3章 諸刃の剣
ラファエルは感情のまま怒鳴りつけてしまいそうになるのを堪え、意識的にゆっくりと呼吸した。脳の奥の方を、意識してすうっと冷やしていく。激情はときに人を動かすが、冷静な判断をするには支障があることを、ラファエルは良く知っていた。
ミシェルの護衛達に怒りをぶつけても意味はない。護衛の人数と配置を決めたのはラファエルだ。
「君達を責めるつもりはないよ。こちらに怪我人は?」
顔を上げたエリクは涙を堪えるような顔をしていた。
「軽傷が三名、重傷が一名です。皆命に別状はありません」
詳しく聞くと、重傷の者も足の骨を折った程度だという。エリクは、怪我人には既に治療を受けさせていると言った。
「良かった、とは言えないけど、本当にお疲れ様。エリクも屋敷に戻って休んだ方が良い」
「ですが!」
エリクが前のめりに言う。責任を感じているのだろう。どうしても今すぐに動きたいという意思が透けて見えた。
ラファエルは溢れそうな溜息を堪えて、首を振った。
「ミシェルは『招待を受けた』とあえて大声で言っている。人質とされた少女達を助けようとしたのであれば、正しい判断だ。……荒事をするときのために、先に屋敷に戻って休んでいてくれ」
ラファエルが重ねて言うと、今度こそエリクは素直に頷いて執務室を出ていった。
ダミアンはエリクが来たときから一言も発していない。ちらりと顔色を窺うと、今のラファエル以上に真っ青な顔をしているように見えた。
ラファエルはあえてダミアンには声をかけず、手を軽く三回打ち鳴らす。
「──……いるね? 全員、ミシェルの捜索とバルテレミー伯爵邸の調査を」
「承りました」
何もない空間から声がする。ラファエルがいつも側に置いているフェリエ公爵家の影だ。
すぐにその気配も消えて、執務室の中にはラファエルとダミアンだけが残された。
「……はは、公爵家も舐められたものだな」
乾いた笑い声が、空しく響く。
ラファエルは、エリク達のせいで今回の事件が起きてしまったとは思っていない。
フェリエ公爵家の人間の命が狙われるほどネフティス王国の政情は不安定ではない。他国と戦争も行っていない今、多過ぎる護衛をつけることは逆に護衛対象の危険に繋がる可能性が高かった。
バルテレミー伯爵家の双子の令嬢には恨まれもしているだろうが、ミシェルにつけた護衛達を超える腕の者を雇う力はないだろうと思っていた。
「ラファエル様──」
ダミアンが今にも泣きそうな顔をして、ラファエルを見ている。
「エリク達は悪くないよ。今回怪我をした者達には、手当てを支給してあげて」
ラファエルは倒れた椅子を自ら屈んで起こし座り直す。肘を机について、組んだ手の上に額を当てた。
悪いのはラファエルだ。あの塔の上でミシェルと話をした後、向き合うことから逃げたからこうなったのだ。
もしもミシェルを屋敷まで送り届けていたならば、こんなことにはならなかった。
「──ミシェルが『バルテレミー伯爵令嬢の客人』という立場に自身を置いたのには意味がある。ミシェルの立場も守られるし、その身が傷付けられることはないだろうからね」
冷静さを装いながらも、ラファエルは顔を上げることができない。表情を取り繕う余裕がなかった。
それでも思考を止めないのは、ミシェルを一刻も早く取り戻すためだ。
「だが客人と主張することで、力技で取り返すことはできなくなる。諸刃の剣だよ」
ミシェルの意思に反して攫われたのであれば、騎士を使って取り返すことができる。客人だとミシェルが言っている以上、騎士を動かすことはできないのだ。
「バルテレミー伯爵家に行ってくる。ダミアンは、進められる分だけ仕事を進めておいて」
「私も行かなくてよろしいのですか?」
「……妻が友人の家に行っただけで私が仕事を放り出したなんて言われたら困る。犯人が分からない以上、そっちが目的の可能性だってあるんだ」
バルテレミー伯爵家だけで、ミシェルを攫えるほどの人数の精鋭を集めることはできない。必ず裏に誰かがついているだろう。それも、力か金のある人物が。
「承知いたしました」
ダミアンが頷いたのを確認して、ラファエルは執務室を出た。
走ることはできない。ここで醜態を見せるわけにはいかなかった。そんな風に冷静さを残している自分が、大嫌いだ。
今日ラファエルが乗ってきたのは、公爵家の紋が入っていない馬車だ。バルテレミー伯爵邸を訪ねるにも都合が良い。
ラファエルは御者に指示を出し、許されるぎりぎりの速さで馬車を走らせた。
──『あの子、今はあんな風にしておりますけれど、下働きをして育った子ですから』
以前の夜会で会ったイザベルの言葉を思い出す。それは、自分達がミシェルをかつてそう扱っていたということの裏返しだ。
ラファエルが調査をさせたミシェルの身辺調査書にも、ミシェルはバルテレミー伯爵家で虐待を受けていたと書かれている。
『客人』を名乗ったとはいえ、そんな場所でミシェルがまともな扱いを受けているとは思えない。
ラファエルは目を閉じ、いつもの仮面を被るために苦心した。




