3章 新たな波乱の始まり
◇ ◇ ◇
ミシェルはラファエルの馬車が見えなくなるまでその場から動けなかった。
塔の上で聞いた話が、まだ整理できないまま心の中で散らかっている。
「──ミシェル様」
エマが馬車から降りてきて、ミシェルに声をかける。
振り返ったミシェルもまた、微笑みの仮面を付けていた。
「エマ、待ったでしょう。寒くはなかった?」
最後の音が震えてしまって、ミシェルは僅かに俯いた。これではエマを心配させてしまう。
しかしエマはミシェルに近付いてくると、表情を変えないまま手で馬車を示した。
「私は大丈夫ですから。ミシェル様こそ、お身体が冷えてますよ。早く馬車に乗ってください」
「え、ええ……」
「毛布もありますから。お風邪など召されないようにしないと」
ミシェルはエマの勢いに負けて、馬車に乗り込んだ。馬車の座席には今日の買い物で買ったテディベアが、それなりの存在感で座っている。
ミシェルは我が物顔で座っているクマに手を伸ばした。ミシェルの後に馬車に乗り込んだエマが、溜息を吐く。
「ミシェル様がいないと、クマと二人きりで。少し気まずかったです」
「……そう、かしら?」
「そうですよ! その目、無駄に綺麗なんですから。もう」
馬車が公爵邸に向かって走り出す。
御者が来たときとは違う道を選んだ。人通りの多い街を経由するよりも、少し遠回りにはなるが人通りの少ない道を選んだ方が安全に早く着くからだろう。
エマが悪態をついてくれているのは、ミシェルが落ち込んでいることに気付いているからに違いない。本当に、いつもエマに救われている。
「……ありがとう、エマ」
「私は何にもしてませんよ。旦那様と、お話しできたんですね」
「ええ。でも……私は、何もできなかったわ」
あの屋上で、ミシェルはラファエルに命を助けてもらった。しかし、それだけではない。ラファエルはあの日、ミシェルの壊れてしまいそうな心も、希望を失っていた未来も、拾い上げてくれたのだ。
それなのにミシェルは今日、ラファエルを抱き締めることも、励ますこともできなかった。
「これからですよ! だって、ミシェル様は奥様なんですから」
エマの言葉に、ミシェルははっとした。
ミシェルとラファエルは赤の他人ではない。二人は夫婦であり、家族なのだ。
擦れ違っても同じ家に住んでいるのだから、また話し合うことができる。
「そうね。まだ、諦めることはないわ」
ラファエルは自分のことを薄情な人間であるように言っていたが、ミシェルはそうは思わない。
あの日ミシェルが助けてもらえたことが偶然でも、これまでの優しさが亡くなったラファエルの母の代わりに与えられたものだとしても。
それでも、ミシェルが救われたことに代わりはない。
「家に帰って、これからのことを考えましょう」
「ですね!」
エマが前向きになったミシェルに気付いて笑顔になる。
ミシェルはラファエルに恋をしていると伝えてしまった。ラファエルはミシェルに、自分はミシェルが恋をするに相応しい人間ではないと言っている。
できれば、少しずつでもラファエルが自分を好きになれたら良い。
ミシェルも自分を呪ったことが何度もある。もしエマの命があの日失われていたなら、今こうして生きていることが、苦しくて仕方なかったに違いない。幸福を感じる度、罪悪感すら抱いていたかもしれない。
それはきっと、とても苦しいことだ。
「──それでも、幸せが素敵なことだと教えてくださったのは、ラファエル様だもの」
ミシェルは呟いた。
そのとき、馬車が大きく揺れた。馬の嘶きが聞こえてくる。
ミシェルは壁についている手摺りを掴んで、大きく揺れた身体を支えた。
「奥様、襲撃者です。全ての扉に鍵を掛けて、身を低くしてお待ちください」
御者が窓越しに言って、すぐに御者台から降りていく。馬車の近くで剣を鞘から抜く音がした。
「そんな──」
「ミシェル様、早く屈んでください!」
息を呑んで動けなくなったミシェルの背中を、エマが押す。ミシェルは慌てて身体を折り畳み、座席の間に屈んだ。
エマは素早く全ての鍵を確認し、ミシェルに覆いかぶさるように身を低くする。
「エマ、それじゃ貴女が!」
「大丈夫です、ミシェル様。今日の護衛は六人。皆それなりの人物ですので、その辺の賊には負けません」
ミシェルは自分の上にいるエマの心配をしたのだが、エマは自分のことを構わず、この先のことを考えている。
駄目だ。ミシェルはクストー男爵から、エマを預かっているのだから。
身じろぎをしても頑なにミシェルの上から動こうとしないエマのために、ミシェルは少しでもエマの位置を低くしようと、自分の身体をできるだけ小さく丸めた。
馬車の外から、剣戟の音が聞こえてくる。どうやら相手は複数のようだ。御者も護衛達に混ざって戦っているに違いない。
「そんなに、多いのかしら……」
御者が馬車の側から離れなければならないほど、相手が多いのだろうか。それとも、それほどに相手が強いのだろうか。
ここは王都の中でも端の方だ。塔からあまり離れていない。塔には幽霊の噂があるため、訪れる人は珍しい。
この道を使う馬車は、きっと他にいないだろう。




