を最後に、男はどこかに行ったようだ。
ミシェルは目を閉じて、側で様子を窺っているエマに声をかける。
「今は何時かしら?」
「十五時です」
「薬は丸一日効果があるものだから……きっとそれまでは双子も来ないわね」
ミシェルが動けなくなるのを知っていて飲ませているのだ。イザベルとリアーヌは意識しているか分からないが、おそらく、こうして追い詰めることで考える余裕を奪う目的もあるのだろう。
黒幕はあの二人ではない。
「──エマ、少し休むわ。その後、作戦を練りましょう」
ミシェルはそう言って、また目を閉じた。
諦めてやるつもりなど、微塵もなかった。
ミシェルはそれから丁度一時間が経ったところで目を開けた。エマは部屋の片付けをしていたようで、あちこち動き回っている。
指先から、ゆっくりと力を入れていく。手を挙げて、下げる。首を動かして、思い切って立ち上がった。
おそらく影の男がくれたのは薬の中和剤か解毒薬だったのだろう。まだアルコールが残っている感覚はあるものの、身体は充分に動いてくれた。これならば問題ない。
「エマ、ちょっと来てくれる?」
すぐにやってきたエマは、ミシェルが立ち上がっているのを見て安心したように表情を緩めた。
やはり、心配をかけていたようだ。
「さっきの影、ここに小瓶を落としたわよね」
小瓶は確かに落ちてきた。ならば、影もこの辺りにいたに違いない。
「……部屋の窓は塞がっていて、扉には鍵が掛かっているのに、外と繋がる場所があるのよ」
「──ミシェル様?」
上を見つめたミシェルに、エマが首を傾げる。
あるのは天井だけだ。天井には客間らしく華やかな庭園の絵が描かれている。その絵にうっすらと入った線を見つけて、ミシェルは口角を上げた。
「あそこ、きっと天井裏に行けるわ」
エマが驚いたように目を見張る。
「本気ですか? あれはあの人が影だからできたことじゃ」
「それでも、よ。次にここに人がやって来るのは、きっと明日。少なくとも、今夜はもう来ないと思うわ」
ミシェルが当然のように言うと、エマが首を傾げる。
「でも、お食事が──」
「用意されると思う?」
イザベルとリアーヌ、ひいてはこの屋敷にミシェルがいることを知っている人間は、ミシェルが薬を飲まされて動けないことを知っている。一人でまともに食事をとれないミシェルを世話する人間はおらず、反応の薄い状態のミシェルで遊んでも双子もつまらないだろう。
まともに動けるようになるのは、本来では明日の午後。もし双子がミシェルを嘲笑いにやって来るとしても、きっと明日の朝以降だ。
「逃げられるかは分からないけれど、何か探ることはできるわ。私は行くけれど、エマはどうする?」
「当然、お供いたします」
ミシェルとエマはティーテーブルの上に椅子を重ねて、足場を作った。思い切って押した天井はやはりぱかりと開いて、丁度人が一人通れる程度の穴ができる。
ミシェルとエマはそこから天井裏に入り、穴を塞いだ。




