4章 ガラスの小瓶
◇ ◇ ◇
「あら、私が淹れた紅茶が飲めませんの?」
ミシェルに与えられた窓のない部屋で、リアーヌがにこりと口角を上げる。その隣には、同じ顔でミシェルを観察しているイザベルがいた。三人でティーテーブルを囲んでいても、そこに和やかさはない。
エマは部屋の隅に控えさせられており、その左右には一人ずつ男が立っている。エマが自由に動けないようにするためであり、同時にミシェルが二人に逆らえないようにするためでもあった。
「……いただきますわ」
ミシェルは、リアーヌがわざわざミシェルの分だけ別に淹れられた紅茶のカップを持ち上げた。顔に近付けただけでも、明らかに紅茶のものではないつんとした匂いがする。
しかし飲まなければ、傷付けられるのはミシェルだけではないかもしれない。
思い切って傾けて中に入っている赤茶色の液体を一気に流し込む。
次の瞬間襲ってきた喉の痛みに、ミシェルは身体を丸めて激しく咳き込んだ。生理的な涙が浮かんで、視界がぼやける。
「まあ。公爵夫人ともあろうお方が、お行儀がお悪いこと」
「だって、離婚を考えるほど追い詰められていらっしゃったのだもの。礼儀がなってなくて当然だわ」
イザベルとリアーヌがころころと声を上げて笑っている。
ミシェルはそれに答える余裕もなかった。
昨夜もミシェルはエマを人質にされ、予め用意された手紙を自分の手で書き写すように命じられた。そこにはミシェルがフェリエ公爵家には帰らないと、自分の意思でこのバルテレミー伯爵家にやってきたのだという内容が、これでもかと書かれていた。
ラファエルからようやく過去の話を聞かされた途端に裏切るような文面を書かなければならないことには心が痛んだが、ミシェルの護衛がラファエルに正しく情報を伝えてくれていることを信じるしかなかった。
それでも署名の文字が震えてしまったのは、手本とされた手紙の署名が『ミシェル・オードラン』だったからだ。
二度と名乗らないと思っていたその名前は、ミシェルが思っていたよりも重かった。
書いた瞬間、ラファエルから否定されたことがあっても、ミシェルは罪人の一族であり、ラファエルには相応しくないと突きつけられているような気がした。
「ミシェル様……!」
エマが咄嗟に駆け寄ろうとして、隣にいる男に止められている。
ミシェルはエマに心配をさせないようにと、必死で呼吸を整えようとした。
ミシェルが飲んだのは、ごく少量の紅茶に濃度の高い酒と液体香辛料が混ぜられたもののようだった。辛味とアルコールが喉を焼き、強制的に発汗させられている。それは、酒はそれなりに飲めるだろうとラファエルから言われたミシェルであっても身体が熱くなるほどだった。
一度に飲まなければ無理矢理にでも最後まで飲まされたであろうと分かる程度には、ミシェルは双子のことを良く知っている。
ここでは、こうするしかなかったのだ。
「だ……いじょうぶよ」
エマに向けて言った言葉は擦れていて、全く大丈夫には聞こえない。それが余計にミシェルの悔しさを倍増させる。
「大丈夫? ほら、お水をどうぞ」
イザベルが差し出したグラスには、透明な液体が入っている。
今度は酒か、薬か。どうせただの水ではない。
覚悟して飲んだミシェルは、すうっと抵抗なく喉を通り抜けた液体に、それが薬であったことを知った。
「これは、何……でしょう?」
身体が怠い。まっすぐに座っているのも困難なほど、思うように力が入らなかった。テーブルに両手をつくと、がちゃんと陶器が音を立てる。
知っている感覚だが、それ以上に身体が辛かった。
「いつものものと同じですわ。っふふ、どうぞ、ごゆっくりお休みになって」
イザベルとリアーヌが笑いながら紅茶を飲み干し、部屋から出ていく。男達も二人を追って部屋を出ていき、外から鍵が掛けられた。
二人きりになってようやくミシェルの元に駆け寄ることを許されたエマが、涙目でミシェルの身体を支えてくれる。
「申し訳ございません、ミシェル様。本当に申し訳──」
ミシェルはどうにか首を振って、弱々しく微笑んだ。
「大丈夫よ。一晩もすれば、元に戻るわ」
先に酒を飲まされたから、そのせいで薬の効果が強く出てしまっているのかもしれない。曖昧になっていく意識の中、ミシェルは近くのソファーに移動して背凭れに身体を預けた。
上手く呼吸ができない。
どうにかしてこの状況から抜け出さなくてはならないことは分かっているのに、こんな状況では探りを入れる余裕もなさそうだった。
昨日も今日も、まともな食事は貰っていない。ミシェルに与えられたのは、味のおかしなスープだけ。エマには焦げたパンだった。
まだ、エマが人間扱いされていることだけが救いだろう。
空腹と怠さは、人の思考力を奪っていく。
ミシェルはラファエルと出会ってからの二か月が、幸福な夢か幻であったのかもしれないと考え始めていた。こんなミシェルに、ラファエルのような人間が目を止める方がおかしい。
胃が焼けるような感覚のせいで簡単に意識を失えないことが苦痛だった。いっそ眠れてしまえたらどれほど楽か。
ミシェルが整理できない思考をどうにかしようと深く息を吐いた瞬間、目の前にどこからかガラスの小瓶が落ちてきた。
「──エマさん、それを奥様に飲ませてください」
誰もいない筈の空間から、聞いたことのない男の声がする。無機質というよりも冷徹という印象の声だった。
エマは声の出所を探ろうと、きょろきょろと周囲を見渡している。
しかしミシェルは声よりも、『奥様』と呼ばれたことの方に驚いていた。今この場で悪意なくそう呼ぶのは、ミシェルをラファエルの妻だと認めている人間だけだ。
側にいたエマが、ミシェルの代わりに床に落ちた小瓶を拾った。




