3章 思い出の場所
地面が冷たい。触れている側の服は湿ってしまっているのか、身体が芯から冷えていくようだ。
ゆっくりと目を開けると、そこは暗闇だった。瞬きをしても暗いままということは、明かりのない倉庫だろうか。
両手は後ろ手に縛られていたが、足は自由だ。どうにか上体を起こそうとしたが、嗅がされた薬のせいか思うように動けない。それでも目が暗闇に慣れてくると、少しずつ周囲の様子が見えてきた。
真っ先に見つけたのは、同じように縛られて倒れているエマの姿だった。
「……エマ」
エマに近付こうと、ミシェルは必死で身体を動かす。少ししてようやく隣に辿り着いて、ミシェルはエマの側でまた声をかけた。
「起きて、エマ。お願い。起きて、無事って言って」
またミシェルのせいでエマが巻き込まれてしまった。守ろうとした筈が上手くいかなかった。その事実が悔しくて、下唇を噛む。
アランも、バルテレミー伯爵家のイザベルとリアーヌも、ミシェルだけが何かをされるのならば受け止めてみせるのに。黙って耐えることも、構わないのに。
どうして、エマまで辛い目に遭わせるのか。
「エマ……!」
喉の奥から声を絞り出して、零れそうな涙をぐっと堪える。
泣いてもどうにもならないことは、誰よりも知っている。
「うー……ん……」
エマが身じろぎをして、ミシェルの前でゆっくりとその目を開けた。
ミシェルは、こんな状況にも構わず、ほっと小さく安堵の息を吐いた。
「──ミシェル様、ご無事ですか?」
やはりミシェル同様起き上がれずにいるエマが、真っ先にミシェルに問いかける。ミシェルはくしゃりと顔を歪めた。エマに、この表情が見えていなければ良い。
「私は大丈夫よ。それよりエマは? 怪我はない?」
「なんでか起き上がれないのが悔しいですが、怪我はありません」
「そう、私もよ」
「……ここは、どこなのでしょう」
エマが言う。
ミシェルはようやく首を回して、周囲を確認した。
小さな倉庫らしき建物は、大分傷んでいるようだった。よく見ると壁にはひびが入っている。奥の端の方に、水道の蛇口がついている。地面には枯れた芝が生えていた。
ミシェルはその光景に心当たりがあった。
時間が経っても、忘れられる筈がない。この場所にミシェルは何度も閉じ込められた。
「おそらく、ここは、バルテレミー伯爵家の庭の倉庫だわ」
「どうして──」
言いかけたエマが、ミシェルの顔を見て息を呑む。どうやらエマもいつの間にか暗闇に目が慣れてしまっていたようだ。
ミシェルは目を伏せ、口を開く。
「ごめんなさい、エマ。巻き込んでしまったわ」
「いいえ。私が自分からついてきたんですよ」
エマが首を振って、いつもと同じようにからりと笑う。引き攣った顔ではあるが、笑顔が作れるのならば一安心だろう。
「……この倉庫、逃げられる場所はないの。出入り口の扉だけ。悔しいけれど、誰かが来るのを待つしかないわ」
「分かりました。では、ミシェル様。ちょっと失礼しますね」
エマがぐるんと寝返りを打って、ミシェルに身体を寄せる。互いに後ろ手に縛られているせいで、酷く滑稽な格好だ。
ミシェルは突然近付いた距離に驚いた。
「エ、エマ?」
「くっついているのが、一番体温が下がりませんから。風が無いだけましですが、それでも、こんなところにいたら風邪を引いてしまいますよ」
「そういえば、そうね」
ミシェルは思いも寄らない提案に頷いて、身じろぎをしてエマとの間にある隙間を更に埋めた。
驚くことに、これだけでも昔と比べてかなり温かい。動けないことは辛いが、かつては薄く敷いた枯れ草の上に一人で寝ていたことを考えると充分すぎるくらいだ。
幸福な生活と安心できる場所に身を置いて、いつの間にか、あんなにも辛かった筈の夜のことも忘れかけていた。
ミシェルは警戒した様子のエマの表情を盗み見ながら、どうにかして必ず状況を改善しようと心に決めた。
扉が開いたのは、翌日の朝になってのことだった。
開けられた扉の向こうにいたのは、やはりイザベルとリアーヌだ。
「ふふふっ。お似合いの格好ね。地面に寝そべって、まったく、汚らしいこと」
「本当だわ。公爵家なんて、柄じゃないのよねぇ」
二人は倉庫の中に入ってきて、エマと身を寄せ合うミシェルを嘲笑う。
リアーヌが、履いていた庭歩き用の靴で、ミシェルが着ていたスカートを踏み躙った。地面に触れていなかった場所にも、土の汚れが付いて広がっていく。
ミシェルはもう、こんな程度の嫌がらせには慣れている。心が痛いのは、側にいるエマが悲痛な顔をしているからだ。
ミシェルは二人を見上げて、口を開いた。
「ごきげんよう、イザベル様、リアーヌ様。……結構な歓待ですわね」
「何言ってるの!? 招いてなんて──」
「いいえ。確かに私は、我が家の護衛達にそう伝えましたもの。招かれた屋敷で何かあれば……それは、こちらのおうちの責任ですわよね?」
ミシェルは力の入らない手を握り締める。
イザベルとリアーヌに見下ろされて、自分が地面に転がっている。こんな状況は、これまでに何度もあった。それでも昔のように俯いていたら、エマのことは守れないのだ。
だから、心の奥では幼子のミシェルが泣きわめいていても、今のミシェルはそんなことをしていられない。
「何言ってるの。ミシェルのくせに生意気よ!」
リアーヌがそう言って、ミシェルの髪を雑に掴む。痛みに歯を食い縛りながらも、ミシェルは目を逸らさなかった。
「待って、リアーヌ。……お招きしたお客様だもの。丁重にもてなさないと」
イザベルが口角を上げる。
リアーヌがミシェルの髪を放したが、ミシェルはかえって背筋がぞっと冷えていくようだった。こういうときのイザベルは、何かを企んでいるのだ。
「壊してしまってはいけないわ。ちゃんと、綺麗なまま遊ばないといけないのよ。──お前達、二人を客室にお連れして」
扉の向こうから、見知らぬ男達が入ってくる。人数は四人だ。うち二人は、大きな麻袋を抱えている。目覚めたときよりは少し身体の自由はあるものの、とても力で敵う気はしなかった。
「……何をするの」
ミシェルが震える声で問いかける。
これまで、イザベルとリアーヌの『遊び』の中で、二人以外の男が出てきたことはなかった。まして今、バルテレミー伯爵家にはそんなに大勢の使用人や護衛を雇い教育するほどの金銭的な余裕はない筈だ。
イザベルとリアーヌが倉庫を出て行く。
ミシェルとエマはろくな抵抗もできないまま、麻袋に詰められて男達に担がれた。




