1章 2度目の買い取り先
母親と共に家の掃除をしたり、勉強をした。アランはミシェルに無関心だった。そして父親は──
「お父様は?」
ミシェルが知るオードラン伯爵は、ミシェルの父親だ。アランは後継だが、伯爵ではない。ミシェルの五歳上なのだから、まだ十八歳だろう。
「ああ。父上は一昨年急病で亡くなってね。今は私が当主になったんだ」
アランは微笑みを崩さないまま、当然のようにそう言った。
「そう、でしたか……」
ミシェルは目を伏せた。
父親が亡くなったことなど、知らされていなかった。確かにミシェルが六歳だった頃から酒に溺れていた人だ。急病と言われても、疑うまでもない。
「父上が決めたこととはいえ、苦労をかけたね。ミシェル、一緒に家に帰ろう」
「家に?」
「そうだよ。ミシェルはオードラン伯爵家の令嬢だろう?」
ミシェルは突然のアランの提案に困惑し、何と言えば良いのか分からなかった。ミシェルを伯爵令嬢として扱ってくれたのは、亡き母親だけだ。アランがそうであったことなど一度もない。そして今日まで、ミシェルはこのバルテレミー伯爵家の奴隷であったのだ。
しかしミシェルの返事を待たず、目の前の二人は話を進めていく。
「──そういうわけで、ミシェルはこのまま連れて帰ります。いつまでも使用人のまね事など、させていられませんからね」
「こちらは構いませんよ」
アランの嫌味交じりの言葉にも、バルテレミー伯爵は鷹揚な態度を崩さない。しかしその目は隠しきれないほどにぎらついている。
急に突きつけられた現実に呆けているミシェルに、アランが声をかけた。
「ミシェル。荷物があれば持ってきなさい」
ミシェルははっと顔を上げ、こくこくと頷く。
アランの思惑は分からないが、バルテレミー伯爵家から出られることは、今のミシェルにとっては間違いなく歓迎すべきことだ。この機を逃したくはない。
「はい。失礼いたします」
ミシェルはすぐに踵を返す。
自室に戻ったミシェルは、クローゼットを開けて古い子供服を取り出した。シンプルなワンピースと、コート。靴は小さく、踵が擦れてしまっている。ミシェルがバルテレミー伯爵家に売られたときに着ていた服だ。着られなくなっても捨てられなかったそれを、端切れを繋ぎあわせて作った手提げ袋に入れる。
デジレに挨拶をしようと厨房に行ってみたが、誰もいなかった。きっと休憩に行ったのだろう。
一瞬悩んだが、厨房に置いてあるノートに感謝と別れの言葉だけを書き、駆け足で応接室に戻った。直接お礼を言いたかったが、あまり彼等を待たせるわけにはいかない。
応接室に戻る途中で、ミシェルはイザベルとリアーヌが言い合いをしているところに出くわした。何かを言われるかと警戒したが、ミシェルの予想に反し、二人はぱあっと笑顔になる。
「ミシェル、元気で」
「またどこかで会いましょう」
その様子に違和感を覚えたが、ミシェルはそれよりも自分の身を優先することにした。二人の機嫌が悪くならない内にここから去るべきだと、いつものように深く頭を下げる。
「今日までお世話になりました」
「いいえ。あなたのお陰で、私達も助かったわ。またね」
イザベルが微笑む。
「助かった……とは、どういうことですか?」
ミシェルは首を傾げた。
リアーヌはイザベルの言葉に思わずと言ったように小さく吹き出して笑い、ぱんと両手を合わせた。
「ええ。貧乏神がいなくなるから、私達は幸せになれるのよ!」
「……貧乏神?」
このネフティス王国は多神教である。全ての物事に神がいるというその教えは、国民に常に高潔であるようにと示すものだ。国中にある教会も、場所によって祀っている神は違う。農耕の神や、学問の神、美の神もいる。
『貧乏神』とは、多くいる神のひとつを指して揶揄する言い方だ。
貧しい者の家には、貧乏神がいる──と。
「あら、リアーヌ。面白いことを言うわね。それじゃあ、我が家もこれで持ち直すかしら」
イザベルが、ぼろぼろの手提げ袋を大切そうに抱えるミシェルを見て嘲笑う。
これまでミシェルは、イザベルとリアーヌの『おもちゃ』として様々な理不尽に耐えてきた。バルテレミー伯爵家が貧しくなってからも、給金もなく奴隷のように仕事をしてきた。
貧乏神に例えられるような行いは、一度としてしていない。
頭の奥の方がかあっと熱を持つ。悔しかった。自分なりに必死で生きてきたことが、全て無駄だと言われたような気がした。
「──失礼いたします」
ミシェルはその場から走って逃げ出した。今日だけ、今だけ聞き流せば良いのだと、自分に言い聞かせて。
明日からは、もう二人に会うことはないのだから。
応接室に戻ると、テーブルの上に金貨の束がどさりと乗っていた。目算で、二十枚ずつ束ねられた金貨の束が二十個。金貨四百枚だ。
これまでにミシェルが見たことがある金額は、最大で金貨百枚。バルテレミー伯爵に買い取られたときだった。
「ミシェル、行くよ」
アランが立ち上がって、荷物を持って歩き出す。ミシェルはテーブルの上に置かれている金貨を一瞥して、急いでアランを追った。
きっとミシェルは、アランに買い戻されたのだ。
金貨四百枚があれば、侯爵家くらいの持参金にはなる。イザベルとリアーヌが嬉しそうだったのは、これが理由なのだろう。ミシェルを手放すことで金が入り、自分達に幸福が訪れると信じているのだ。
いずれにせよ、ミシェルに選択権はない。
ミシェルにできることは、当主となったアランに嫌われないように、これから精一杯頑張ることだけだ。
バルテレミー伯爵邸の正門を出ると、そこには小奇麗な箱馬車が待っていた。御者と付き人がアランの姿を確かめて、すぐに扉を開く。
アランは迷い無い足取りでその馬車に乗り込んだ。
「入りなさい」
言われたミシェルは、驚いてもう一度馬車を見る。馬車には、オードラン伯爵家の紋章が入っていた。借りてきた馬車ではない、家が所持している馬車である証だ。
ミシェルが知っているオードラン伯爵家は、馬車を所持できるほど生活に余裕はない。それどころか、金貨四百枚も用意できる力など無かったはずだ。
ミシェルが躊躇していると、アランが左手の指先でかつかつと窓の木枠を叩き始める。
「早くしなさい。私は、あまり気が長い方じゃないんだ」
他人を怒らせないようにすることを最優先として生きてきたミシェルは、慌てて馬車に乗り込み、アランの向かい側に腰を下ろした。
付き人が扉を外から閉めると、馬車はからからと走り出す。
ミシェルは疑問をぶつけようと、思いきって口を開く。
「あの、お兄様──」
「許可なく口を開くな」
ミシェルの小さな勇気は、アランの一言でぴしゃりと撥ね除けられた。




