2章 告白
「知っても、良いことは何もないよ。楽しい話でもないから」
ラファエルが微笑みながら言う。いつも通りの微笑みだ。
今ならば、まだ、これまでの関係に戻ることができる。真綿に包まれたような環境で、優しさに甘えていられる。
しかしここで逃げてしまったら、本当にミシェルは何も知らないままだ。
「それでも、知りたいと思ってはいけませんか? 辛いことがあるのなら、私は、一緒に背負いたいです」
「どうしてそこまで……」
ラファエルの顔から、すとんと表情が抜け落ちた。
ミシェルは勇気を振り絞って、まっすぐにアメジストの瞳を見つめた。テディベアよりも透きとおった紫が、無垢な輝きを持ってそこにある。
「私が、ラファエル様を好きだからです。貴方に恋をしているからです」
好きだから知りたい。側にいたい。
辛いことがあるのなら、隣で支えていきたい。
そう思うことは、きっと自然な心の動きだ。
ラファエルは息を呑んで、ミシェルの手を離した。
◇ ◇ ◇
ラファエルの頭の中が、ミシェルの言葉でいっぱいになる。
好き。恋をしている。そんな陳腐な愛の言葉は、これまでに何度も聞いてきた。
それなのに、どうして。
「……私のことなんて、何も知らないでしょう」
さっきまで見ていたミシェルの目を見るだけの勇気が、今はない。
「そうかもしれません。でも、私と過ごすために時間を作ってくださっていることや、悪意から庇ってくださったこと。それに……私が死なないように気を配ってくださっていることは、知っています」
「気付いて、いたのか……」
「レターオープナーすらないのですもの。気付かない筈がありませんわ」
ミシェルが苦笑する。
ミシェルの部屋には、一通りのものを揃えていた。家具も、文房具も、雑貨も、何不自由なく過ごせるようにしていた。しかし寝室に置く水差しとコップは銀製のものにしていたし、ペーパーナイフを含む刃物は一切置いていない。
ガラスやカトラリーを使うときは、必ず側に誰かがいるようにさせてきた。
ラファエルのそんないきすぎた行動に、ミシェルは気付いていたのだ。
「ごめんね。君に黙って、そんなことをして」
「構いませんよ。ラファエル様は、私を心配してくださったのでしょう?」
ミシェルの言う通りだが、そうではない。
ラファエルがミシェルに過保護にしていたのは、ラファエル自身のためなのだ。
「──……ミシェルは、私を誤解しているよ」
好意的に誤解され続けると恋心すらも抱かせてしまうのかと、ラファエルは少し怖くなった。ミシェルに恋をされることは夫婦として正しいことのはずで、喜ぶべきことだ。
それなのに、今、ラファエルはミシェルに嫌われたくて仕方ない。
無垢で愛らしい自分の妻が、恐ろしかった。
「私は、自分の母を殺したんだ」
ミシェルが息を呑んだ音が聞こえる。
ラファエルはミシェルに背中を向けた。ミシェルに見せられる顔をしていないことは、ラファエル自身が一番よく知っている。
「母を殺した私が、代わりにミシェルを生かしたいと願った……滑稽な話だね」
ミシェルを幸せにしたいと言いながら、殺してしまった母を重ねていた。そうして笑うミシェルを見て、ラファエルは安堵していた。
ああ、生きていてくれている、と。
「ラファエル様がお母様を殺されたなんて、嘘です」
「どうしてそう思う?」
「だって。……あの温室は、いつも綺麗に保たれています!」
ラファエルは振り返った。
振り返って、しまった。
アクアマリンのように透きとおった瞳が、まっすぐにこちらを見ている。あまりに綺麗なその二つの宝石に、ラファエルの心の奥まで覗かれているかのようだ。
「……話してください。私はこの先誰かから聞かされるより、ラファエル様の言葉で、真実が知りたいです」
自分の保護者でもあるラファエルに強い態度で出て、もし拒絶されたら、どうなるか分からないというのに。それでも向き合おうと決意している、強い瞳だった。
このまだ年若い愛らしい少女は、この短い間に、こんなにも強くなったのか。
ラファエルはこれ以上隠したままではいられないと判断した。
隠していても、きっと探り出すだろう。ミシェルの言う通り、ラファエル自身の言葉で伝えるべきだった。
「私の両親が亡くなったのは、今から約四年半前──私が十九歳のときだ」
「はい。存じています」
流石にミシェルも知っていたか。当時はまだ若い当主夫婦の死に、陰謀説なども囁かれていた。
「父が死んだのは不幸な事故だった。馬車に轢かれそうになった子供を、助けたんだ」
あれはラファエルの父が一人で王都に買い物に出た帰りのことだった。騎士も一緒だったが、幼い頃は騎士に憧れていて腕に覚えがあった父は、あまり多くの人間を連れていなかった。
そして、目の前で飼い犬を追って駆け出した庶民の子供を庇い、馬車に轢かれてしまったのだ。
「父を撥ねたのは商人の馬車だった。処刑をという声もあったが、飛び出したのは父だ。母も、公爵家が庶民を処刑することを許さなかった」
貴族を害した場合、被害者側が望めばより厳しい刑罰の定めがある特別法が適用される。しかし残された母もラファエルも、厳罰は望まなかった。
飛び出したのは子供であり、父だ。馬車は普通に走っていただけで、危険な行動はしていない。
よって商人と御者にも刑罰は科されたが、貴族に対する特別法は適用されなかった。通常の馬車の事故と同様に処理され、二人とも今では普通の生活に戻っている。
「しかし、それから母はおかしくなってしまった。……温室に篭り、いつも薔薇の花を眺めていたのを覚えている」
ラファエルは思い出す。
両親が好きだった白薔薇がコンサバトリーを埋めたあの日。母は、ラファエルをその瞳に映さなくなった。




