2章 見覚えのある馬車
そのとき、ちょうど窓の前を一台の馬車が走っていった。やはり他の馬車と同じように、大きな道を走るときよりもゆっくりとした速さだ。だから、ミシェルにも中に乗っている人物の顔が見えた。
それでも直接会って何度も見ていなければ、気付かなかっただろう。
「──……ラファエル様?」
馬車は貴族の馬車らしく立派だったが、フェリエ公爵家の紋章は入っていない。王家のものでもない。護衛が何人か騎馬で並走しているから、高貴な人が乗っていると分かる。
それでは何の馬車だろう──と考えて、その外装にミシェルははっとした。
ミシェルがラファエルに出会ったときに、初めて乗った馬車だ。
「ミシェル様、お会計が終わりましたよ。大きいですから一度馬車に……って、どうかなさいましたか?」
「エマ。今、ラファエル様が──」
「え。旦那様って今日は一日王城にいて、出られないんじゃなかったですか?」
戻ってきたエマが、驚いたように窓の外を覗く。しかし馬車はもう見える場所にはいなかった。
「ええ。私も、そう聞いていたのだけど」
それでは、ラファエルは何故ここにいたのか。
ふつふつと湧き上がる疑問に、ミシェルは黙って蓋をしようとする。
「……なんでもないわ。次はどこに行きましょうか──って、エマ?」
エマが店の入り口で、早く早くと手を振っている。その目には何か炎のようなものがちらついているような気がした。
「何してるんですか、ミシェル様。早く馬車に戻って、追いかけますよ」
「え? でも」
ミシェルは困惑した。
人を探るなんて、したこともない。
「王城にいるなんて嘘を吐いて、どこに行くっていうんですか」
「じ、事情があるのかも」
「それはそのときです。ミシェル様は奥様なんですから、こういうときは追いかけてしまって良いと思います。ほら、行きますよ」
「あっ、エマ──」
焦れたエマがミシェルの元に戻ってきて、手首を掴まれる。そのまま引かれてしまえば、ミシェルはその手を振り払えない。
エマについて外に出ると、ミシェル達が乗ってきた馬車はいつの間にか店の側で待機してくれていたようだった。
すぐに乗り込んで扉を閉めると、エマが窓から御者に向かって指示を出す。
「ある馬車を追いかけたいんです。方向は──」
「待って」
ミシェルはエマを止めた。馬車が行った方角は分かるが、今からそれを追いかけるように指示をしたところで追いつく気がしない。見つけられるかどうかすら怪しいだろう。
それならばと、ミシェルは御者への指示を変える。
「……あの、塔に向かっていただけますか?」
「塔、でございますか?」
御者が不思議そうに言った。
ミシェルは頷いて、視線をそっとラファエルの馬車が消えた道の先に向ける。
「ええ。……ここからも見えるでしょう? あの高い塔まで。できるだけ早く、お願い」
御者が窓を閉めて、馬を走らせる。すぐにがらがらと車輪が回り始め、馬車は許される最大の速さで道を駆け抜けた。
それでもばねの効いた車内はそれなりに揺れが軽減されていて、少し気を付ければ会話をすることはできた。
「ミシェル様、何か心当たりでもあるんですか?」
エマが首を傾げている。
ミシェルは困ったように眉を下げて、口を開いた。
「ええ。さっきの馬車には公爵家の紋章はなかったのだけれど……私、知っているのよ」
きっとラファエルがお忍びで使うものだ。貴族であることは知られても、フェリエ公爵家の者だとは知られたくないときに使うのだろう。
フェリエ公爵家には、普段は使われていないものや、来客に使うもの、使用人が買い物に使うものなど、いくつもの馬車がある。その全ての外装を、ミシェルはまだ覚えていなかった。
そんなミシェルでも、あの馬車だけは、見間違えることはない。
「私が初めてラファエル様に会ったとき、あの馬車を使っていたの」
「──それでは」
エマが息を呑む。
「だから、あの塔に向かっていらっしゃるのかもしれないと思ったの」
ミシェルは確信に近い自信を持って言う。
普通の人間は、用事のない日に、あんな場所にはいかない。
幽霊が出るという噂以外に何もない塔だ。
だからこそ、多忙なラファエルが飛び降りようとしたミシェルを引き止めてくれた奇跡が、必然のように思えてならない。
ラファエルには、あの日、白い薔薇の花束を持ってあの塔に行く用事があったのだ。
エマが、それまでの勢いが嘘のように肩を落とした。
「……申し訳ございません」
「エマ?」
「旦那様は、誰にも話したくなさそうでしたよね……」
エマはよく人を見ている。それはオードラン伯爵家での日々で身につけたものではなく、たくさんの家族に囲まれて育ったが故のものだった。
エマはラファエルに救ってもらった恩がある。
明らかに何らかの深刻な事情があるラファエルを問い詰めようと言ったことに対して、迷っているようだった。
ミシェルは目を伏せて、ラファエルのことを想った。
まだ数か月だけでも、側にいて、恋をした相手のことを。
「──……良いわ。私も、もう、これ以上知らずにはいられないもの」
それだけ言って、ミシェルは口を噤んだ。




