3章 ラファエルの激情
太陽が間もなく沈んでしまうという時間。
辿り着いたバルテレミー伯爵邸は、しんと静まり返っていた。最低限の明かりこそついているものの、活動している気配は無い。
ラファエルはどうにか作り上げた微笑みの表情で、玄関のベルを鳴らした。
しばらくして扉が開けられ、中から使用人らしき男が出てくる。
「いらっしゃいませ、どちら様でしょうか?」
男はくたびれた制服を着ていながらも、しっかりと背筋を伸ばしている。古くからこの家に仕えている人間なのだろうか。まだ忠誠心がない使用人であれば買収できたのに、と残念に思う。
ラファエルは扉の奥を気にしながら口を開いた。
「フェリエ公爵家当主、ラファエルです。私の妻がこちらにお邪魔していると聞いて、迎えに来たのですが」
「──お嬢様方のお客様でしたら、先程お出かけになられました。外で食事をされているのだと存じますが」
確かに、屋敷の中から女の声や争う声は聞こえない。防音がしっかりしているせいかもしれないが、それにしても静かだ。
家人は誰もいないか、居留守をしていると考えるのが妥当だろう。
「いつ頃戻る予定でしょう?」
「申し訳ございません。私は何も聞いておりません」
「分かりました。……また寄らせてもらいますね」
ラファエルは最後にそう言い残して、馬車に戻った。客人としている以上、これ以上追求するとこちらの分が悪い。
馬車を走らせ、王城に戻る。
ミシェルがいないのならば、公爵邸に帰る意味もなかった。
翌日の午前中にも一度立ち寄ったが、まだ眠っているからと言われてしまった。
仕方なく普段以上の早さで仕事を片付け、今度は夜に訪ねることにした。
「これはこれは、フェリエ公爵様。奥様のお迎えにいらしたと聞きましたが」
ラファエルが通された応接室にやって来たのはバルテレミー伯爵だった。相変わらず恰幅の良い身体に、着古していることを誤魔化すように華美な装飾品を付けた貴族服を着ている。
ラファエルは立ち上がって挨拶をした。
「夜分に失礼いたします。妻がこちらのご令嬢方にご招待いただいているようでして、迎えに参りました」
「どうぞお座りください」
バルテレミー伯爵に言われて、ラファエルは腰を下ろす。
伯爵は部屋に控えていた使用人を呼びつけた。使用人が持っているトレーの上は、恭しく白い封筒が乗せられている。
「公爵様の奥様は、確かに娘達が招待しているようです。ですが、奥様からこちらをお預かりしておりまして」
バルテレミー伯爵が、トレーから封筒を取ってラファエルに差し出した。
「これは……手紙、ですか」
ラファエルは受け取った封筒を裏返す。封蝋がされているそれは、開封された形跡がない。
「どうぞ、こちらでお読みいただいて結構です」
バルテレミー伯爵が立ち上がって、応接室の棚の引き出しを開けた。わざわざ自らペーパーナイフを持ってきてくれるつもりなのだろう。
ラファエルはそれを待たずに端を千切って封を開ける。
中には、便箋が一枚入っていた。二つに折られた便箋を開いたラファエルは、その内容に目を見張った。
「──……これは、妻が書いたものですか?」
「そう聞いています。公爵様でしたら、直筆かどうかお分かりになりますね?」
バルテレミー伯爵は、鷹揚な態度でそう言ってのける。
ラファエルはもう一度その便箋に目を落とし、また上ってくる怒りを必死で鎮めなければならなかった。
手紙には、もうラファエルとはやっていけないと書かれている。公爵夫人の地位は重荷で、自分にはとてもできない。ラファエルに強いられる関係は苦痛で、離婚したい。縁のあるこの家で、しばらく距離を置いてこの先のことを考えたいと、そう書かれていた。
問題はその内容ではない。添えられた署名の方だ。
「ええ、分かります。──今日はもう帰ります。お邪魔いたしました」
ラファエルは伯爵の見送りを固辞して部屋を出た。代わりに付けられた使用人は、きっと見張りなのだろう。
ここでこの見張りを倒して邸内を捜索することは容易い。しかしミシェルを攫った男達がここにいるかもしれない状況で、それをしても無意味なことは分かっていた。
それに、少なくとも今のミシェルは客人だ。この手紙が直筆のものだからこそ、取り返すことはできない。
馬車に乗り、無意識に握り締めていたせいで皺になった便箋に視線を落とす。
「ミシェルが自分の意思でこれを書いたのなら、……こんな署名はしないよね」
便箋に書かれていたのは、何故帰らないのかを語る言葉と、署名だけだ。その署名は『ミシェル・オードラン』。几帳面な文字で書かれた手紙の署名の文字は、先が僅かに震えてそこだけインクが溜まっていたように擦れている。
ミシェルはフェリエ公爵夫人として日々その役割と向き合っていた。名乗るのならばフェリエの姓だ。そうでなくとも、もうオードランの姓を名乗ることは無いだろう。
何故なら、ミシェルの実家はラシュレー侯爵家だからだ。
ここから分かることは、ミシェルが確かにこの屋敷にいることと、決められた言葉を無理矢理書かされるような状況であるということだけだ。
「今すぐに助けてあげられなくて、ごめん……」
いつもの仮面はすっかり剥がれている。ミシェルと過ごしてから、ラファエルの仮面はこれまでよりずっと脆くなってしまったようだ。
そんなことはこれまでになかった。公爵位を継いでから、ラファエルはいつも必死で生きてきた。激情に身を任せる余裕など、全くなかった。
そして今も、その激情の理由を考える余裕はなかった。




