2章 微笑みの仮面
ラファエルの母は、父を強く愛していた。
確かに母にとって父は何物にも代え難いものだったのだろう。やがて笑うことも、怒ることもなくなった。そしてただ感情の抜け落ちた表情で、温室の薔薇に語りかけるばかりだったのだ。
そんな母に転機が訪れたのは、父が死んでから二週間が経った頃だ。
「少しして、母は、私に微笑むようになった。少女のような顔をして、『クリス』と……父の愛称で私を呼んだよ」
ラファエルは父にも母にも良く似ていた。だから母は、失った穴を埋めるためにラファエルを使ったのだ。
ラファエルは、母の心は壊れてしまったのだと思った。
しかしラファエルにも仕事がある。父が急逝してしまったことで、まだ修業途中であった領政と、勉強中であった公爵家としての国政の役割が、同時にラファエルに降ってきた。
正直、余裕がなかった。
母を気にはしていたが、側で寄り添って会話をすることもできない。父の名前で呼ばれる度に、ラファエルの中の大切な何かが一つずつ壊れていくような気がしていた。
「私は毎日母に会っていたけど、忙しさを理由にして、少しずつ会う時間を減らしていた」
父は死んでしまったのだ。生きているのは、ラファエルなのに。
ラファエルの存在など最初からなかったかのように、『クリス』に愛を囁く母。どうしても受け入れられなかったのは、ラファエルの心の弱さだ。
「その日は、議会が紛糾して、帰りが遅くなった」
その日の夜は、いつにもましてよく冷えていた。馬車を降りたラファエルは、家に残している母が気がかりで、少しでも早く温室に行こうと思っていた。
──それなのに。
「帰宅した私に『クリス』の不貞を疑う言葉をかけてきた母に、私は、本当のことを言ってしまったんだ」
ラファエルは父ではない。どんなに似ていても、母の愛した父は『クリス』は、もうこの世にいないのだ。
耐えられなかった。
どんなにラファエルが頑張っても、母の中からラファエルの存在が消えてしまったことは事実で、覆ることはない。ラファエルは母に、ちゃんと父の死と向き合ってほしかった。
「母は私を見て、目を見開いて──逃げるように、温室に戻っていったよ。それが、私が生きている母を見た最後だった」
それ以来、ラファエルが母を訪ねても会わせてもらえなくなった。すると、ラファエルも自然と自宅から足が遠のいていく。
家には、母とラファエルしかいない。帰ったところで、どうせ独りだ。そう思っていた。
ラファエルは冷たい人間だ。
公爵家の当主としては相応しくないそれを隠すために、微笑みの仮面を被り、優しさを振りまいている。それだけだ。
「……一週間後、母はここ──この塔から飛び降りて、自ら命を絶った」
諦めずに叫び続けていれば、母は生きていてくれただろうか。ラファエルが逃げなければ、屋敷から抜け出したことにもっと早く気付くことができただろうか。
フェリエ公爵家の醜聞にもなるこの情報は国王の判断もあって機密とされ、ラファエルの母は夫を亡くした悲しみで憔悴し、病で亡くなったことにされた。
「私が、母を追い詰めたんだよ。今日は月命日だ」
以来、ラファエルは毎月この場所に白薔薇を供えている。
ミシェルが唇を噛んでいた。
そんなに噛んでは血が出てしまう。止めなくてはと思うのに、ラファエルはもう、ミシェルに伸ばす手を持っていない。
こんな手で触れたところで、ミシェルが喜ぶとも思えなかった。
「そんなの、ラファエル様のせいでは──」
「ごめんね。私はその言葉を、ミシェルの思うように受け取ってあげられない」
「──……!」
もしもラファエルの心が強かったならば、ミシェルの励ましを素直に受け入れることができただろうか。
ラファエルのせいではない、仕方のないことだと、事実を知る騎士にも、幼馴染の王子達にも、国王夫妻にも言われた。ありがとうございますと微笑みながら、一つも納得していなかった。
「下りようか」
ラファエルが言うと、ミシェルは素直に頷いた。ミシェルに先に下りるよう促して、ラファエルが後に続く。
振り返った塔の上に残されているのは、白い薔薇の花束だけだ。
階段を下りている間、ミシェルは一度も口を開かなかった。ラファエルの方からミシェルに話すことはない。
きっとこの話で、ミシェルはラファエルを見限ってくれるだろう。
それで良い。それで良い筈だ。
二人分の足音が響く。
塔の入り口から外に出ると、ダミアンの気遣わしげな目がラファエルに向けられていた。ミシェルを通したことを気に病んでいるのだろうが、ラファエルに責めるつもりはない。
ミシェルがここに来てしまった時点で、こうなることは仕方のないことだ。
「私は王城に戻るよ。ミシェルも身体を冷やさないうちに家に帰って、暖かくして」
ミシェルが振り返る。
ラファエルは被り直した仮面で微笑んで、馬車に乗った。
ミシェルがどんな顔でラファエルを見ているのか、確認することはできなかった。




