3章 ミシェルの誤算
ミシェルもエマも、互いに焦りと不安の中にいることは分かっていた。
そのとき、突然全ての音が止んだ。
「──……終わった、にしてはおかしいわね?」
「ですね」
ミシェルが問いかけると、エマもすぐに同意する。戦いが終わるときというのは、普通は少しずつ音が減っていくのだ。
「いやー……っ!!」
甲高い声が馬車の中にまで聞こえて、ミシェルははっと身を起こした。エマも何事かと気になったようで、ミシェルが身体を起こしたことも注意されずに済んでいる。
窓に下ろしてあるカーテンを僅かに持ち上げて、隙間から外の様子を窺った。
「うち以外の馬車がいたのね」
そこにはいかにも貴族が乗るのに相応しい、豪奢な馬車が一台あった。そのすぐ後ろには、庶民が遠出するときに使うような、小さな馬車が停まっている。
「ですが、なにか様子がおかしいです」
ミシェルの横で同じように外の様子を窺っていたエマが、首を傾げた。
確かにエマが言う通り、様子がおかしい。貴族のものであろう馬車には家紋がついていない上、護衛らしき者が近くに一人もいない。そしてすぐ後ろにある小さな馬車の扉が開いていた。
フェリエ公爵家の護衛達が戦っていた相手は、破落戸にしては妙に小奇麗な格好をしている。それこそ、まるで貴族の護衛のような格好だ。相手の人数はこちらの二倍以上だろう。
そこまで考えて、ミシェルははっとした。
「……私達は、あの馬車の持ち主に襲われているのかもしれないわ」
そう考えれば、全ての辻褄が合う。
豪奢な馬車に乗る貴族の護衛をするほどの腕前の者達相手であれば、ミシェルの護衛達が手を焼くことにも頷ける。ミシェルの馬車が襲われているのに、あちらの馬車が逃げない理由も同じだろう。
それならば、さっきの悲鳴は。
「まさか──」
エマが呟いたそのとき、小さな馬車から女の子が出てきた。まだ十歳にも満たないような子供だ。
女の子は一人の男に拘束され、首筋に剣を突きつけられている。近くには他にも二人の男がいて、簡単には奪還できなさそうだ。
ましてミシェルの護衛達は、護衛対象であるこの馬車を放って女の子を助けるわけにいかない。
「聞こえているだろう!? その馬車の中にいる奥様と交換だ!」
ミシェルはぎゅうと目を瞑った。
ミシェルが出て行かなければ、あの罪のない少女は殺されてしまう。ミシェルが出て行けば、護衛達が責められてしまう。
エマがミシェルの肩を掴む。
「……ミシェル様、言うことを聞く必要はございません。なんなら私が、ミシェル様の服を着て──」
「駄目よ、そんなの」
ミシェルが目的なのだ。もしエマが代わりに行って偽りがばれてしまったら、その瞬間命はないだろう。それに、エマを人質にされれば、ミシェルは絶対にその身を差し出してしまう。
どうしよう、どうしようと考えても、ミシェルには答えが出ない。それでも、どうしてもあの女の子を見殺しにする判断だけはできそうになかった。
「ミシェル様……!」
エマの声は懇願の色を多分に含んでいる。ミシェルの考えなど、お見通しなのだろう。
「でも、このままでは──」
ミシェルが口を開いたそのとき、風に乗って向こうの馬車の中の声が聞こえてきた。
「随分時間がかかるのね!」
「本当。いつまで待たせるのかしら! 早く終わるんじゃなかったの!?」
余程機嫌が悪いのか、随分と大きな声だった。がたんと大きな音が聞こえたのは、何かを叩いたからだろう。
しかし、だからこそミシェルにはその声の主が分かった。
感情を抑えることが苦手で、我慢が嫌いな、よく似た声の二人の女。心当たりなど、一つしかない。
ミシェルは扉の鍵を開けた。
「ごねんなさい、エマ。やっぱりこれは、私のせいだわ」
決意を込めた声で告げると、エマが目を見張った。そんな、と漏れた声は、空気に溶けて消えていく。
扉を開けて、踏み台が用意されていない馬車から思い切って飛び降りる。
恐ろしくなどない。ミシェルはもう、虐げられるだけの存在ではないのだ。
背筋を伸ばして、顎を引く。
豪奢な馬車を見据えたのは、ミシェルなりの抵抗だ。
「──目的は私でしょう? 抵抗はいたしませんから、その子を離してくださいな」
凍りついていた場が動く。
ミシェルを守るように動いた護衛達を手振りで止めた。彼等の中には怪我をしている者も何人かいるようだ。服のところどころが切れて、血が滲んでいるのが見える。
「奥様、馬車にお戻りください!」
護衛の一人がミシェルの腕を掴もうと手を伸ばす。
ミシェルはその手を振り払って、一歩前に踏み出した。更に、一歩。少しずつ馬車から離れる度に、心が冷えていくようだった。
「……ごめんなさい、ラファエル様」
誰にも聞こえない声で小さく呟く。
ミシェルの腕を見知らぬ男が掴む。無遠慮な強い力に顔を歪めた。次の瞬間には、男が懐から取り出した短剣がミシェルの首筋に突きつけられ、更に周囲を三人の男が囲んだ。
「剣を下ろさなければ、奥様の命は保証しません」
やはり破落戸ではない。何者かに仕え、教育されたことが分かる言葉遣いだ。
ミシェルが刃に触れないよう小さく頷くと、護衛達は悔しげに剣を下ろした。
「約束です。あの子を解放してください」
ミシェルが言うと、女の子はすぐに解放される。怯えていたらしい少女は、馬車から駆け出してきた母親にひょいと持ち上げられた。
ミシェルは声を上げる。
「早くここから離れてください。今日のことは、誰にも話さないで!」
二人はミシェルの声に何度も頷いて、真っ青な顔で馬車に駆け込んだ。すぐに動き出した小さな馬車を追いかけようと動いた男を、ミシェルは睨み付ける。
「関係ない方々を巻き込むのは、間違っています」
そして、ミシェルは口を開いた。
これまでに発したことがないほどはっきりと、大きな声で告げる。
「──私はバルテレミー伯爵家のご令嬢方に招待を受け、この場を後にいたします! 自分の意思でお邪魔させていただくことにしたと、ラファエル様にお伝えください。……よろしいですね?」
豪奢な馬車の中で、がたがたと音がする。
慌てているのならばいい気味だ。
貴族家の妻が正体不明の者に攫われるとなれば醜聞だ。フェリエ公爵家の汚点となってしまう。
しかし、これが知人からの招待であれば話が違う。ミシェルの身になにかあれば、それは招いた側の失態となるのだ。
ミシェルの一番の誤算は、開いたままだった馬車の扉からエマが駆け出してきたことだった。
「招待されたのであれば、侍女もお供いたします!」
当然エマもすぐに拘束され、二人を囲むように男達が集まる。
その中の一人に薬を嗅がされ、ミシェルは急に身体から力が抜けてしまう。見知らぬ男の腕に抱えられ、吐きそうな不快感を覚えた。
同じように男に受け止められるエマを視界に収めながら、ミシェルはついに意識を手放した。




