2章 ミシェルの覚悟
御者が急いでくれたお陰で、馬車はあっという間に塔に着いてしまった。ミシェルが馬車から降りると、側にはやはり先程街で見かけた馬車が停まっている。
「──ああ、やっぱり」
ミシェルは俯いて、くしゃりと表情を歪めた。
もしここにこの馬車がなかったら、これ以上ミシェルから深入りをするのは止めようと思っていた。隠していたいことは誰にでもある。だから恋心を言い訳にしても、ラファエルが認めてくれるまでは踏み込まないようにしようと思っていた。
思っていたのに。
ラファエルがいるここに、ミシェルは来てしまったのだ。
「奥様!? どうしてここに──」
「ダミアン。貴方もここにいたのね」
ミシェルが顔を上げずに言うと、慌てた様子で馬車から降りてきたダミアンは口を噤んだ。きっとダミアンは、塔には登らずに待っているのだろう。
「上には、ラファエル様だけがいらっしゃるのね」
「その……奥様。あまり、深入りされない方がよろしいかと存じます」
ダミアンは、親切心で言ってくれているのだろう。
ミシェルは目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、ラファエルのいつもの微笑みだ。その裏側にあるものを、知りたい。それは恋心故だけではなく、妻として共に背負いたいという覚悟に裏付けされた思いだ。
目を開け、顔を上げる。
ダミアンと正面から向き合って、口を開いた。
「──……知っているわ。それでも、来たの」
ダミアンが溜息を吐く。
「でしたら、私はお止めいたしません。中にはラファエル様しかいませんので、お一人で行かれてください」
「ありがとう」
ミシェルはまだ馬車の中にいるエマに待っているように指示を出し、塔の入り口に向かう。中に螺旋階段があることは、前に来たときに知った。
長い階段は、まるでミシェルとラファエルの心の距離のようだ。まだずっと遠く、なかなか触れさせてもらえない。
そうではない。きっと、そうではないのだ。
ラファエルはその心に触れられないように、幾重にも包んで大切に大切に隠している。もしも触れたいのならば、知りたいのならば──ミシェルから手を伸ばすべきだ。
また一歩、階段を上る。
足が冷たい。冷えきった冬の石段のせいか、ミシェルが緊張しているせいか、どちらだろう。身体が冷たくなるにつれて、ラファエルに少しずつ近付いていた。
そして、最後の石段を上る。
ラファエルは地面に両膝をついて、鋸壁に立て掛けた白い薔薇の花束を見つめていた。
ミシェルが一歩近付くと、ラファエルが振り返る。その夕暮れのあわいの瞳にミシェルを捉えたラファエルは、迷子の子供のように無防備に顔を歪めた。
「──ミシェル」
今日は良く冷える。
いっそ雪でも降ってしまえば、もっと暖かいのだろうか。
「ラファエル様。……膝をついていては、お身体が冷えてしまいますよ?」
ミシェルはラファエルを怯えさせないよう、ゆっくりと近付く。いや、きっと怯えているのはミシェルの方だ。
怖くて、気を抜くと足が震えてしまいそうだった。それでも堪えているのは、ラファエルにそれを気付かれたくないからだ。
どうしてもミシェルは、ラファエルに受け入れられたかった。
「どうしてここにいるんだ?」
「街で、ラファエル様が乗る馬車を見かけたのです。後をつけるような真似をしたことは、謝りますわ」
「……君には、その権利があるね。嘘を吐いたのは私の方だ」
ラファエルは自嘲の笑みを浮かべて、すうっと視線を逸らす。その目が、薔薇の花を捉えた。
「ごめんね。帰ろうか」
ラファエルが立ち上がって、また微笑みの仮面を被る。ミシェルに差し出してくれた手はいつも通りに優しい。
しかしミシェルはその手を取らず、壁に向かって歩いた。
「……覚えていらっしゃいますか?」
「ミシェル?」
鋸壁の前で立ち止まったミシェルは、膝をついて白薔薇の花弁に触れる。指先は震えているが、きっとラファエルからは見えないだろう。
冷えきった床の温度すら感じないほど緊張していた。
「ここで私達が出会ってから、今日でちょうど二か月なのですよ」
振り返って見ると、ラファエルは目を伏せていた。その瞳はミシェルを見ていない。
ミシェルは立ち上がり、また一歩鋸壁に近付いた。
「あの日、私の代わりにここから落ちていったのも、同じ白薔薇でした」
手を伸ばして石を固めて作られた壁に触れると、やはりそれもひやりとしていた。
こんなに寒い場所に長くいるべきではない。
「──ラファエル様。私は貴方のことが知りたいです。話して、もらえませんか?」
ラファエルが顔を上げて、ようやくミシェルを瞳に映す。次の瞬間、目を見開いたラファエルは、ミシェルに駆け寄ってきた。
その手が、ミシェルの手首を強く掴む。
「ラファエル、様?」
「……そんなに壁に近付くものではないよ」
しっかりと掴まれているせいで分かりづらいが、ラファエルの手も震えている。
ラファエルはミシェルの瞳を見つめている。しかしその瞳の中にいるのは、本当にミシェルなのだろうか。
ラファエルは動揺をまた仮面の下に追いやった。




